鷹狩り場と鴨場の史跡
この庭園は江戸時代には江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。承応3(1654年)徳川将軍家の鷹狩り場に、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。(中略)浜離宮には庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つの鴨場がありますが、築造は前者が安永7(1778年)、後者が寛政3(1791年)という古いもの、鴨場の池には幾筋かの引堀(細長い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら稗・粟などのエサをおとりのアヒルで引堀におびきよせ、機を見て土手の陰から双手網(さであみ)ですくいとる猟を行っていました(入園時の案内書より抜粋)明治維新後は皇室の離宮となり名称を「浜離宮」と変わりました。
新銭座鴨場(しんせんざかもば)の大覗(おおのぞき)、大覗では、池や鴨の様子を観察しました(現在の野鳥観察窓と同じ機能)。野生の鷹が池のそばにきていると鴨は落ち着きません。そんなときは、大覗に仕掛けがあり、おとりの鳩をそこに置き野生の鷹をおよびきよせて捕えます。
上の大覗の穴にカメラのレンズを差し込んで撮った新銭座鴨場(しんせんざかもば)の様子(カムフラージュの葦がレンズの視界を遮る)が、鴨は見えなかったので視界には居ないカモ。ここ浜離宮は潮入りの池を含めてオナガガモ・コガモ・マガモ・ホシハジロ・キンクロハジロなどの鴨がいます。
土手の中には小覗(このぞき)丸ではなく細い横長の窓
鴨場としての時代には元溜り(鴨がいる池)におとりのアヒルが放されています。秋から冬、野鴨が池に渡ってきます。板木を叩くと、アヒルが引堀に入ってきます。板木の音が響くと引堀に餌が撒かれてそれが食べられるので、入るようにしつけられているのです。野鴨はアヒルの後を追う習性があるのでつられて引堀に入ってきます。小覗では入ってくる野鴨の数を確認していますので必要数入ったらふいごを踏みます。ふいごを踏むと引堀の入り口が泡立つ仕組みになっており、鴨が入れなくなるのです。鴨を遠ざけててから引き起こし網をあげて入り口を閉めます。
小覗の右に壁に板木と木槌があります、これがアヒルに餌をあげる合図の音になります。竹筒の説明がなかったが多分、引き起こし網を引き揚げる綱が通っていた。
小覗を反対側から撮影した引掘、この引堀にアヒルを追って野鴨が入ってくる。内側の右にあった竹筒が外から見ると引堀の左上から中にも竹筒が延びていた。
引堀の先端、必要数の野鴨が入ったら先端に仕掛けてある引き起こし網を立ち上げる。このように準備が整ったら、鷹匠や狩りをする者に手信号で知らせます。鷹匠や狩りをする者が引堀を挟んで配置につきます。驚かされた鴨はびっくりして逃げ惑う。狩りをする者は拳に乗せている鷹を放ちます。鷹は空中で鴨を捕獲するのです。明治以降は双手網(さであみ)で捕獲するようになりました。双手網をかいくぐって空中高く逃げたものを鷹が捕りました、逃がすと仲間にこの池が危険なことを知らせてしまうからです。
上述の説明が小覗の左の壁にこのような説明書がぶら下がっていました。これを読んで説明文を書きました。
鴨塚の碑、昭和10年(1935)宮内省の鷹匠 戸部与四郎が捕獲された鴨たちを供養するために建てたものです。
歴代の鷹匠が心血をそそいで訓練した鷹狩りの主役になった鷹に関する歴史的な碑文がないのが鷹フアン(ソフトバンクホークスフアンにあらず)には寂しいと思いました。
« 鷹狩りの実演 | トップページ | 今シーズンのアオシギ »
「野鳥」カテゴリの記事
- シマエナガの寒中見舞い(2024.01.07)
- ブログの目標・野鳥400種撮影の回顧(2023.11.16)
- 江の島のハヤブサ巣立ち回顧録(2023.09.18)
- 利用可能ディスク容量は残り僅か (2023.09.03)
- 野鳥撮影の最初は公園のカワセミ(2023.08.11)
コメント