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2012年1月

2012年1月31日 (火)

雪の山道に画眉鳥

画眉鳥の前に賀美状の話です、賀状は華美になっても逆にカビが生えるような古臭さも拙いですね、それで野鳥写真で美しい賀状を目指して賀美状という造語を使いたいと思います。 今朝ははからずも朝日の天声人語と同じように早くも1月が尽きた話から始まりです。齢のせいか年々時の流れが早くなるような気します、もう1月が終わり早くも月末の晦日です、後10ヶ月で賀美状作成の秋(とき)が来ます。 リタイア後はそれまでの1/2以下に大幅に減量した年賀状だがそれでも昨年は200枚を作成した、会社関係は減ったが野鳥関係が毎年微量に増えるためである、安否確認のような賀状だけのお付き合いでもいろいろと楽しいものがある、同じ辰年の同い年の茅ヶ崎の友人からは自筆の絵の賀状を今年も戴いたが趣味の世界に生きる楽しさ嬉しさを報せてくれる。また楽しみのひとつにお年玉年賀状の抽選がある、当選番号が1月22日に発表されたが今年もいつもの年と同じく下二桁だけの当選であった、27と44が7枚あった、辰年年男にラッキーセブン!。その内の3枚は印刷が逆になった失敗、奥様が亡くなったのに宛名が連名のままであったのを出す前のチェックで気付き連名を削除して印刷し直した誤り、先輩に宛てた下二桁の44番が気に入らないので他の番号に替えて出した残り物から当選したものでした。当選番号を出さずに先輩に失礼をしましたと心の中で謝る。  毎年11月下旬頃から年賀欠礼状をいただくが多い年は20通前後の年もあった、いままでは大概は本人から両親や身内のご不幸があった欠礼状であったが最近は自分と同じ齢の方が亡くなり奥様からの欠礼状をいただいた時はいよいよ自分も旅立ちの仕度を考える年齢を感じた、7年前からは鳥友からの賀状が徐々に増えてきたが三十代の鳥友が亡くなった報せを母親から寒中見舞いでいただいた時は愕然とした、鳥撮りの時々メル友の先輩が亡くなった時はどこからもメールなどの情報は無かったが暫くして鳥撮り仲間から聞いた時は半年も過ぎていた、それからは便りが無いのは元気な知らせとは昔のことでメールが来ない、出さないは元気でない証と思うようになった、今年は鳥撮りをデビューした公園で颯爽と自転車で走り回っていたお世話になった温和で親切な鳥撮りの先輩の息子さんから父親が認知症が進み筆をとることもままならなく本人にかわり寒中見舞いをいただいた。ついこないだまで元気に鳥撮りを楽しんでおられた先輩の驚愕な姿を知り人生の儚さを思う。いつかは人生が終わるがその前に趣味の鳥撮りが終わるを知る。”情けは人の為ならず” 情けを報せると書いて情報とはよく言ったものだ。 人思えば我思わるる賀状かな。

先週末に国道20号線を景徳院入口から216号線にはいると一車線分を除雪している雪の山道を上り、上日川峠まで約10kmの地点を通過中に前方の道路中央でうずくまる鳥を発見した。

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上の六枚は先日見ていたTVショッピングで購入したOLYMPUSのコンデジSZ11、14メガピクセル、レンズ4.5~90mm、35mm換算25~500mm相当を試し撮り、鼻の中からの内視鏡でお世話になっている不祥事を起こしたオリンパスを応援するつもりで1万6千円の買い物をしたがメモ帳代わりには十分使える。

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道路中央で動かず蹲るガビチョウを発見、運転席から200-400mm+D300で撮影

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車から降りて近付くと2mくらい移動して除雪した右側でこの状態

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更に近付くと道端の壁にへばりつく

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また近付くと2~3m飛んでまた雪の中に蹲る、この後の写真は上のコンデジ写真の下の4枚がその後の写真となる、怪我をしているのか?餌がなくて弱っていたのか?長く飛んでも10m位であるが後ろから除雪車が来るので走り過ぎたが囀りで高名なガビチョウが鳴きもせず、目も伏目がちで弱弱しくその後に命が尽きたかどうかの確認は出来なかった。

昨日は各TV局が富士山周辺の異常現象として河口湖町の地震の報道をしていたが観光地であるだけに外国人(春節時期で中国・台湾が多い)のキャンセルが多かったと嘆き節の報道を見た、このブログの検索フレーズでも10位までに6件の検索があり、富士山周辺の異常現象は野鳥撮影者にも関心が高い話題となったようです。

2012年1月30日 (月)

富士山の異常現象と瑠璃鶲

富士山周辺は昨年から異常現象が起きていることが知られています、富士宮市では昨年9月から異常な量の湧き水が住宅街で溢れ出しているニュースをTVで見ていますが今も湧出しているようです、ネットでは蝙蝠の洞窟で例年よりも10倍以上多くのコウモリが冬眠している異常現象があるそうです。 日曜日の夕方4時過ぎに山梨・富士五湖で震度4の地震がありました、一昨日の土曜日に山中湖・旭ヶ丘・別荘地の雪一面の林の中で野鳥撮影中の7時39分に震度4の前震があり、その4分後の7時43分に震度5弱のかなり大きな震えが立て続けにおきて怖い体験をしてきました。 足元からの地鳴りは北富士演習場の大砲のようなドッドーンと音がして象十頭に襲われる「ぞっとう」した恐怖に襲われた。地震前にはキジが鳴く迷信みたいな話を聞いたことがあるが地震で揺れる木からカラスが鳴きながら飛び出す時に普段のカーカーではなくギャーギャーと恐怖の鳴き声に聞こえた、木々が上下から左右に大きく揺れた時は倒れてくるかと「木が気」ではなかった。古希を過ぎた年から林住期の佳境に住んでいると想っていたのが雪の地面や立ち木が震えている間は臨終期の終焉かと錯覚した、遊行期に入る前にいきなりの臨終期とは予想外・想定外であるがこれが天罰であれば最近読んだ作家・五木寛之の本の天命ともいえる。なにしろ「一色白雪」の急斜面の下にいると上の道路に除雪で積まれた雪の雪崩が起きる「一触即発」の落下の危機感が漂う。昨年からの富士山周辺の異常現象で富士山のお腹の中で冬眠中の「真っ赤な熊」、「マグマだまり」が動きだしたかとも想われた、これが事実ならばクマったことでは済まされない、地元も観光客も富士山ハザードマップの出番である。木にぶら下がっている寒暖計は零下8℃で地震の後は寒さで震えが来たので目的の瑠璃鶲の撮影もなんとか終わり9時には撮影を完了した。湖畔から仰ぎ見た霊峰は何事もなかったように凛としていたが富士山の異常現象で雪が少ないと想うのは単なる気のせいと思う。今年の富士山は雪が少なく「雪少淡白」でした。

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地震が起きる前の雪一面の中の木に7時28分に飛んで来たルリビタキ♂

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ここに移動した時も7時28分

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向きを変えたのも7時28分でした

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地震後の8時02分に来た♀

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凍てついた水場に来た♂、8時50分

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水場の後にここにとまる、8時50分の撮影後に地震とこの場の温度が-8℃で心身の居心地が好くないのでこの場を去りました。

この場所は雪で駐車余地どころかすれ違いも出来ないほどの雪道でしたが無理して止めた場所の除雪後の凍てついた残雪を車で押しのけるためにバンパーの下にあるプラスチック製のフロント・アンダーカバーとバンパーを止めるクイックボタンを全部破損する破目に遇いました。湖畔の駐車場から雪道を地道に上ってくるのが無難な場所です。

2012年1月29日 (日)

蔓梅擬と目白その2

花期の5,6月頃には目立たないツルウメモドキですが今の時期は周囲の落葉樹の葉が落ち、蔓梅擬も葉を落とした後も橙色の沢山の実が残り遠くからでも目立つ存在です、この時期はいろいろな野鳥の餌になっていますがメジロが一番絵になります。ハト・ツグミ・ヒヨドリも来ますがメジロが大きさと色が可愛いですね。ツルウメモドキは葉の形や若枝が梅に似ているからこの名があります。先日の続きで同じ日同じ場所のツルウメモドキと目白です。

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メジロが群れでツルウメモドキに採餌で群がっています

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この大きさがノントリです

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あちらこちらで実を咥えています

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垂れ下がっている実を縦撮りしてみました、ツルウメモドキが絡まっているのは梅の木です

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美味そうに見えます

 

2012年1月25日 (水)

蔓梅擬と目白

先日の初雪の日の後に雨となり、翌日の小谷戸の朝は蔓梅擬(ツルウメモドキ)が凍てついてましたが目白が朝餉にしていました。

撮影地 横浜市

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寒い朝でした

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ツルウメモドキに積もった雪が氷になっていた

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日の出直後なのでこんなに近くで撮れました

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ツルウメモドキが綺麗です

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ツルウメモドキが旨そうです

2012年1月23日 (月)

西伊豆・蛸丸の乗り初め式

西伊豆・仁科漁港の乗り初め式が例年通り行なわれたが元旦に「民宿おく」に家族と孫家族で一緒に宿泊したが二日の朝は元旦の堂ヶ島巡りの観光船も欠航するほどの荒波とは打って変わって快晴の凪であった、絶好の乗り初め式の朝である。朝食中に有線なのか街宣車からなのか9時40分から仁科港で乗り初め式の餅蒔きがあると外から聞こえてきた、例年と同じく期待していた乗り初め式が今年もあるのだ、孫を連れて9時15分頃にカメラをぶらさげて宿を出た。

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民宿から1分も掛からない沢田公園の前にある港に乗り初め式の当番となった4隻のうちの一艘が停泊していた、青空に青笹に国旗と蛸丸の大漁旗の晴れがましく風になびいていた。

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9時15分頃にはまだ誰も乗船していない様子であった。

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会場の漁協に向う内に9時20頃水門付近を歩いていると乗り初め式に向う蛸丸の勇壮な姿が見えた

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9時23分ごろの仁科港を疾走する蛸丸

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港に集まった見物人の前を乗り初め式の蛸丸

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9時30分頃餅蒔き会場に近付く海上の蛸丸

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トリミングした蛸丸

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餅蒔きに接岸前の蛸丸、西伊豆が好きで堂ヶ島にお店を開いた佐々木さんご夫婦とは面識がありませんが昨年の乗り初め式では恵漁丸に乗船され、今年はこの蛸丸で乗り初め式を体験された幸運なご夫婦です。

2012年1月22日 (日)

北北西に進路を取れ

アルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画の題名「北北西に進路を取れ」はヒッチコック・サスペンスを最初に観て楽しませて貰ったのは20代の頃だった、二枚目俳優のケィリー・グラントが熱演していた。 昨日は横浜でもボタ雪が降ってきた二十四節気の大寒であったが次の二十四節気は2月4日の立春である、その前日は生活や農作業に関わる年中行事の雑節の節分が二週間足らずで来る、関西方面から流行って来て定着してしまった恵方を向いて太巻きを丸かぶりする関西発祥の風習に節分が乗っ取られた行事となってしまった観がある、昔から邪気を払う鰯の頭とヒイラギを戸口に挿す風習は見られなくなり、家庭での豆まきや豆を食べる行事は我が家では昔話になり、最近はコンビニやスーパーで特設売り場を設けて販売している太巻きの恵方巻きに替わった、恵方巻きの予約開始をした回転すし屋の恵方巻きの幟が街道筋に目立つようになった昨今である。恵方巻きの食べ方にもルールがあり、太巻きは「福を巻き込む」「縁を切らさない」縁起を担いで切らずに恵方を向いて黙って丸かぶりする。今年の恵方は「壬(みずのえ)」の方角でほぼ「北北西」である。 袖黒鶴が塒から飛び出す方向も北北西であった、塒から北方面へ約5kmにある田んぼの採餌場所へ飛び立ちは北北西に進路をとる。今夜は「北北西」に因んだ三題話でした。

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北北西に進路を取れ

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田んぼの餌さ場で西向き

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陽の光が射す東向き

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一本足で袖黒を開く

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畦を越えて隣の土の田んぼへ

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最初の田んぼで餌さ探し

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根元まで土の中に嘴を入れての餌さ探し

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土と枯れ草でした!こんな無駄骨もあります

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嘴が土で黒く汚れる

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一本足で立ち長い足は痒いところに届くようです

2012年1月21日 (土)

袖黒鶴が翔んだ日

渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」の歌の出だし風に書くと「冬の遅い朝日が塒に射すと その時一羽の袖黒が翔んだ」こんなアレンジで今日のブログが始まる。今時の日の出は三日に1分の割合でゆっくりと日の出時間が早まるが二日続けて通った初日は曇り空であった、晴天の霹靂ならぬ曇天の嘆きの中でソデグロヅルは日の出の時刻と思われる6時52分頃の薄暗い空へ北北西の風に向って飛び立って行った、思い掛けない早朝の塒立ちであった、白鳥はまだ寝ているか寝惚け眼で水が張られた塒の田んぼの中でぼんやりとあたりを見回している頃である。まだ飛び立ちはないと判断してカメラのISOは静止画像を撮るように800にしていた時に突然水を張った田んぼの滑走路を走り出した、滑走路に横たわる邪魔な白鳥を避けながらの助走ではあるがいとも簡単に離陸したのだ。一枚目と二枚目がその時の寒さでブルブル震えて撮ったブレブレの写真です、これでは証拠写真にしかならないので、翌日の晴天に撮影したのが昨日の塒立ち前の写真のブログです。今日は昨日の続きの塒から助走後に飛び立った袖黒の飛翔の様子です。袖黒はこの塒から採餌場所の田んぼへ毎日のように翔んでいます。

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17日の曇天の日の出直後と思われる時間帯の塒立ち

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北西方向に民家の前を飛翔する曇天・早朝の飛翔、カメラの時間は6時52分であった。

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翌日の18日は晴天の日の出、塒の右端方向から昇るオレンジ色の空に太陽、時間は6時56分、手前の黒い人影は塒の前で待機しているカメラマン達です

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ねぐら立ち前にこんな姿勢をしました、陽の光を背に受けて離陸態勢に入ったようです

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滑走路には無数の白鳥が障害物です、この日は8時51分が塒立ちの時間でした、前日よりも2時間遅い飛翔です

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飛び出しは脚をすくめて空中へ

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民家を背景に低空で飛ぶ

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まだ低空です

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前日の17日と比較するとかなり低空飛行です

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ここまで来ても民家の一階部分の高さです

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ここから北西方向へ直線距離約4km車で約5kmの田んぼの採餌場へ飛んで行きました。この最初と最後一枚をトリムしたがあとは全てノントリです。

2012年1月20日 (金)

袖黒が撮れた!

年末の28日に成田市在住の鳥友から旧本埜村の白鳥渡来地付近にソデグロヅルの迷い鳥が入ったと情報を頂いたが既に2008年12月1日に数年ぶりに渡来した鹿児島県出水市のツル観察センターで撮影済みであったので感謝しつつも見送りした、08年は空路とレンタカーの遠征であったが午後から実家が鹿児島空港近くの溝辺町の実家に帰省していた相模原市の鳥友と合流して宿泊した民宿鶴見亭の隣の食堂兼みやげ物店の二階屋上からソデグロヅルの飛び立ちと飛翔を狙っていたが何故か200-400mmレンズが故障して撮り損なった、午前中は100mくらいの距離をテレコンをつけて撮影出来たのが肝心の袖黒が見えた時に撮れない不運に見舞われた、鳥友は絶好のチャンスが撮れたので親孝行で帰省したご褒美のようでした。こんな思い出が残ったソデグロヅルを追い続けて2009年と2010年と二年連続で今度は車で出水に出かけたがソデグロヅルは渡来してこなかった。世界的に希少種であり、北海道野鳥図鑑によれば推定2000~3000羽と言われる生息数であり毎年来るとは限らない迷鳥が昨年12月に宮古島にソデグロヅルの初渡来と今回の関東初渡来である。繁殖地のシベリアから越冬地の中国南部やインド北部への渡りの途中で群れとはぐれて日本へ迷い込んでくれた二羽同時の迷鳥である。年が明けてからブログにソデグロヅルが掲載されないためかご親切にも4,5回メールや携帯にソデグロヅルの情報を戴いたので薬疹の痒みが和らいだ三日前からソデグロヅルの撮影に遅まきながら参加しました。タイトルの袖黒が撮れた!4年前の想いを込めています、そして鳥撮りは今年も継続しています。出水の塒はツル観察センターから約500m離れた水を張った矩形の田んぼにナベヅル・マナヅルなどが密集している塒であり遠くて塒の写真は撮れないが本埜の白鳥給餌場の塒は近くから撮れるのが魅力であるが出水と異なり民家が近いのが難点である。

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薄氷が張った塒で一本足で立つ、頭の上を飛ぶオナガガモなどの水鳥に向って威嚇の様子、鳴き声は聞こえないが図鑑では「クロークロー」とある。

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この塒では一番背が高いせいか頭上を飛ぶ水鳥を嫌がるようだ

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寝ている白鳥越しにカメラの砲列を覗き見? こんな格好も滑稽である。

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朝日の方向に向って羽ばたきの瞬間に袖黒を初撮り

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更に大きくトリミング、頸に黄色味が残るのでまだ若いようだ。

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太陽にほえろ! 昔見た!TVの人気刑事ものだったかな?

写真は全て600+D3FXを適当にトリミングしてあります。

2012年1月19日 (木)

今更ですが今年の抱負

正月早々から肝臓が疲れていたのか気管支喘息の治療薬を飲んでから薬疹が出て全身が赤くなり痒く病み、心が闇の中にありました。2005年3月に日本野鳥の会に入会して野鳥撮影を始めてから今年の3月で七周年になる、ブログは2006年6月から開始して6月で六周年になります。サブタイトルの「セカンドステージの思いを行動に変えて、野鳥撮影で自己実現 、目標は国内400種。」今となっては管理社会から解き放たれた自由と歓びのあまりこの抱負と目標で5年半の間、東奔西走の如く野鳥撮影とブログを続けてきたが今にして思えば 「人生、そんなに急いでどこへ行く」のんびり楽しく暮らすのがコンセプトの林住期の半生を過ぎて失う一方の心の余裕でした、今まで元気で丈夫に過ごしてきてセカンドステージにも悠久の時があると思っていたが薬疹で全身が痒い痒いの日々を悶々として何もしたくない歯痒い毎日を過ごした後に来たものとは、病におそわれると早く快癒してほしい願いとともに自分に残された時間は限りがある、今までの淡い夢が消えて儚い余生を思い知らされる。 痒い全身の薬疹を搔きながら全身に痒み止めの軟膏を塗りながら難航しながらも野鳥撮影に没頭して来た7年間を反省する秋(とき)が来た想いがする。七年間も掛けて気づくのが遅すぎた感もするが趣味と旅行に忙しい人、生涯学習のつもりで野鳥と植物などを学ぶのに忙しい人、学習しながら毎日のブログを書くのに忙しい人であった。過去の自分は「セカンドステージの思いを行動に変えて、野鳥撮影で自己実現 、目標は国内400種。」このブログのサブタイトルで自縄自縛に陥り、自己の実現で身体は忙しく、目標達成に心が急ぎすぎていたと言えます。目標を掲げること自体が過去の管理社会の慣習にとらわれていた証です、本当の林住期の余生をのんびり愉しむ余裕がなかったといえます。これからは急ぎすぎないように「もっとゆっくりといろいろな趣味の世界を愉しみながら余生を楽しむ」それは「スローライフ」とでも言うような生き方にハンドルを切りたいと思います。また自分にとってちょうどよい暮らし、心と身体が健康でリラックス出来る暮らし、シンプルな生活を目指す、これを「シンプルライフ」と呼ぶならばこの生き様にも共感する。今までの心も体も忙しい生活から脱してこれからは自分にちょうどよい「スローライフ:Slow Life」と「シンプルライフ:Simple Life」を自分で見つけて実践したいと思います。

 

2012年1月12日 (木)

一陽来復を願う

冬至は12月22日(木)の平日で曇り日でしたが地元の町内会の冬至を見る会は皆さんが参加出来る祝日の天皇誕生日にしています。現在は当時と比べると日の出も早くなり日の入りもだいぶ遅くなりましたが冬至の翌日でも当時は7時頃に日の出がありました。広辞苑で一陽来復を牽くと①陰がきわまって陽がかえってくること。陰11月または冬至の称②冬が去り春が来ること。③悪い事ばかりあったがようやく回復して善い方に向いてくること。 正午における太陽の高度は一年中で最も低く、また、一年中で昼が最も短い。そして二十四節気・雑節上で「冬至」と「節分」の間には1月6日「小寒」1月21日「大寒」があるばかりで寒々とした気分だ。ところが2月3日邪気を払う「節分」の翌日は2月4日春を迎える「立春」で本当の春の声が聞こえてくる時分である冬至、「一陽来福」ともいい、陰が陽に変わる日。冬至→一陽来復→一陽来、この日は身体に融通が効くようにと願って柚子湯に入る。陰が極まって陽が帰る、悪いことがあったが回復して善いことを願うのが冬至から立春までの節気のようである。




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鶴見の方向から朝日が昇る

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高台にある篠原八幡神社は都会にあっても東方向に高い建物がないので一番低い日の出の太陽が鳥居から入り本殿のご神体に光が入ることで近在の氏子には人気のスポット、町内会のボランティアさんが寒い中4時ごろから準備していただいた「お粥」と「おしゅるこ」が振舞われる、寒い中で日の出を待つ間に有り難いことである。

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鳥居と本殿の中間の参道から本殿に入る日の出を写すつもりであったが・・・

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7時1分ごろ朝日は本殿に向って陽を射していたので

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賽銭箱の前のガラス戸が気になるが・・・

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今年は賽銭箱の前のガラス戸が締まっていたので鳥居と朝日がガラス戸に映っていた、ご神体の鏡はもっと上にある筈です、なぜガラス戸が閉まっていたのかは闇の中、ガラス戸の戸っての位置あたりの奥にご神体が安置されているのでもしかすると入光しているかも知れませんがこの時間帯ではまだ本殿の中は雪洞の光が強く確認が難しいようです。鳥居から入ったお日様は確実にご神鏡にうつし出されたと信じて一陽来福を信じて立春を待つ。 体調異変から早く立ち上がりたいと願う今日この頃です。

2012年1月 9日 (月)

顔晴れ

頑張れ、がんばれ、ガンバレ・・・今朝はがんばれ!と自分に言い聞かした、咳と痰が夜中に出て止まらなく6日の夕方に更に酷くなったのでいつも通う近所のクリニックで診てもらうと気管支喘息と診断された、抗生物質で細菌による感染症を治療、痰や膿をうすめる薬、咳を鎮める薬、気管支を広げて呼吸を楽にする薬の4点を調剤してもらい6日の夕飯後から服用を開始、7日の朝に背中が痒い違和感があった、8日は痒みが胸まで広がり、赤い小さなジンマシンのようなものが胸に出来た、8日の昼から薬の飲用をやめたが8日は医者は休み、9日は体がだるく11時まで起きられず、体全体が痒く食欲もない、飲んだ冷たい水が甘露であった、ブログを書く気力・体力もなく水を飲んでまた寝た、夕方5時にまた起き出して水だけ飲んで、「がんばれ、がんばれ、自分!」「しっかり、しっかり、自分!」と自分を激励してブログを書いた。 約20年前に気管支喘息で抗生物質を投与されて全身に蕁麻疹が出来て酷い目にあった薬斑を思い出した、抗生物資の種類は記憶になかったが明日通院して医者の見立てを確認したい。 それにしても今までは林住期を実り豊かに生きてきたがこんなことでは遊行期からお迎えが来たのだろうか。 話を本題に戻すと今年の放鷹術の実演は昨年と異なり毎年実演していたベテラン鷹匠が少なく、逆に若い鷹匠補や見習いが多かった、これらの新顔に応援する意味で本日のタイトルは「顔晴れ、新人鷹匠」にした。実演の成功で晴れ晴れした顔で実演終了後に観客席に鷹を見せにきた。

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晴れやかな顔をして最初に観客席に鷹を見せに来た鷹匠補

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鷹は英国から輸入したオオタカの若、日本産のオオタカよりも一回り大きい、餌は毎日ハト肉1/2と足を一本、そのハトの足を食べていた。

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電通屋上から飛んだハヤブサを振りハトをして地上に降ろした大塚鷹匠、観客の質問にニコニコして答えていた

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ハヤブサには目隠しをしていた

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田籠鷹師も笑顔で観客に応対していた

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オオタカの精悍な顔つきは変わらなかった

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樹からの渡りで戻らなかったオオタカと見習いさんも笑顔であった、これぞ顔晴れ、顔晴れである

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この鷹匠補が電通屋上からハヤブサを飛ばしたのか、観客席へ来るのが間に合わないので輪回しの時の写真、以上5人が今年の実演者でした。

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実演後12時過ぎに撮影した幟

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浜離宮前の道路工事で見かけた仮設のガード、いたる所でみられたがこれでがんばれる人がいるのか、がんばっている人にはプレッシャーになるので最近はあまり言う人が少なくなったらしい。新年は環境保護を願い青空に雁晴れ、伝統技術を継承する鷹匠には顔晴れが相応しいと思う。  明日は体調不良で休みます。

2012年1月 8日 (日)

新春の空に鷹が舞う!

1月3日に今年で四回目になる諏訪流放鷹術保存会の実演を見物した時の写真で今日で五日目のブログになる。 諏訪流放鷹術保存会とは、諏訪流とは信州の諏訪大社に仕える神官であった諏訪氏大祝(おおほり)一族が継承していたとされる流派で、神官は御射山(みさやま)祭りにおいて贄鷹(にえたか)の神事として、鷹で捕えた獲物を奉納したいました。渡来文化でもある鷹狩の技術は呉竹流や政頼流から宮廷の流派であった禰津流などを経て、諏訪信仰を基にする諏訪の地に入り、独特の技や観念が形成されたと考えられています。 「放鷹術」とは鷹匠が鷹とともに生き、野に出るために必要な技と心の総称です。当保存会は、小林家に伝えられ、徳川家、宮内庁を経て現代まで継承された諏訪流放鷹術を学ぶ場として2006年に設立されました。現在は当代継承者である第十七代宗家、田籠善次郎鷹師を師匠と仰ぎ、鷹道具から鷹の調教技術まで、貴重な伝統技術の体得による研鑽に努めています。(当日配付された諏訪流放鷹術保存会の資料から一部割愛した) 新春の空に鷹が舞う!放鷹術実演のハイライトは毎年恒例の電通本社ビル屋上210mからハヤブサを放ち浜離宮庭園会場から空に放した白鳩を目掛けて急降下して鳩を捕える鷹狩りの実演でした。

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電通本社ビル屋上に鷹匠の拳からハヤブサが放たれると浜離宮庭園の上を数回旋廻してから急降下した、今年は400mmレンズのAFが故障して年末に修理に出したので AF-S 70-300mmとD300の組み合わせで撮影、会場から300mmで撮影したノントリ

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電通ビルよりも高く舞い上がったハヤブサは上空で2,3回旋廻した後に鳩を目掛けて急降下して鳩を一撃した直後に羽が飛散、ハトには悲惨のトリム

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ハヤブサの一撃を受けた空に白羽が漂う、その下を失神?した鳩が失速して落下していく(トリム)

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その直後に突然のハプニング、20分前に渡りの実演で木の上から見習い鷹匠の拳に戻らなかったオオタカがこの場面で出てきた!落下して行く鳩を目掛けてオオタカが現われ鳩を横取りした、自然界でも見られる光景

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横取りした鳩を抱えてオオタカの急降下

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浜離宮の木々の中にオオタカは獲物を持って消えた

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木の中に消えたオオタカに気を取られているうちに電通ビルから飛ばしたハヤブサに鷹匠の振り鳩(細紐つけたハトを振り回して鷹が近付いたところで空中に投げ上げる)を捕えるハヤブサの実演が始まっていた。

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鳩を押さえてどうだ!と鼻タカだかに胸を張り鷹匠の指示を待つ?ハヤブサ

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ご褒美の肉と交換にハヤブサから鳩を放す大塚鷹匠、ハヤブサも俺の獲物だとなかなかハトの羽から爪を離さない!ここの詰めを誤るとハトが傷つき消耗する。

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無事にハトを離しご褒美の生肉を食べるハヤブサを拳に載せて挨拶をする大塚鷹匠でした。

2012年1月 7日 (土)

「渡り」と「振り鳩」の実演

今朝のNHKのおはよう日本で当日の様子を”新人鷹匠”初めての晴れ舞台と題して放映がありましたがその新人鷹匠見習いの「渡り」と新人鷹匠補の「振り鳩」の実演の様子です。

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見習いさんが渡りの実演でオオタカを木に飛ばす

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公園内の木にとまるオオタカ

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木からオオタカを呼び戻した、渡りの瞬間

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渡りの成功で鼻高々はどちらかな?新人鷹匠見習い?それとも蒼鷹か?

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次に飛ばした時はここから戻らないオオタカでした、天気が良いので日光浴?近所のカラスがチョッカイを出して来ますので木(気)になるようです、 ハプニングが起きました、とんでも8分戻って10分?この後のメインイベントにとんでもない出番が有りました。 

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見習いさんが一生懸命にオオタカを呼び戻している時間帯に次の演目が始まり新人鷹匠補による振り鳩の実演です。

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鳩を放した瞬間にオオタカが鳩を捕らえたのがあまりにも早く瞬間の写真は撮り損なった、見物客の前を鳩を抱えて飛ぶオオタカ

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尾羽の下に白く見えるのが捕えられた鳩

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広場の隅でオオタカから鳩を無事回収して振り鳩の実演を終了、この後はメインイベントの電通本社ビル屋上(高さ地上210m)からハヤブサによる振り鳩の実演です、この実演が開始しても先ほどの渡りの実演のオオタカはまだ見習い鷹匠の拳には戻りません、この続きは明日

2012年1月 6日 (金)

振替(ふりかえ)の実演

今日も昨日の続きです、浜離宮で行なわれた三日の午前11時からの諏訪流放鷹術実演の写真です、昨日のブログは鷹をその場の雰囲気に慣らす拳に据えての輪回りでしたが、その後は振替(ふりかえ)と呼ばれる実演です、振り込みサギの実演ではありません、オオタカを鷹匠の拳から別の鷹匠の拳に飛び移らせ、他人に慣らす訓練の実演です。

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最初はレデイ・ファーストで女性の鷹匠見習いさんからです、まだぎこちない動作でした

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見習いさんが飛ばしたオオタカを受ける田籠鷹師

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今度は田籠鷹師のオオタカ飛ばしです

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飛ばした後の左腕のフォロースルー

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オオタカを受ける女性の見習いさん

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オオタカは地上すれすれを飛び羽を広げてブレーキ

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見習いさんの拳にとまる、鷹匠間の距離は昨年よりも短いような気がする

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今度は見習いさんが投げたオオタカを受ける田籠鷹師

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田籠鷹師の拳に来た

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この後にご褒美の生肉片をオオタカに与えます

2012年1月 5日 (木)

放鷹術の実演

昨日の続きです、諏訪流放鷹術の実演前に鷹をその場の雰囲気に慣らすために5人の鷹匠がゆっくり歩き廻っています。

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三日の午前11時の部は5人の鷹匠の実演でした

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先頭の田籠善次郎鷹師

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大塚鷹匠

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第17代宗家、田籠善次郎鷹師の実演開始前の挨拶

2012年1月 4日 (水)

渡り・据替の実演

諏訪流放鷹術の実演の見物に今年も浜離宮恩賜庭園に3日に行ってきました。観客の中から4名の希望者に「渡り」「据替(すえかえ)」の実演がありましたので4名の実演の様子です、据替は鷹匠以外の人の拳に鷹をとまらせることです。全員が鷹匠がはめるエガケと呼ばれる鹿皮の手袋をしてエゴウシと言われる切り身にした肉を入れる容器を使っての鷹匠の指導による実演です。

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「渡り」とは鷹(今回はハリスホーク、日本名モモイロノスリ)を樹の上に飛ばして、そこから鷹匠以外の人の拳の上に呼び戻す据替の実演です

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一人目の女性

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二人目の人

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三人目の女性

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司会者から「すえかえ」の感想のインタービューです

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四人目の据替の直前

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据替の瞬間、これからご褒美の生肉を食べます。

2012年1月 3日 (火)

西伊豆・仁科港乗り初め式

元旦の初夕日は生憎のくもり空で西伊豆の初夕日は撮れなかったが翌2日は毎年恒例の仁科漁港の乗り初め式で観光協会が元旦に西伊豆町に宿泊した人または二日に泊る観光客の中で年男・年女を5人を募集していたので応募した、辰年に生を受けてから6回目の辰年に初めて高いところ(漁協の2階屋上)から町長はじめ西伊豆町のお歴々の方々と一緒に餅を蒔く幸運に恵まれた、いつもは下から写真を撮り、餅を拾うが昨日は逆に上から写真を撮り、紅白の餅を蒔く役目でした、拾わずに餅と夕日の観光グッズ3点の記念品を戴く、新年早々縁起が良いとはこのことである。

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今年は四艘の漁船が当番で仁科港の中を乗り初めした八幡丸

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仁科港を進む藤清丸

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乗り初め式の後に船からの餅蒔き風景

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午前10時から町長の挨拶が終わると餅蒔きが始まる、紅白5000個の餅が善男善女、老若男女の頭の上に蒔かれる

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法被姿で餅蒔きの後に仁科港を背景に屋上で記念写真

2012年1月 1日 (日)

雁晴れ、日本。

雁晴れ、日本。 昨年は3・11の千年に一度と言われる未曾有の大地震・大津波、想定外と言い訳するが人災とも言える原発の電源喪失・冷却不能によるメルトダウン・放射能の拡散恐怖と9月には大型台風上陸が相次ぎ記録的な災害が起こり、大震災被害の方々や原発避難の人々、水害に遭われた方々には人生なぜこうも辛いのかと思いを残した。これは先の敗戦以来といえる国難の年であったと言える。 昭和で数えると今年は昭和87年になる。 マナヅル・ナベヅル・タンチョウ・コウノトリ・コウライアイサ・ヒレンジャクなどの繁殖地の流域で有名なアムール川(中国名:黒龍江)がソ満国境の満州・黒龍江省・牡丹江(当時のソ満国境を流れるウスリー川も上記と同じ繁殖地)から吉林省を抜けて今の北朝鮮に入り朝鮮半島を縦断して釜山港から博多港に着いたのは昭和20年敗戦5ヶ月後の師走、着の身着のまま命からがらの逃避行・決死の脱出劇であった。渡り鳥ならば僅かな日時で飛んでくるが牡丹江市から釜山港までは4ヶ月以上も母が命を繋いで日本に連れ帰ってくれた、母は強しとはこの事である、辿りついた釜山港では牡丹江で敗戦直前に現地召集された父と再会した、運転免許を持っていた父は戦車隊に配属されたが一度も乗る機会が無かったと嬉しそうに話していた。昭和19年に誕生地の荒川区町屋を離れ新潟港を出発して昭和20年末に帰国した激動の一年間、4歳から5歳の幼少で満州と朝鮮半島で敗戦を経験した、今は亡き両親と年子の4歳の妹と一家4人の引揚者であった。骨皮筋衛門で帰国してからは戦後の食料難に豆・芋などで命を繋いだ、薩摩芋の蔓まで食べたが逃げることから生きることへ進化した、日本人は臣民から兵役のない国民に進歩した、虚脱感が漂っていた大人たちにも平和が訪れ民主主義の国となり、後に団塊の世代と言われる弟も誕生した。 昭和20年代毎年秋になると澄んだ平和の青空に雁(かり)の群れを見たのは子供の頃に住んでいた世田谷区烏山町だった、東京都内と言っても住んでいた周囲は畑と田んぼの田園風景であった、ここが故郷とも言える懐かしい場所である、北には烏山川が流れ川の向こうは寺町である、南には仙川が流れ川岸に明治乳業の工場があった流れて来る牛乳ビンの蓋を集めて遊んだが何が面白かったのか牛乳は満州で飲んだ馬乳以外は飲んだことがなかった、雁が飛んで来た東の空は京王線の千歳烏山駅の隣にあった烏山小学校があった、敗戦の翌年は栄養失調で小学校入学が一年遅れた、飛んで行く西は牟礼や久我山方向、岩崎通信機の工場跡があった、当時は焼夷弾の残骸や不発弾が畑や田んぼの中から出てきたが田んぼの周囲を流れる小川で水遊びやザリガニ捕りなどで子供時代を過ごした、この小川を子供達は給田川と呼んでいたがまだ小学生低学年であった、敗戦後の食料難の貧しい時代であったが平和が訪れる時代となった、雁の群れは習ったばかりの「へ」の字や屁も出ない空いたお腹が「く~」と鳴ると雁は「く」の字に見えた。烏山小学校まで片道30分歩く、入学後暫くしてまた栄養失調で休学した時に担任の女の先生が見舞いに来た、明治牛乳一合ビンを初めて飲んだ、ビンを宝物にした、白米を腹一杯食べたい夢を牛乳ビンに詰め込んだ。(その後の45年間を書くと一年以上掛かる回顧録となり年末まで時間を要するので割愛した)時は流れそれから45年間勤勉な日本人は戦後の復興を成し遂げ高度成長期には世界第二の経済大国に伸し上がった、三種の神器や新三種の神器で豊かな生活を謳歌し飽食の時代も来た、その後のバブル崩壊と失われた10年が始まる1990年秋東北新幹線の古川駅の隣に開業した「くりこま高原駅」に降り立った時は中年の50歳、ふと見上げる空に幼少の頃に見覚えのあった雁行を何十年かでぶりに見た!今は登米市となったが宮城県登米郡登米町登米と登米が地番に3つもある関係会社のITシステムの構築で訪れた時である。その後毎年秋から冬が待ち遠しい大好きな風景となった。その後も2001年現役を退くまで毎月出張で定例会議に東京・くりこま高原を往復した。またそれから5年の歳月が過ぎ野鳥撮影を始めた翌年の秋、2006年10月から伊豆沼・蕪栗沼の雁などの野鳥撮影で再び訪れる地となった。昨年12月は大震災から9ヶ月も経っていたがマガンの塒立ちの撮影地である伊豆沼・獅子鼻の道路はまだ震災の爪跡が残り、積み上げた土嚢と凸凹に曲がりくねった道路がいまでも無残であった。それでも東北の空には雁晴れと叫びたくなるように元気に雁行がみられた。伊豆沼から約20km離れた蕪栗沼に行く道路もところどころ川に架かる橋の繋ぎ目は補修の跡が目立ち今でも補修中の橋もあるがここでも雁は青空に家族と仲間の絆で隊列を作り編隊飛行で雁晴っていた。への字やくの字、横一文字のつり竿型、短距離の移動では先頭が少し離れて飛ぶ「i」の字。鳴き声を交わし愛と絆で青空に羽ばたく雁にあやかって年頭にあたりマガン・オオヒシクイ・シジュウカラガン・ハクガン・コクガンの5種のガンで雁晴れ、日本。ガンバロウ・Japanでブログ開きにしたいと思います。今年も宜しくお願いします。

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幼少の頃世田谷で見られたのも、50歳の年にくりこま高原駅で見たのもこのような雁行であった気がする

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日の出直後の伊豆沼、11月初旬頃までは塒立ちと日の出はタイミングが合うようだ、11月中旬から12月になると日の出が遅くなる日の出前に塒立ち

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5分後の伊豆沼の夜明けの雁行、伊豆沼のマガンが居なくなる、朝日を浴びてマガンの塒立ち、羽音と鳴き声は環境省の「残したい日本の音風景100選」

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蕪栗沼の三日月と落雁、この後は夕日が落ちる西の空へその下は蕪栗沼

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蕪栗沼の夕日と落雁、マガンの塒入り、沼の真上に来ると急に飛翔が乱れて急降下する

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シジュウカラガンの飛翔(新潟県福島潟)

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ハクガンの飛び出し(新潟県朝日池)

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シジュウカラガン

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コクガンはガンの仲間でも海を生活の場とする唯一のガン

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