カテゴリー「日本100名城」の92件の記事

2023年4月12日 (水)

米子城址の大規模な木の伐採

 1年前に山陰の日本100名城スタンプラリーで米子市の湊山公園案内図の続日本100名城の米子城址を登城してきましたが昨日のニュースで米子城址の大規模な木の伐採が問題視されたニュースを見て一年前の自然豊かな米子城址を思い起こしました。
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全国から注目“米子城跡”の整備に危惧の声 米子市長「丁寧な情報提供は必要だったと反省しています」 鳥取県米子市
日本海テレビ によるストーリー • 昨日 18:22の記事

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日本海テレビより転載 伐採された樹木
最強の城に市民から懸念の声が上がった。鳥取県米子市が実施した米子城跡の整備に伴う大規模な木の伐採について、市民から森林破壊や防災面などで心配の声がきかれている。これに対して米子市長は…(日本海テレビ)

米子市 伊木隆司市長談

「適切に(城)山には、手を入れていかないといけない。このあたりも含めて、もう少し市民の皆さまに理解を促進していくためにも我々からの丁寧な情報提供は必要だったと反省しています」

この問題の舞台となっているのが、大パノラマなどの絶景が楽しめ最強の城として人気の“米子城跡”。米子市は城跡を整備するため、今年2月から3月中旬にかけて広いエリアで大規模な木の伐採を実施した。米子城跡で植物の観察会を行っているグループの代表松下順一さん。松下さんは、今回の大規模伐採は、城山に生息する貴重な多くの植物が失われかねないと指摘している。

米子城山の植物を愛する仲間 松下順一代表

「米子市が、こういう形で(樹木を)伐採されて、このあたり(県の絶滅危惧種の)キンランとかいろいろな植物があったりとか、やっぱり自然があって文化財も守られますので、土台がなくなったら何も残りませんよね」

このようなニュースと伐採された木材が登山道に積み重なって放置されている無残な様子と登山者には危険極まりない様子の写真が添付されていました。

以下は樹木伐採前の昨年5月16日の米子城址攻城の記録です

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登山道登り口には竹杖が設置されていましたので借用しました

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豊かな自然の中に米子城址の登山道、これらが伐採されたのか?

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道案内も豊かな自然の中に豊富にあります

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至る所に案内板があり天守台まで迷わず登れます

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米子城址の登山道にある植物と野鳥の看板

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このような坂道もありました
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米子城址の天守台石垣
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鉄御門跡
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本丸跡
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本丸跡からの中海などの景観
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水手御門跡
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番所跡 これらの樹木が伐採されていない事を祈るばかりです

2022年8月 2日 (火)

日本100名城No.94大分府内城

 日本100名城No.94大分府内城。大分市荷揚町に所在する「府内城」(荷揚城)は、府内藩主の居館および武家屋敷により構成された、近世城郭の特徴を色濃く残す城です。大分川と住吉川に挟まれ、かつて海辺に面した府内城は、白土の塀と、まるで水上に浮かぶその姿から、「白雉(はくち)城」とも呼ばれています。府内城は、大友氏が国を去った後、豊後を治めていた早川氏に続き、府内に入った福原直高により、築城が行われ、その後竹中重利により、現在の府内城の形が出来ました。府内城下町も同じ時期に形成され、今の大分市街地のおおよその形は、この頃に作られました。(大分市HPより掲載)

登城日7月18日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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江戸時代の府内城の地図「本丸・二之丸部分」大分市教育委員会発行 府内城ウォーキングマップより

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現在の府内城跡の地図「大分城址公園」大手門でスタンプをしてから府内城ウォーキングマップを頼りに歩き始める

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西之丸角櫓(二階櫓)

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大手門と西之丸角櫓

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平櫓

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大手門、ここで100名城のスタンプとウォーキングマップを入手

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宗門櫓

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城内からの西之丸角櫓と白壁

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大分城址公園 案内板 撮影位置

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内堀

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二階櫓石垣の内堀

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拡大するとアオサギが堀の獲物を狙っていた

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廊下橋前の冠木門

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本丸址・本丸櫓台(左)と天守台(右)

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天守台

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天守台からの廊下橋、橋は床を外して敵の侵入を防ぐ構造でした

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天守台からの人質櫓

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人質櫓

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二階櫓

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北東角の二階櫓

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水手口の内堀

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帯曲輪

府内城ウォーキングマップによる攻城でした。

四国は四県九城の日本100名城の城廻りでした。九州の県は九州といえども七県、7月13日から福岡県の福岡城を皮切りに大野城、反時計回りに、佐賀県の吉野ヶ里・名護屋城・佐賀城、長崎県の平戸城・島原城と周り、熊本県は雨の中で復興した熊本城に登城後に加藤神社に参拝して、二年前の球磨川洪水被害の人吉城跡へ歴史資料館は未だに閉館中、肥後熊本から薩摩の鹿児島城へ、ついでにJR最南端の西大山駅をロケして指宿観光、薩摩から日向の飫肥城と岡城へ、ゴールは7月18日の豊後の国、大分府内城で九州13城のスタンプラリーを完了しました。

 

2022年8月 1日 (月)

日本100名城No.95岡城

 日本100名城No.95岡城。岡城跡は、大分県竹田市天神山の標高325mの高さにそびえ立つ堅城。文禄3年(1594)に豊臣秀吉の命でこの地にはいった岡藩初代藩主中川秀成(なかがわひでしげ)が石垣づくりのお城にした。現在も石垣補修や環境整備のため有料となっています。料金所(駐車場)から大手門跡までの坂道を登り、城内の役所・家老屋敷跡を横目に三の丸・二の丸・本丸まで往復40分(最短コースの場合)。本丸からくじゅう連山を、西の丸からは阿蘇山と城下町を一望でき、二の丸には「荒城の月」の作曲者 瀧廉太郎像(朝倉文夫作)があります。
(たけ旅HPより)
瀧廉太郎銅像の背後は柵の無い高石垣の真上、めまいする程高い石垣の上で、よろめき老人は近寄ると危険です。

登城日7月17日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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岡城跡の御城印、岡城の御城印は岡藩主中川氏の家紋「中川柏」を中央にあしらう。

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史跡 岡城阯

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大手門跡までの上り坂

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大手門跡

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大手門跡

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古大手門跡

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岡城跡案内図

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貫木門跡

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太鼓櫓跡

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小三階櫓台の石垣

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三の丸跡

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二の丸跡

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荒廃していた岡城跡の詩”荒城の月”作曲者 瀧廉太郎銅像

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瀧廉太郎像の背後は絶壁の高石垣、ふらつく老人は近づくと危険

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阿蘇の幻想的な景色

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月見櫓跡

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岡城跡の来歴

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岡城天満神社

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天満神社の天井絵

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金倉跡

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御三階櫓跡(天守の代わり)

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本丸跡

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本丸阯

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本丸址からの風景

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城代屋敷跡

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家老屋敷跡

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西の丸跡 ここを最後に上って来た坂道を下り下城する

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出発した総役所跡の料金所へ100分間登城に使用した竹杖を返却して岡城跡攻城を〆る。次はいよいよ九州を福岡城から反時計回り巡った最終地の大分県大分市の大分府内城である。

2022年7月31日 (日)

日本100名城No.96飫肥城

 日本100名城No.96飫肥城。九州の小京都と呼ばれる飫肥城城下町の 飫肥観光駐車場を利用して伊東藩五万一千石の飫肥城跡を攻城を開始する。大手門から飫肥城歴史資料館・松尾丸、豫章館・旧本丸と散策。旧本丸の虎口と飫肥杉の苔むした景観が素晴らしい。天守閣は無かった飫肥城跡。

登城日7月17日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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飫肥城の御城印、左の朱色の飫肥城印は添付されていたものを御城印に貼付した。伊東家の家紋は庵木瓜の紋と月に星九曜の紋。

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伊東家は鎌倉時代より伊豆国からの武家

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飫肥城観光駐車場に停めて飫肥城大手門に向かい登城開始、大手門以外は有料施設が多い①~④の湯量施設のチケットを購入して探訪する。

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飫肥城大手門

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大手門の説明、正徳三年の礎石の説明もある

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大手門の内側にある正徳三年の礎石の碑文

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大手門の内側

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大手門の内側

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歴史資料館へ向かう

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歴史資料館の石段と石垣

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飫肥城歴史資料館玄関

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伊東家に関わる展示品の一部

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飫肥藩のお殿様ファミリーベスト9

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旧本丸の虎口

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飫肥城旧本丸の説明

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旧本丸

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旧本丸の飫肥杉

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旧本丸の飫肥杉

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旧本丸北虎口の門(復元)

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北虎口門から旧本丸への石段

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松尾丸の玄関

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松尾丸の玄関

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松尾丸、四つの角にあるしあわせ杉、中心に立つと幸せになるとか

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大手門西の土塁

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豫章館

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豫章館の飾り

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豫章館の七夕飾り

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小村寿太郎記念館に飫肥城跡に関する資料はなしで省略

 

 

 

 

2022年7月30日 (土)

日本100名城No.97鹿児島城

 日本100名城No.97鹿児島城。鹿児島城跡は,初代薩摩藩主島津家久が,関ヶ原の合戦直後の慶長6(1601)年頃に築城を始めた島津氏の居城です。城の正式名称は「鹿児島城」で,「鶴丸城」の呼称は,背後の城山にちなんで呼ばれるようになりました。鹿児島城跡では1965年(昭和40年)の57年前の九州一周新婚旅行で見慣れた上野公園の犬連れの西郷隆盛像とは異なる軍服姿の西郷隆盛像を異様に感じた想いが甦りました。

登城日7月16日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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鹿児島城(鶴丸)城跡 総合案内

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鹿児島(鶴丸)城跡の本丸跡に建てられた鹿児島県歴史資料センター黎明館の駐車場に車を入れて黎明館の総合案内でスタンプを完了、鹿児島城の御城印は販売しておりません。館内の一部を見学して復元した御楼門から西郷隆盛像まで探訪する。

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御角櫓跡

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庭園跡
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復元した御楼門の鯱瓦
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御楼門の鬼瓦
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天璋院篤姫の像
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天璋院篤姫の碑文

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御楼門前の桝形の石垣

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西南戦争の傷跡、砲弾の跡が無残にも無数に残る

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史跡 鶴丸城跡の石碑と石橋と復元した御楼門

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鶴丸城の歴史

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御楼門・石橋・堀の蓮

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石垣と堀

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算木積み

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亀甲積み

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金場取残積み

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鹿児島城の石文化 三通りの石積み

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最後に300m左の西郷隆盛銅像へ向かう

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西郷隆盛像

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最後に西郷隆盛像 三枚の写真で鹿児島城跡(鶴丸城)を後にして宮崎県の飫肥城に向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月29日 (金)

日本100名城No.93人吉城

 日本100名城No.93人吉城。国の史跡に指定されている人吉城跡は、清流球磨川のほとりにあります。鎌倉時代から球磨地方を治めた相良氏歴代の居城として、670年の長い歴史があります。遺構としては、はね出し石垣と井戸のある地下室の遺構が珍しいと思います。

登城日7月16日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

日本三大急流のひとつに数えられる球磨川に面した人吉城の総曲輪に復元された角櫓・長塀と、後方の小高い丘に残る石垣群は「高御城(たかおしろ)」と呼ばれた本丸・二の丸・三の丸などの本城(内城)が築かれている詰城部分。

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御館跡庭園 城主相良氏の居宅が置かれて藩政の中心の場所

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御館(みたち)跡庭園の説明

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散歩する人に人吉城の一番の見どころを尋ねると「はね出し石垣」と答えたので車で渡って来た水の手橋に戻り、小高い山の上に在る本丸・二の丸・三の丸などの手前、球磨川沿いの石垣・瓦葺白壁の方向から攻城開始。

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左奥の舟着場と白壁とはね出し石垣

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船着場と御下門付近

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はね出し石垣、石垣の上部に石材が突きだす珍しい石垣

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はね出し石垣(武者返し)ヨーロッパの築城技術と言われる

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史跡 人吉城跡 説明板

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人吉歴史館は二年前の洪水被害で大井戸遺構は閉館中であった

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閉館中のガラス窓からの大井戸遺構、ガラスの反射が邪魔する

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大井戸遺構の説明板の写真

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大井戸遺構の後方、大台所跡・御厩跡と思われる跡

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大台所跡・御厩跡の説明板

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後口馬場の井戸跡、上に見える人吉城歴史館は二年前の水害以降は閉館中で地下室にある謎の石造りの遺構は見学できませんでした。

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後口馬場の井戸跡 説明板

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下井戸跡

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大手門跡と大手門横長櫓(多門櫓)城内より

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大手門跡

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大手門横長櫓(多門櫓) 球磨川の支流・胸川の対岸より撮影

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大手門横長櫓(多門櫓)と隅櫓の間を繋ぐ長塀は瓦葺漆喰白壁の下部は平瓦を張り付けた海鼠壁

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球磨川と胸川の合流付近、復元した隅櫓(角櫓)

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球磨川との合流点から胸川沿いに隅櫓と上流は横長櫓(多門櫓)

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人吉城は中世城郭の特色を色濃く残す、相良氏歴代の居城です。

はね出し石垣は五稜郭にもあるとの情報で、日本100名城No.2西洋の技術で造られた五稜郭を見直すと確かに石垣の上部がはね出しの石が見られました。桜ばかり気にしていましたが西洋の技術であることを確認しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月28日 (木)

日本100名城No.92熊本城

 日本100名城No.92熊本城。熊本城は慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じた、名城熊本城が完成します。以後、熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台となっていきます。二代目の加藤忠広から寛永9年(1632)に細川忠利が藩主として入城、細川氏、宮本武蔵、谷干城など歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げる熊本城400年の歴史がある。廃藩置県後、熊本城には鎮西鎮台が置かれ、明治10(1877)年西南戦争の戦地となり、開戦直前の火災により天守・本丸御殿一帯が焼失してしまいます。第二次世界大戦後には市民をはじめ天守再建の気運が高まり、昭和35(1960)年に大小天守が鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元されました。(熊本城公式HP)
九州入りした7月13日から曇り空と小雨に見舞われたがとうとう、九州地区で一番期待した災害から復興した熊本城は雨の中であった。昭和35年に大小天守閣が復元された5年後に新婚旅行で初めて熊本城を観光したのは、57年前の東京オリンピックの翌年、昭和40年(1965)青空の下に大小の天守が輝いていた。しかし、雨天は傘をさしながら城郭を隅から隅まで攻城する気力を殺いでしまう。

登城日7月15日 雨天

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加藤清正の武将印、熊本城築城主である加藤清正の名前・家紋・花押・座右の銘が入った「武将印」。 加藤家の家紋は「蛇の目」と「桔梗」紋、御城印は熊本城を築城した加藤氏の家紋「蛇の目紋」(左)と加藤氏の後に城主となった細川氏の家紋「九曜紋」(右)があしらわれたデザインです。

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加藤神社は加藤清正を主神とする神社で、土木建築や勝運にご利益があるとされています。正式名称は錦山神社(にしきやまじんじゃ)ですが、一般に加藤神社と呼ばれています。清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があった日蓮宗の名刹・本妙寺が、1871年(明治4年)の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺としてわけられ、社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社として建立されました。

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雨天の大小天守閣 画面の左上はビニール傘の骨が入る

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雨天の平左衛門丸

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横手五郎の首掛石

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熊本城跡MAP

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天守閣復旧のあゆみ 説明板

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天守閣入口は右の小天守、出口は左の大天守

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雨天の熊本城おもてなし武将隊も傘をさしてマスク姿

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小天守の入口への通路を傘をさして急ぐ

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6F展望フロアまで上るエレベーターで1階ごとに上がる

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熊本城天守と主な天守との比較

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天守の模型

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天守の飾り、鯱瓦

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二代目城主 加藤忠広

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6F展望 南 外の景色は雨天で真っ白

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6F 西の景色の写真

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西方面の雨天の実写

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東の写真 実写は真っ白な空間でした

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北の写真 実写は撮れませんでした

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熊本藩主は寛永9年(1632)加藤家から細川家にかわる、6Fからエレベーターで1階に降りて天守閣探訪を終了

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南大手門 雨の中近づく元気なし、駐車場へ戻る

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城内の加藤神社へ参拝

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加藤神社境内からの熊本城天守

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加藤神社境内の天守閣の写真撮影スポット

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撮影スポットからの天守閣が最後の写真となる

それなりに元気で歩いた七十代から八十代になって二年、年齢を重ねるにつれて、歩行機能が衰えてきた。歩幅が狭くなり、足を上げる速度も遅くなり、歩行速度や歩行距離が低下したと自覚している。雨天は更に傘をさし、ぶら下げたカメラを濡らさないことも必要で攻城する範囲も狭くなる。青空の熊本城を撮りたかった!

 

 

 

 

2022年7月27日 (水)

日本100名城No.91島原城

 日本100名城No.91島原城。島原城は1618(元和4)年から、松倉豊後守重政が4年ないし7年の歳月をかけて築いたものです。五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でした。それ以来約250年間、4氏19代の居城として、数多くの物語が生まれました。

登城日7月15日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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松倉家の家紋「九曜紋」のほか、高力家の家紋「四方木瓜」、戸田家の家紋「六つ星」、深溝松平家の家紋「重ね扇」と歴代城主の家紋がデザインされている。

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島原城は復興天守閣の下まで駐車できる唯一の城、早朝は他車は見えない、AM7:30に到着するが9時からの開城時間まで天守閣の周囲を攻城してみた。

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島原城案内図

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西の三重櫓

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お城の鐘

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島原城御馬見所

 

 

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地元の北村西望先生の彫像と巽の櫓(西望記念館)

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天草四郎と巽の櫓(西望記念館)

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巽の櫓と彫像

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狭間、後方は丑寅の櫓

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丑寅の櫓の石垣と内堀

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丑寅の櫓(民具資料館)

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島原城天守閣外壁等改修工事・令和4年7月4日~5年2月28日

「島原城」の工事について、 本市のシンボルである島原城は2024年(令和6年)に築城400年を迎えることから、島原城及び周辺の整備を進めております。 その事業の一環として、島原城天守閣外壁等改修工事を実施します。期間中、市民及び観光客の皆様方には、騒音や工事車両等においてご迷惑をお掛けしますが、ご理解とご協力をお願いします。 ※なお、期間中も島原城は、天守閣や敷地内櫓等、通常通り開館しております。9時より天守閣へ入城

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天草四郎 陣中旗 天守閣はキリシタン資料館

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天守閣二階

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天守閣三階

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天守閣四階

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天守閣5階

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天守からの眺望(生憎の曇り空)東

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天守 西の眺望 普賢岳方面

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天守からの南の眺望

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天守から北の眺望 城の縄張りが分かる

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下城後の島原城天守閣

 

 

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抜け穴伝説の石垣

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抜け穴伝説の説明

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根毛穴伝説の石垣が白く見える

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石垣と内堀

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 三重の瓦葺白壁の狭間と石垣と堀の堅固な島原城を曇り空の中で7:30~9:30まで二時間の攻城でした。

 

2022年7月26日 (火)

日本100名城No.90平戸城

 日本100名城No.90平戸城。 平戸城(ひらどじょう)は、肥前国松浦郡平戸(現・長崎県平戸市)にあった城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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御城印は松浦家の家紋である梶の葉に、堂々とした平戸城の文字。書道日本一の賞を12回も受賞されている、樋口友紀(晟瑤)さんの文字。

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乾櫓

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北虎口門(現存する遺構)

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天守閣への石段

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狸櫓(現存する遺構)

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天守閣へ登城する石段

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天守閣

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天守閣入口

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1718年再築城時の「鯱瓦」と松浦家家紋「梶の葉」紋額

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展示品の甲冑

 

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天守閣5Fからの見奏櫓

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懐柔櫓

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絶景の5F

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生憎の曇り空、中央の赤い橋は平戸大橋

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天守からの絶景、赤い屋根の対岸の白い建物はオランダ商館

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天守からの絶景は眼下の平戸港

 

2022年7月25日 (月)

日本100名城No.89佐賀城

  日本100名城No.89佐賀城は、「葉隠:はがくれ」を生んだ鍋島氏の城、慶長13年(1608)戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を、鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築城した。四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城。

登城日7月14日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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佐賀城の御城印、鍋島氏の家紋は「鍋島花杏葉」

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佐賀城公園本丸歴史館周辺図

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鯱の門左端の銅像は鍋島藩十代藩主鍋島直正公

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続櫓と鯱の門

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本丸内からの鯱の門

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天守台石垣

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天守台石垣

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天守台への石段

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天守台跡

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天守台の石垣

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南濠の石垣

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南濠

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幅の広い南濠

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本丸歴史館玄関

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本丸歴史館玄関前の24ポンドカノン砲(複製)

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佐賀藩10代藩主鍋島直正の鋳造したカノン砲の来歴

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本丸歴史館(鍋島直正の再建した佐賀城本丸御殿の復元)案内

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北廊下

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広間の一部

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鍋島侍の生き方を説く「葉隠」の内容

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鍋島直正姻戚相関図

10代藩主鍋島直正公の功績と葉隠を生んだ鍋島氏の城跡でした。

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