2019年12月30日 (月)

日本100名城52 観音寺城

 日本100名城51安土城の次に近くにある隣の繖山(きぬがさやま)別名観音寺山の山頂にある観音寺城を攻城したが生憎の雨天で思うように攻めることが出来ない。

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安土山にある安土城、その隣の繖山の観音正寺の奥にある観音寺城

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有料道路を通り駐車場に車を置いて登ってきた急な石段を登り切り上から写した参道

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ここは西国三十三所第三十二番所の観音正寺の境内、案内図を見ても安土城の直ぐ近くであることが分かる、ここは西国三十三所第三十二番所の観音正寺の境内

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仁王門はないが仁王像が境内を守る

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観音正寺庫裡のスタンプ場所で捺印

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観音正寺の境内を進み左の観音寺城へ山道へ

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観音正寺の本堂左脇下にある観音寺城跡への山道を登る

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苔むした石垣のある山道を下りる

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台風や大雨の被害で通行止めがあるので雨天の中で大石垣跡は諦める

 

 

 

2019年12月28日 (土)

日本100名城51 安土城



 日本100名城巡りは、2018年5月に根室駅前のお土産店にある観光協会で千島桜の開花状況を調べている時に、目に入ったのが「日本城郭協会の日本100名城」のスタンプ帳でした。地元の根室にもあるアイヌ民族の城跡を含めて北海道に三ヶ所の日本100名城「根室半島チャシ跡群・五稜郭・松前城」の3城を皮切りに、日本100名城スタンプラリーを「人生百歳時代」の健活に歴史を学ぶ生涯学習のテーマ―の一つとして始めました。 

今年は台風の襲来でなかなか日程が定まらず、愛知県の天気予報を見て10月4日に新横浜を出発した、東名・新東名をドライブして浜松SAスマートICから出て国道1号浜名バイパスから国道42号で伊良湖崎の7km手前にある渥美の森まで313kmを6時間掛けて辿り着く、10月6日の午前中までここでタカの渡りを撮影して、午後から三重県伊賀市の伊賀上野城と翌日の7日に松坂市の松坂城をスタンプラリー、午後から滋賀県長浜市の小谷城と彦根市の彦根城を巡る琵琶湖畔の旅。8日は小雨の中を傘をさしながらの近江八幡市の安土城と観音寺城の山城登山となり、杖と傘を両手に厳しいスタンプラリーでした。9日は滋賀県近江八幡市から新横浜まで新名神・新東名424kmを走り、総走行距離約1300km五泊六日の車中泊の旅を無事ゴールした。この旅でマイカーは2年10ヶ月間に総走行距離5万3千キロを記録した。(この遠征後の10月15日よりホンダのミニバンSTEPWGN SPADAに乗り換えた)              

安土城は標高199mの安土山一帯にある織田信長(1534-82)の居城跡。国指定の特別史跡です。天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて完成しました。安土・桃山時代の幕開けとして築城されましたが、織田信長が倒れた本能寺の変後、焼失して石垣だけが残っています。安土山の南側には、堀が巡っていて往時の名残りを留めています。天主跡と本丸跡には礎石が、また二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長廟が残っています。天主閣跡から東へ少し下った黒金門跡(くろがねもんあと)付近には、壮大な石垣もあります。また、山の中腹には家臣団屋敷跡があり、山の尾根づたいに北へ行くと八角平や薬師平があります。城山の中心部への通路は、南正面から入る大手道のほかに、東門道、百々橋口道、搦手道などがあります。
 城の外面は各層が朱色・青色・あるいは白色、そして最上層は金色だったといいます。内部は、狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や、金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれています。わが国最初の本格的な天主の建築は、この安土城が始まりとされ、歴史上に名を残す名城跡です。滋賀県観光情報より

二つ月前の10月7日に安土城跡駐車場で野営して8日朝から攻城した記録。
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大手道跡安土町城郭資料館の安土城天主模型1/7と安土城ひな型1/20からも信長の絢爛豪華な型破りの城がうかがえる

 

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大手口石垣址

 

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大手門の石垣

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大手道の両側に階段状に家臣団の屋敷跡のひとつ

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焼失した信長の菩提寺総見寺はこの石垣の上に復元

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幅6m両側に溝がある入口にあった杖を借りて大手道を攻城する

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上から見た大手道

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安土城は急造したので所々に遺跡を使用、大手道の石仏

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豊臣秀吉が建立した二の丸跡の織田信長廟

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仏足石

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黒鉄門跡

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黒鉄門付近

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本丸跡

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本丸跡

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天主閣への石段・石垣

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天主台跡

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安土城だけは天守ではなく天主

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安土城で現存する建造物は総見寺の三重塔と仁王門だけ

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三重塔

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仁王門

 

2019年12月21日 (土)

日本100名城4 弘前城

 野鳥撮影の前はサクラを追いかけていた、日本さくら百選の弘前城は何回も通った有名なサクラの名所であった。日本100名城のなかで江戸時代の天守で現存するのは12天守、弘前城は東北唯一の天守が現存する。
弘前城は、現在の弘前市における弘前公園がそれにあたり、津軽統一を成し遂げた津軽為信(ためのぶ)によって慶長8年(1603年)に計画され、二代目信枚(のぶひら)が慶長15年(1610年)、築城に着手し、翌16年に完成しました。以後、弘前城は津軽氏の居城として、廃藩に到るまでの260年間、津軽藩政の中心地として使用されました。
弘前城は、東西約600m、南北約1000m、面積約50haの中に、三重の濠(ほり)と土塁(どるい)に囲まれた6つの郭(くるわ)から構成されています。 城内には、天守閣、櫓(やぐら)3棟、城門5棟が残され、いずれも重要文化財に指定されています。また、城跡は築城当初の形態が良くのこされており、昭和27年に国の史跡として指定を受けました。(弘前市HPより)

弘前市では、弘前城本丸の膨らんで崩れそうになった石垣修理に伴い、天守を約70m本丸の内側へと曳屋する工事を平成27年に実施しました。

 

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2005年5月6日 下乗橋からの満開の桜と弘前城天守と石垣・内濠

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 撮影日2005年5月4日 満開のソメイヨシノと天守

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2018年8月15日 既に天守は本丸の内側70mに曳屋で移動済でした

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2018年8月15日撮影 工事中の石垣と濠、下乗橋から撮影出来た弘前城天守は本丸方向へ70m曳屋で移動した弘前城天守は屋根の一部しか見えません

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曳屋70mで移動した天守

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工事中の本丸石垣修理作業と天守の見学台、この日は雨天で人影少なし

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見学台には4月22日~5月5日弘前さくらまつりのポスター展

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見学台から撮影した弘前城天守、5年後の石垣修理後に元の位置に曳屋で戻る予定(2021年)

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2018年8月15日 雨の中の石垣修理現場

これから後は2005年5月4~6日撮影の桜まつり弘前城の思い出

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2005年5月4日撮影 下乗橋からの弘前城

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内濠に写る弘前城、奥は下乗橋、この頃から本丸の石垣は膨らんでいるように思える

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本丸内濠のオシドリ

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外濠一面の花筏

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東門外濠

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東外濠

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西外濠

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辰巳櫓、この他に同じような形の丑寅櫓と未申櫓と三つの隅櫓

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夜間撮影の花筏

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下乗橋と夜の弘前城

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夜間撮影の弘前公園 撮影日2005年5月6日

 

 

 

 

2019年12月19日 (木)

日本100名城6 盛岡城

 昨年のお盆休みの東北地方旅行中に盛岡城址公園のもりおか歴史文化館で日本100名城のスタンプラリーを済ませた。当日は雨天で盛岡城址公園の石垣の一部しか撮影出来なかったがこの記事が下書きのまま一年以上も忘れていましたので完結しました。
2005年から始めた野鳥撮影の前は、現役引退後から始めた「サクラ観光巡り」で盛岡地方裁判所の庭に咲く有名な「石割ザクラ」の撮影に訪れたことがある盛岡市です。巨大な花崗岩を二つに割って成長して咲く樹齢400年ともいわれるエドヒガンは遠くまで撮影に来たかいがある桜の思い出があります。
2018年8月15日からのお盆休みの家族旅行で青森県の三内丸山・鶴の舞橋・弘前城などを観光した翌日雨天の16日に日本100名城6番目の岩手県盛岡市の南部氏が築いた総石垣の城跡に立ち寄りました。

南部藩主の居城であった盛岡城の旧跡。盛岡城は28代藩主重直の時代寛永10年(1633)に完成。北上川、雫石川、中津川を自然の壕に利用した平城で、不来方城とも呼ばれた。現在は石垣や池が残り、盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)として四季を通じて市民に親しまれている。

盛岡城は,三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(なんぶのぶなお:盛岡藩初代藩主)が,慶長2年(1597年)に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を始めたと伝えられ,翌慶長3年(1598年)の正式許可の後,築城工事が本格的に進められました。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ,北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪(こしくるわ)などを配し,それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(うちくるわ)=御城内(ごじょうない)としています。さらに,内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み,南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪(そとくるわ)としました。また,外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下を堀で囲み,武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(とおくるわ)=総構(そうがまえ)が配置されています。
築城工事は,北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ,築城開始から36年後の寛永10年(1633年)に南部重直(しげなお)が入城して以降,藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。(盛岡市HPより)

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「日本100名城に行こう」6盛岡城より転載

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南部家の家紋「なんぶづる=対い鶴に九曜」と甲冑

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雨天の日に、スタンプのあるもりおか歴史文化館を見物中に撮影

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右の二の丸石垣、左本丸の石垣、空堀を渡る赤い太鼓橋
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手前の二の丸から橋を渡り本丸へ
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盛岡城址公園の本丸跡

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この日は雨で公園内を隈なく歩き回れず撮影したのは石垣ばかり、見事な総石垣造りの盛岡城址でありました。

2019年12月18日 (水)

日本100名城14 水戸城

 二週間もブログの更新を見送り、最後に頂いたコメントの返信が公開(12月4日発信)されるのを待ちましたが一昨日ブログのシステムの確認で二週間待ち続けたコメントの返信がやっと公開されたのを確認しました。今回の原因不明のままですがシステムを変更してからの異変の一つと感じています。

歳の瀬も二週間と迫りましたが北海道撮影旅行の写真は未整理のまま今年も年を越えそのままお蔵入りの運命を迎えます。未整理の中で日本100名城の未整理がありましたのでこれだけは完結して令和2年の新年を迎えようと思います。
4月18日に北海道でアップロードした「国営ひたち海浜公園のネモフィラ」の撮影後に車で30分の水戸市内へ、日本三名園の偕楽園は過去に2,3回観光していますが徳川御三家の水戸城は初です。日本100名城14 水戸城のスタンプをゲットしてから大洗港から苫小牧港行のフェリーに乗船しました。

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 撮影日2019年4月16日 国営ひたち海浜公園の春のネモフィラ、今頃は秋のコキアで赤く染まっていると思われます。
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苫小牧に出発前に水戸城址に立ち寄り日本100名城のスタンプラリー、水戸城址の本丸・二の丸・三の丸などの城址は幼稚園・小学校・中学校・高等学校が建っている。

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2019・4・16 撮影時は大手門復元の工事中でした。

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2019年9月に完成しました(水戸市HPより)右は二の丸側の写真

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「開校・彰考館」プロジェクトの資料より抜粋・転載、お馴染みの水戸黄門様は二代藩主水戸光圀、藩校の彰考館と偕楽園を造った水戸齊昭は9代藩主

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大手門橋を渡った右手に9代藩主水戸齊昭(なりあき)の銅像、江戸幕府最後の将軍15代徳川慶喜の実父。
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スタンプは弘道館料金所窓口にある
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常陸水戸藩9代藩主 水戸齊昭の建てた藩校の弘道館

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大手門橋からの右手の土塁と下の切通し
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工事中の大手門を通り二の丸側の風景

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大日本史の編集所の彰考館跡

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石垣の代わりに二の丸と本丸の間のJR水郡線が走る深い土塁跡の堀底、御三家でありながら天守の代用として三重五階の御三階櫓(おさんかいやぐら)

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土塁と堀で守られた御三家の城

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本丸跡の県立水戸第一高校内に復元移築された現存する唯一の遺構の薬医門(橋詰門)
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薬医門

 

 

2019年10月21日 (月)

日本100名城50 彦根城

 前ブログの小谷城跡(10月7日)から遠望された日本100名城50 彦根城は天守が国宝にされた五城(犬山城・松本城・姫路城・松江城)のひとつである。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。三重三層の天守の他に多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡である。幕末の開国の英雄”花の生涯”の井伊直弼の居城である。 

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国宝天守閣・彦根城案内図

 

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彦根城 三重三層の国宝天守、屋根は入母屋破風・唐破風・切妻破風と多彩

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二層目の金箔の飾金具が引き立つ

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天秤櫓

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天秤櫓下の堀切

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石垣と順路
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堀切からの天秤櫓の石垣(左)

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  太鼓門櫓

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天守入口

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天守内部の一部

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天守内部

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天守閣屋根瓦と景色
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天守の天井

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天守の国宝指定書
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西の丸三重櫓

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西の丸

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西の丸内部

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西の丸内部

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西の丸三重櫓からの景色

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西の丸三重櫓

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花の生涯記念碑

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1860年幕末の桜田門外で暗殺された開国の英雄”花の生涯”の彦根藩13代藩主・大老井伊直弼

一番大事なスタンプを捺す開国記念館の最終時間が4時半で終了するために大名庭園の玄宮園を見学する時間がなく、船でお濠を周遊する時間も無くなってしまいました。

 

 

 

 

2019年10月19日 (土)

日本100名城49 小谷城

 

 日本100名城49 小谷城は織田信長に滅ぼされた浅井家三代目の浅井長政は信長の妹お市と結婚して娘の三姉妹と暮らす居城であった。麓の清水谷と大広間・本丸・京極丸などが連郭式にならぶ曲輪群と大獄・山崎丸などの独立した曲輪で構成される巨大な山城で山の中には建物の遺構は残っていない。

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三重県松阪城址から滋賀県長浜市の小谷城址に移動して来ました。

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この日登城した人を山中で見かけた人は3,4人のみだった

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小谷城を攻撃する織田信長や羽柴秀吉の気持ちになって攻め上る、初めは番所跡
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番所の復元図
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更に攻め上る
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御茶屋跡
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馬洗池
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桜馬場跡

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琵琶湖 彦根城の遠望と長浜城があった処が見える

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黒金門跡

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大広間跡

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大広間跡から奥に本丸跡が見える

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本丸跡

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本丸を落とした後は山王丸を目指す

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大堀切跡
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中丸跡

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小丸跡

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大石垣

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山王丸跡

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ここまで攻めたがここから引き返す

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NHK大河ドラマ浅井三姉妹の放映記念

 

2019年10月15日 (火)

日本100名城48 松阪城

 松阪と言えば高級銘柄牛肉の松阪牛(まつさかうし)を連想するが松阪市の観光コースは蒲生氏郷が縄張りした石垣の城を巡る蒲生氏郷コースの「武将の道」、本居宣長コースの「国学の道」、三井高利コースの「豪商の道」などの松阪市の観光案内板が至る所にあり、豪華なパンフレットも充実しているので驚いた、流石は豪商の街である。今回は日本100名城に限定しての武将の道を観光した。

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松阪市観光情報センターでスタンプと観光案内を収集する。

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いつものように”日本100名城に行こう”スタンプ帳より

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松坂市役所文化課発行の国史跡 松坂城跡・表紙より(松阪城址の空撮と入口付近)

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国史跡 松坂城跡2頁目

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国史跡 松坂城跡3頁目

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国史跡 松阪城跡4頁目

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松阪城址の入口

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本丸の石垣
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本丸の石垣

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野面積の石垣

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本居宣長記念館手前の石垣

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本居宣長記念館

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中御門跡 屈曲した城内の通路が多い
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金の間櫓跡

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天守台跡

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天守閣跡
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天守台石垣に使われた石棺、古墳の上に建てられたので至る処に遺跡がある
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御城番屋敷の倉庫
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御城番屋敷 藩士の居宅が通路の両側に昔日の面影を残して20軒現存する

 

2019年10月14日 (月)

日本100名城47 伊賀上野城

 忍者の里と呼ばれる伊賀国、慶長13(1608)築城の名手藤堂高虎が筒井定次が築いた筒井故城を高石垣で囲み大拡張した城、現在の天守は昭和10年に地元の名士が私財を投じて木造の復興天守を再建した日本100名城47 伊賀上野城と伊賀上野は俳聖松尾芭蕉翁ゆかりのふるさとでもあります。

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伊賀文化産業協会パンフレットの表紙

 

 

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高さ30m日本一高いと言われる有名な高石垣

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高石垣の上まで恐々(こわごわ)近寄り撮影するが石垣と壕の界面まで写らず

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高石垣側よりの伊賀上野城

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正面からの二つの天守閣

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伊賀上野城の天守閣への入館は登閣料 金600円也

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天守閣への入口

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鯱の展示

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鯱の左脇・藤堂高虎の由緒

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一階の展示品

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豊臣秀吉から藤堂高虎が拝領した唐冠形兜(とうかんなりかぶと)

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一階の展示品の数々

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一階展示の兜

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一階の展示品 藤堂家の家紋・屋根瓦・鯱・槍など

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3階の格天井
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3階からの景色
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天守閣3階からの景色

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伊賀上野城登城の後は芭蕉翁記念館に立ち寄る

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展示室前のこの奥の細道の芭蕉翁旅姿以外は撮影禁止であった

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スタンプのみが芭蕉翁記念館の記念となった。

 

 

 

 

2019年9月30日 (月)

日本100名城39 岐阜城

 お城の人気ベスト10の岩村城を9時頃後にして、中央道・恵那ICから次に向かったのは同じ岐阜県の天下布武を宣言した信長の城、東海北陸道・関ICを降りて金華山トンネルを抜けると、金華山頂上にそびえる岐阜城近くの立体駐車場に到着したのは11時であった。岩村城登城と大黒岳登山の痛みと疲れが残っているので山頂の岐阜城まで登山の気持ちはあったが麓からのロープウェイの魅力には勝てず、山頂駅までの往復ぎふ金華山ロープウェー乗車券売り場に直行してしまった。15分間隔で発車するロープウェイは観光客で賑わい、登城してきた岩村城では夫婦連れ一組しか会わなかったがここでは城好きというよりも外国人を含めて一般の観光客で溢れていた。岐阜城はどうやら信長の遺産ともいえる観光の楽市楽座の賑わいと思われる。

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コンクリート造りの岐阜城

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金華山頂上に建つ岐阜城、右はロープウェイ頂上駅
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11時30分発のロープウェイからの岐阜市内
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天下第一の門 を通り本丸天守閣に向かう

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天守までの山道

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二ノ門

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狭間の壁と岐阜城

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コンクリート造りで復元された四層の天守

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天守への石段を登る

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野面積の天守台と天守閣

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左の登城口と正面のお城時計

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信長公

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信長公

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斎藤道三

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天守望楼からの岐阜市内を流れる清流長良川

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天守からの長良川と岐阜市内

1時間後の12時30分発ロープウェイで下山して、上郷SAで昼食休憩して名神・新東名などを走り、新横浜まで380kmの高速ドライブで18時30分頃に野鳥撮影と二ヶ所の日本100名城スタンプラリーを終えて、総走行距離970km六日間の旅を終えて帰浜した。因みに愛車は2年9ヶ月を経過して今年の北海道で1万3千キロを含めて総走行距離は5万キロをオーバーしている。

 

 

 

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