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2012年11月

2012年11月30日 (金)

世界遺産・石見銀山

今日で霜月も終わる、この旅ブログも今日が最終日となった。終わり良ければ全て良し。遅くなったが有終の美を飾れるかどうか。
出雲大社から次に予定していた世界遺産・石見銀山を物見遊山する時間がなさそうなのでパスして津和野に直行したのが旅の四日目であった。七日目(土)旅の上がりは時間の余裕がなく途中でスルーして来た世界遺産の
石見銀山とその文化的景観である。
前日の16日は秋芳洞見物のあとは山口県立きらら浜自然観察公園に向かい、ビジターセンターの入館と淡水池のカモ類やボラを採食するミサゴなど午後4時まで探鳥したあとに山陽自動車道の宮島SAにある旅籠屋、宮島SA店に旅の最後の宿泊。ここはマイカー旅行者のための素泊まりのミニホテル「ファミリーロッジ旅籠屋」二人で一室10500円で朝は無料の軽食がついているが夕食と買い物は宮島SA内のレストランとスナックコーナー、ショップを利用する。ここはスマートICがあるので厳島神社などの観光にSA外にも入出できる。初めて旅籠屋を利用したが現在全国に36店舗を展開する、高速道路内は現在は3店舗ある、アメリカンスタイルのロードサイドホテルと称している。
17日(土)朝7時30分にサービスの朝食を済ませ、車にもENEOSで満タンにして前日の小春日和から一転して雨の中を出発、山陽道・広島岩国道から広島道、浜田自動車道の二ヶ所のJCTを左に入り、大朝ICで高速を下りて一般道を走り、時雨降る岩見銀山に着いたのが午前9時である。雨の土曜日、石見銀山世界遺産センターの駐車場はまだ観光客はまばらであった。
3861 最初は世界遺産センターで岩見銀山の歴史と技術を紹介する展示など見物、弘治3年(1557)に正親町天皇の即位に際し毛利元就が献上した御取納丁銀(5倍に拡大した銀製レプリカと間歩の写真)。ここで石見銀山4館共通チケットを購入してから有料展示を見学(世界遺産センター、代官所地役人旧河島家、重要文化財熊谷家住宅、石見銀山資料館の四ヶ所の入館が割安になり1000円)世界遺産センター前から路線バスに乗り、岩見銀山公園のある大森バス停で下車してから、「石見銀山みてあるき」の地図を片手に傘をさしながらの徒歩見物の開始、まずは龍源寺間歩(坑道を間歩と呼ぶ)まで2,3kmを雨の中を黙々と無口の行進、遊歩道はところどころ雨で水没、靴の中まで浸水して気持ちが悪い。3920_2
関が原役後に徳川幕府の天領となり家康から初代岩見銀山奉行を命じられた大久保岩見守墓を撮影後に山道の遊歩道から歩き易そうな舗装された銀山街道に出る。

目的地の龍源寺間歩の手前にある福神山間歩とその 説明書、このような間 歩が銀山街道にはところどころにみられる 4060、全部で600以上を超える間歩の跡が点在し、石見銀山の往時の繁栄ぶりを偲ばせる。

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4,50分雨の中を歩いてようやく龍源寺間歩入口の右横にある管理棟で入場券(400円)を購入して、間歩(坑道)の入口から中に入ると直ぐ手彫りのノミで掘られた跡が見える。ところどころ横にある小さな坑道を「ひ押し坑」と言い岩石の隙間に板のように固まっている鉱物の層(鉱脈)を追って掘り進んだ跡。

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ひ押し坑や垂直に掘られた水抜きの竪坑(たてこう)、龍源寺間歩に溜まった水を約100m下の永久坑道へ排水したといわれる。
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全長273mうち観光用116mの龍源寺間歩の観光用の坑道には間歩内の様子を絵で説明するバックライトで照明されたパネルが15面ある。

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古文書の「岩見銀山絵巻二巻」のうち上巻から十五枚の電照板に仕立てたもの

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江戸時代の後期に描かれたもので当時の銀山山内の様子や風俗を知る上で貴重な巻物

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ガイドさんがこれらの前で丁寧で説明される場面に合うと時間がない人は渋滞でアウトになった気持ちになる。

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最後になって残りの二枚の順番が入れ替わった

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照明された15面のパネルを出口からパネル展示の内部を撮影した。

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龍源寺間歩の出口付近の展示、石見銀山の鉱床断面図、鉱石、使い込んだ鉱石を砕いたかなめ石。

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龍源寺間歩を出ると外はまだ時雨どき、世界遺産の理由が石見銀山遺跡とその文化的景観とあって銀山街道(中国自然歩道)を岩見銀山資料館まで3.1km、そのうち2.3kmの銀山地区には神社仏閣の歴史的遺産が数多くある。それらの案内板。

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大久保岩見守の墓付近の道路案内、旧家のレストラン、自販機も景観の一部になっている。これも2007年に世界遺産に登録された「岩見銀山遺跡とその文化的景観」のひとつか。

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商店の佇まい、代官所地役人遺宅の阿部家、4館共通の見学できる代官所地役人の屋敷は河島家住宅であつた、町並み地区の風景。

岩見銀山で栄えた重要文化財・商家の熊谷家住宅を見学した。

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玄関と居間の一部、町並みの中で最も大きく質の優れた民家建築。

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銀の流通と掛屋の役割、天秤ばかり、居間の床下に設けられた地下蔵。ここでも士農工商の一番格下の商人が一番豪勢な屋敷であった。

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左から安南銀錠・花降銀・灰吹銀

見学チケット4館目、最後は石見銀山資料館(大森代官所跡)、館内は撮影禁止でした。
初めての石見銀山はおすすめ散策コースを選んで、大森バス停から龍源寺間歩まで約2.5km、間歩見学後に龍源寺間歩から岩見銀山資料館まで3.1km、間歩の中や4ヶ所の世界遺産・文化財の見学を含めると雨の中をかなり歩いた、元気な内でなければ旅には出られない、次回の機会があれば土日祭日の1日4回、1回20名、1日80名限定の最終時間の13:15出発に間に合わなかった大久保岩見守が開発した石見銀山最大級の間歩、大久保間歩ツアー(最終集合時間12:45、参加費3800円/一人、所要時間2時間半、12月ー2月は休み)と見過ごした往時の信仰の寺、五百羅漢寺をぜひ見学したい思う。

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2012年11月29日 (木)

秋吉台と秋芳洞

萩市内から国道490号を40分も走ると日本最大のカルスト台地があらわれる、0880 10月に訪れた神島にもカルスト岩礁の景勝地があった、石灰岩は水に溶けやすいため石灰岩地には特有の地形がみられる、0940_2 ススキと緑に縁取られたゆったりした曲線の小高い山、ドリーネと呼ばれる陥没した凹みの谷、ラビエと呼ば0970 れる石灰岩の柱は鬼の角のように見える地獄台と名がついたカルストの岩の山などが秋芳洞の上あたりに展開する。秋吉台の台地の下にある鍾乳洞の名前が秋芳洞と気がついたのはつい最近のことである。1020_2秋吉台と秋吉洞と思っていたが昭和天皇が皇太子時代にここに行啓した折、それまで地元では滝穴と称していたのを秋芳洞と命名された。
27年前の夏休み息子と二人で盆踊りで賑わっていた長門湯本温泉に一泊して秋芳洞に来た時は秋芳洞入口に1030 真っ直ぐ来られたが、今はいろいろな鍾乳洞関係の観光施設が出来ているのでカルストロードをさまよってしまい最初はエレベータ口に行ってしまった。やはり見覚えのある土産物屋のある商店街を通り、秋芳 洞案内所・入口に行くことにした。 特別天然記念物 秋芳洞の石碑、星野哲郎の秋芳洞愛歌の碑、美祢市の特別天然記念物の説明と地域指定の碑などを見ながら秋芳洞入口の来た。1060 日本で最大の鍾乳洞を入って直ぐにある青天井にカメラを向けたが1090_2 青天井は内臓フラッシュを焚いても青くは写らない。次の百枚皿はよく撮れたようだ。1150_2
中腹の段丘から流れ出る水が、波紋の形に固まったもの。多くの皿を並べたような姿から百枚皿と名付けられたと、団体客のバスガイドさんの説明が聞こえたが、実際には500以上あるそうです。水の波紋の端の泡立つ部分に石灰分が沈積。波紋の縁の部分だけが、長い歳月の間に盛り上がって、皿状になったといわれている。暗闇の中で白米の千枚田を思い出す。1160_2 次は洞内富士である、 富士山の次は南瓜岩であったが近くで撮り過ぎたのでかぼちゃに見えるかどうか。1590_2 それとももしかすると隣の大松茸と間違えて撮ったか?次のが千枚田ならぬ千町田と呼ばれる百枚皿のひとつひとつを大きくしたものであった、1630_3 青緑光りするような部分もあったがなん だかな~。金属の銅かな~どうかなあ~それとも植物か?鍾乳石のつらら群のある 傘づくしでは1210_3 天井からお化けの足のような形の鍾乳石が垂れ下がる。1230_4  床から立ち上がった石筍のおばけのような大黒柱、下から立ち上がった竹の子ような石筍と天井からのつららのような鍾乳石が一度は繋がったが地震で1410_3 ずれて離れてしまった鍾乳石のところでまたバスガイドさんの解説を聞いて得した気分になる。

千畳敷といわれる広場にある照明案内1551_2 板、ここにはエレベーター口から入ってくる観光客はここから見学開始する場所でもある、 ここは黄金柱が近くにある。1270_3 27年前には息子と記念写真をコンパクトカメラで撮ったが今は殆どの人がデジカメである。ここで偶々黄金柱を見物していたご夫婦とお互いに記念写真を撮り合った秋芳洞で一番の名所、人気の場所である。
1480 1350 石灰華の瀧とクラゲの滝のぼりはどっちがどっちだか分からなくなった、くらげに見える方がクラゲの滝のぼりです(あたり前田のクラッカー、古い人でした)。1460 岩窟王と呼ばれる鍾乳岩は何かようかい(妖怪)と言わんばかりに見えた。1390 五月雨御殿はこの名前の意味を理解できない暗闇の世界です。1440_2 の抜け穴は逆に3億年の世界から妖怪が出てきそうな穴でした。最後にマリア観音を出合って何かほっとする気分でした。1400 この先は3億年のタイムトンネルを通り、観光バスの団体客が入ってくる黒谷口です。1640 ここでUターンして入って来た秋芳洞入口まで戻り、中から撮影した紅葉です。11時から12時まで1時間の日本一の鍾乳洞の見物が終わり、帰りに土産物店をぶらぶら見物しながら旅の記念に瓦そばを食べ1700 てみました、熱した瓦の上に茶蕎麦を乗せ、暫く焼いて、ソバがこんがりこげてから錦糸卵など上の具をかき混ぜてつゆで食べる変わった料理でした。店の主人の説明では下関市豊浦町の川棚温泉から広まった郷土料理だそうです。

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2012年11月28日 (水)

萩城址と厚狭毛利家屋敷

今朝は「卒原発」を掲 げて「日本の未来の党」の党首になった滋賀県知事の嘉田由紀子さんの記事に目がテンになった。新たな第三局が生まれたのである。環境社会学者から知事そして党首になれたのである。原発に反対する著名人からの賛同も多いようである。太陽の党と合流して歯切れの悪くなった橋下さんは大阪、琵琶湖を守る嘉田さんは大阪の命の水がめの番人でもある。真の第三局はどちらなのか、師走の選挙で日本の未来が問われる。

現役最後の3年間は毎月1回の会議に琵琶湖畔にある子会社に通っていた。新横浜から朝一の新幹線のぞみで2時間ジャスト、京都から湖西線で25分、堅田駅からタクシーに乗り近江八景の「堅田の落雁」で有名な浮御堂の前を通り20分位で琵琶湖が全貌できる会議室に9時前に着く、今でも琵琶湖の四季の風景を思い出すが若狭湾の原発群も近い。

宿の萩小町もどこの温泉と同じように、朝の温泉は男湯と女湯が入れ替わる、夕べの女湯であった17030 17050違った趣の温泉に入れるのも朝飯前の楽しみのひとつである。夕べ食後に予約してあった家族風呂とあわせてこれで五つの海辺の温泉を楽しんだことになる。
17130 朝食は別館のダイニングでイス席が用意されていた歳をとると座敷よりもやはり椅子の方が楽である。

この日の朝は萩城址のある指月公園と駐車場前にある旧厚狭毛利家の長屋の観光から一日が始まった。
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広島に居城を置き中国地方8ヶ国の大大名112万石、五大老のひとりであったが1600年の関が原の天下分け目の戦に西軍について敗れ、周防・長門の二ヶ国に36万千石に減封された毛利輝元の築城である。萩城址の石垣につわぶきの花が見える。
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明治初期の萩城天守の写真、慶長9年(1604)から着工13年(1608)に完工、桃山初期の形式をのこす、白亜五層の天守閣は明治7年(1884)に解体されたと説明文にある。天守閣にあった一角に上る石段と天守閣跡から見た内堀の一部。

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煤払いの茶室の庭、旧梨羽家(萩藩寄組士三千三百石)別邸茶室は年末の煤払いの際に藩主が一時ここに休憩することからこの名が付いた。晴天秋晴れの16日、正面入口付近の石垣の上から一段高い天主のあった石垣方向を写す。二の丸東門方向からの内堀と城跡の石垣。

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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋、厚狭毛利家は毛利元就の五男元明秋を始祖とする一門で厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に知行地(8370石)を持っていたのでこのように呼ばれた。棟札によると安政3年(1856)に建てられた桁行51.4m梁間5.0mの長大な構造で現存する萩武家屋敷の中で最大。

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長屋には三本の矢の話、萩城下の町割り、甲冑などの他に萩城を再現する模型など昔を彷彿するのに参考になる資料が展示されていた。

この見学のあとは萩城城下町界隈を後にして秋吉台に向けて車を走りだした。

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2012年11月27日 (火)

松下村塾と萩城下町

0271 津和野は「野原などに咲くつわぶきの花、つわぶきの生い茂る野」から「つわの」になったと言われる。その津和野郊外の鴎外記念館から松蔭神社の萩まで、司馬遼太郎の「街道をゆく」ではないが「つわぶき街道」と言われる島根県と山口県の県道13号線、萩・津和野線を路傍に咲くつわぶきの花を愛でながら街道をゆく。正午過ぎに津和野を出て、松蔭神社まで48kmを1時間20分余で到着、松蔭神社の駐車場に止めて、境内にある土産物屋兼蕎麦屋で遅い昼食を済ますと目に入ったのは壁に貼ってあったお国自慢、15131 15141 維新の先覚者吉田松陰のゆかりの地をここから巡りはじめる。衆院選真近になって離合集散して世間を騒がせている政党・政局、第三局とか呼ばれる老党首が代表になった維新の会ではない、松下村塾で明治維新の原動力となった多くの逸材を育てた維新の先覚者である。 吉田松陰の小さな私塾から探訪する前に松15171_2 蔭の絶唱の碑が目についた。 「親思うこころにまさる親ごころ きょうの音ずれ何ときくらん  寅二郎」安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄に投ぜられ、いよいよ処刑を覚悟した松蔭が郷里の両親達に書き送った便りの中にある永訣の一首である。享年三十、まことに親を思う孝子の至情の表れであり、断腸血涙の絶唱との解説文が隣にある。寅二郎は松蔭の通称。

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当時この地域が松下村と呼ばれた松下村塾と看板、講義室内の床の間にある竹に書かれた松下村塾聨がある。右の写真は維新や明治政府の中心となる人物の肖像画が飾ってあった、上段左から久坂玄瑞、高杉晋作、吉田松陰、前原一誠、木戸孝允(桂小五郎)。中段左から山田顕義、品川弥二郎、野村靖、山県有朋、伊藤博文。三段目堺二郎、飯田吉次郎、河北義次郎。15260_2 15320_2 国指定史跡となっている吉田松陰幽囚の旧宅、実家である杉家で謹慎生活を命じられた。松下村塾と松蔭神社の中間にある。

15370杉家旧宅の奥に、吉田松蔭を祭神とする神社で御神体として松蔭愛用の赤間硯と父叔兄宛に書かれた書簡の二品が祀られている。この後に伊藤博文の旧宅と別邸に向う前に境内で松蔭になったつもりで高杉晋作と記念写真を撮る。薄毛・抜毛・細毛の総髪の15460御三毛、松蔭の2・5倍近く年老いた素浪人には志が立つものは何もなく、今となっては維新には自信がなかった。初代内閣総理大臣となった伊藤博文の銅像・旧宅・別邸は松蔭神社の右脇の道を歩き、松蔭神社ご本殿と同じ位の位置にある。

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15561_2旧宅の横の広場に建つ、銅像よりも台座の方が大きく高くて立派に見えた。農家に生まれ9歳の時に萩に来て伊藤家に住むようになり、1857年に松下村塾に入塾、15590 1863年長州ファイブ(蕎麦屋の壁に貼ってあった長州五傑)の一人として英国に留学、明治になり憲法制定に携わり、初代内閣総理大臣となった。隣にある別邸は1907(明治40年)に東京府下荏原郡大井村に建てたもの、玄関・大広間・離れ座敷を萩に移築した。次は境内の駐車場に戻り、市内を移動して萩市中央公園の駐車場に車を置いて武家屋敷の見学。
15641 高杉晋作誕生地の斜め向かいにある晋作広場には平成22年10月に「高杉晋作立志像(江里敏明作)」が建てられた、松下村塾に通っていた20歳頃をイメージした像。15650 15660

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萩城下の菊屋横丁にあった高杉家。晋作は家禄二百国の大組士 高杉小忠太の長男として天保10年(1839)8月20日生まれた。幕末の風雲児高杉晋作ゆかりの地である。
15740 15750 田中義一の誕生地の石碑16070_2 15760_3

と白壁の城下町の武家屋敷の町並みが今に残る。

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重要文化財菊屋家の庭園、毛利輝元の萩入国にしたがい山口から萩に移り、城下町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領して代々大年寄格に任命された豪商の佇まいが偲ばれる。

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16050 国指定史跡、この旧宅は木戸孝允(桂小五郎)の実父、和田昌景の家です、木戸孝允は天保4年(1833)この家に生まれ8歳の時に近隣の桂家の養子にいって桂小五郎を名乗りましたが、生まれてから嘉永5年(1852)に江戸に出るまでこの家で過ごしています。

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国指定史跡「萩城下町」の一部であり、青木周弼旧宅という単独指定ではない、青木周弼は医者の家に生まれ漢方医学を学んだ、幕末当時は日本屈指の蘭学者でした、彼のもとには全国から学生が集まり、そのためにこの家を安政6年(1859)に新築しました。

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萩城下町の武家屋敷の最後は江戸屋横丁の円政寺、高杉晋作と伊藤博文の勉学の寺、拝観料200円で中の鳥居をくぐると住職が変わった形の鳥居の説明、寺と金比羅社の神仏混合のために鳥居の柱の上に数珠の玉がある。境内には菊の御紋もある、高い大きな灯篭の台座に仕掛けがあり、灯篭の下が可動するので大きな地震がきても倒れたことがないとか、高杉晋作が子供の時に怖れた赤い天狗の面の話など話し好きな住職が付き合ってくれた。

萩の宿はじゃらんで予約した津和野の宿「よしのや」姉妹宿の夕日の宿 海のゆりかご「萩小町」である。

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宿の部屋は一階の海辺にある露天風呂の隣にある角部屋、元は露天風呂がここにあったそうです。部屋からの海の眺め、元露天風呂があった風情が残る。内風呂の温泉と丸い桶の露天風呂。日本一と称していた海岸の岩をそのまま利用した温泉の名は海鳴りの湯、磯の海鳴りが時かに聞こえる。久し振りにこの部屋では部屋食であった。

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2012年11月26日 (月)

山陰の小京都・津和野

15日は宿泊した津和野の宿「よしのや」の駐車場に車を置いて、朝食後の散歩は山陰の小京都といわれる、津和野の市内観光である。宿の前の通りは津和野観光のメインストリートの「殿町通り」なまこ壁と掘割の通りである。

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殿町通りの掘割、宿から30秒で城下町並みにとけ込んだ西洋ゴシック建築、キリシタン殉教の乙女峠の悲劇をくり返さないようにとドイツ人によって建てられたカトリック教会。 錯覚なのか27年前はこんなに肥えた鯉は見なかったような気がする、自分がメタボになったのか鯉がメタボになったのか、観光客の脚の下に来いと投げる餌に鯉が寄ってくる。メタボ鯉の原因はこれかも。

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全国に名を馳せた幾多の秀才を輩出した藩校養老館、明治の文豪森鴎外もここの出身。お祭りで屋台が出て古都の風景の邪魔をするので一部しか撮れない。真ん中は亀井氏11代にわたり家老職を務めた多胡家の間口4m長さ26mの立派な武家屋敷門。藩校養老館の前、殿町通りには白いなまこ壁の家老職を務めた武家屋敷門が3軒あったがお祭りの屋台で撮れなかったのが町役場となっていた大岡家の武家屋敷門もあった。

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弥栄神社の樹齢540年以上の欅の御神木。京都八坂神社より伝わった鷺舞は弥栄神社の古典芸能神事である

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弥栄神社の次は太鼓谷稲荷神社、ここは日本五大稲荷のひとつである。京都伏見稲荷の千本鳥居に似ている商売繁盛・開運・厄除け・福徳円満の成就で奉納された1000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなり、山腹に抱かれた朱塗りの本殿まで続く、運よく11月15日は例大祭であった、本殿の中、神官の前で二人の巫女が舞っていた、小さな社に数多くの小さな白狐が祀ってある、帰りは下りで多少は楽な千本鳥居のトンネルであったが年一回の例大祭とあって年老いた参拝者が休み休み、次々に上って来られるが朝は若い人には会わない。

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次の歴史散策は町並みの西側にあるJRの線路を越えて左に曲がる坂をあがると歴代津和野藩主の菩提寺である覚皇山永明寺山門がある、山門をくぐると広場があり、その右側の錦秋の中に本堂が奥にある、広場の左の一段高い場所、本堂正面と向き合った場所に代々津和野藩の藩医であった森家の墓所があり、その一番奥に軍医でもあった森鴎外の墓がある 「石見人 森林太郎として死せんと欲す」という鷗外の遺言により、お墓には珍しい文字で「森林太郎墓」としかない質素なお墓、落葉の中に白菊が供えられていた。この寺には大坂夏の陣で手柄を立てたが千姫事件で将軍家の怒りを買い切腹をした悲運の武将、津和野藩藩主であった坂崎出羽守の墓所が奥にある。

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14801_2 14821_2 JR津和野駅と改札口、27年前に息子に見せた貴婦人と呼ばれるC571はここで撮影したのである。SLやまぐち号は土日の運転のみ、平日であった11月15日は駅横広場に静態保存されているD51で我慢する。その前に撮った駅前にある津和野町の観光案内と駅待合室のポスターを撮る。今年のSLやまぐち号の最終運転日は二日後の11月17日であったがこの日は世界遺産・岩見銀山の見物であった。

14761_2 14771_2 津和野にも葛飾北斎の美術館があった、当地から初ずりの「北斎漫画」が発見された縁で葛飾北斎美術館を建設したそうです、今年見物した小布施の北斎美術館よりは規模が小さいが版画・版本・肉筆画などが展示されていたが館内は撮影禁止、写真は最初のご挨拶の一枚のみ。津和野駅前には赤茶色の岩見瓦と白壁となまこ壁の美術館、この町の出身である安野光雅氏の津和野町立安野光雅美術館がある。やさしい雰囲気ただよう独特の淡い水彩画の漫画や本の装丁などで国際アンデルセン賞などを贈られている。ここも館内撮影禁止なので入口にあったこの一枚だけである。二つの美術館を鑑賞後は5,6分歩いて宿の駐車場に戻り、今度は森鴎外記念館と旧居の見学で萩方面に車を走り出す。

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殿町通りから津和野大橋を渡り、津和野川沿いを2,3分車を走らせると旅の駅鴎外村ふる里の前に森鴎外記念館があり、その後ろに鴎外の旧居がある。記念館内は撮影禁止で入口の写真歩きながら一枚パチリ。鴎外の旧居は撮影OKである。下の写真の写真は右から父親森静雄、母森峰子、左が鴎外の本名は森林太郎。

4時間以上かけた古都津和野の観光であったが山の上にある津和野城祉に行く余裕がなく昼過ぎには「つわぶき街道」を萩に向った。

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2012年11月25日 (日)

松江のフクロウ飛行ショー

今日は山陰の旅と観光を中断して14日に1時間弱フクロウのみ見物してきた松江フォーゲルパークのフクロウ飛行ショーです。
ここは掛川市にある加茂花菖蒲園を経営する加茂グループの経営です。まだ行ったことがない富士花鳥園や掛川花鳥園、神戸花鳥園など加茂グループが運営する5つのテーマパークのうちの一つです。
フォーゲル(Vogel)とはドイツ語で鳥を意味しますが、ペンギンやオオハシ、エボシドリなどの世界の珍しい鳥だけでなく、世界中から集めた1200種のベゴニアとフクシアを中心とする花の楽園でもあります。
ここの目玉のひとつ、一日
2回のフクロウ飛行ショーは雨でも見物できる全天候型のセンターハウスの奥で、11時と3時に行なわれ、当日は11時のショーの10分前にフォーゲルパークの前を通りかかり、25分間のフクロウ飛行ショーとその後のフクロウの手乗せ体験の寄り道が出来たのである。入場料は1500円のところ65歳以上は免許書などを見せるとシルバー料金の千円となる。二人で3000円が割引で2000円となった。足立美術館は大人2200円のシルバー割引はなかったので有り難く良心的に思えた。

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3羽のフクロウが出演したが最初は飼育員、さしずめフク匠(鷹匠もどきの演技)の合図で、コの字の観覧席右の幼稚園児の見守る中、羽を広げてバランスをとりながら走るように歩く姿を見せるベンガルワシミミズクのポッキーちゃん。歩くだけの演技の最後に生肉のご褒美をあげるのは鷹匠もどきの動作である。

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二番目は歩く演技よりも大きい方のベンガルワシミミズクの呼びものの飛行ショーです。正面座席で撮影している目の前 に来て観客席の目前にある甕の上にとまりました。24-120mmのズームの調節が忙しい。

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甕の上から今度は車イスでこられた介護施設?の老人達の後ろにいるフク匠の処に飛んで行きます。また反対側に飛んで行きますが観客の頭の上スレスレに飛行、カメラを持つ人も頭を下げてフクロウの飛翔をよけるような姿勢をとります。甕の中に次の出番を待つフクロウが覗いていました。

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飛行ショーは幼稚園児にもサービスをします。24-120mmレンズとD300では背景のボケがいつもの望遠レンズよりも少ないようで気になりますが目前の撮影では背景は完全にボケますがそのかわり枠からハミ出します。

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会場で輪を持つ人を募集して手を上げた人の中から女性、子供、男性の3名が選ばれて飛行ショーのお手伝いをします。最後の飛行ショーは三羽目のメンフクロウのローズちゃんがフラフープのような白・黄・青色の空中三ツ輪くぐりでした。ご褒美の餌をもらって出番が終わります。この後は200円を払うとフクロウの手乗せ体験が出来ます。

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早速隣にいたおばはんが飼育員の指導を受けて皮手袋を左手にはめてフクロウの手乗せ体験です。フクロウが背中を向けたり飼育員の方を見たり、なかなかおばはんの顔と一緒に撮れません。なれると今度は右手のひらでフクロウの羽を撫でることも出来ます。おばはんの大喜びの顔はご想像にお任せします。

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こちらの赤ん坊を抱いた若いお母さんは大きなベンガルワシミミズクを手に乗せました。花の傍らで出番を待つ別のベンガル君です。

お土産売り場の前に世界中の25種60羽のフクロウは園内に入る前にみられる無料ゾーンにあるので、これを見るだけでもここに来た価値があるようだ。

 

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2012年11月24日 (土)

足立美術館と出雲大社

ジャーナル・オブ・ジャパーニーズ・ガーデニングの庭園日本一の足立美術館、館内には横山大観をはじめ、川合玉堂、榊原紫峰など日本画壇の巨匠たちの作品、特に横山大観コレクションの特別展示室に秋季に展示される「紅葉」は豪華絢爛であった。北大路魯山人と河井寛次郎の二大巨匠の陶芸作品もお宝を見る思いであった。館内は撮影禁止であり、写真を撮ることは出来ないので一枚もない。

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入館前の歓迎の庭、紅葉の日本庭、枯山水庭を案内する創設者の足立全康翁の青銅像

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「庭園もまた一幅の絵画である」創設者の言葉。苔庭と池庭

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池庭と白砂青松庭

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枯山水庭と題名不詳であったゴツイ横たわる美人の像。この日は新たにオープンした新館は休館日で現代日本画の粋は観賞できなかった。折角の教養を高めた錯覚で隣の安来節演芸館を素通りして、出雲大社方面に向った。

そぼ降る雨の中、宍道湖の畔で松江フォーゲルパークの前を通りかかると午前10時50分、事前の情報では11時からのフクロウの飛行ショーが始まるので寄って見ることにした。

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全天候型のセンターハウスの施設の中は世界中から集めたベコニアが展示してあり、この奥で飛行ショーが始まるところであった。観客席はコの字型、右手に幼稚園児、左手には車椅子の老人の一団、ショー開始直前に正面一番前の席に座りフクロウの飛行ショーに間に合った。このフクロウ飛行ショーの詳細は明日にしたい。

松江フォーゲルパークから1時間弱で神話のふる里、縁結びの神様で名高い出雲大社に到着。

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出雲大社の左にある無料駐車場に車を置いて正面の大鳥居からは入らず、脇から参拝、松の参道左にある彫刻、瀧徹作「神話の社」、三本の石で森をイメージして白い大理石は神話に登場する、兎・八岐大蛇・猪・鼠が集い遊ぶ姿を抽象的に刻んだとか、凡人にはどうしてもイメージが湧かない、分からない、作者にイジメられている気がした。松の参道は真ん中を歩くと松の根が傷むので両脇歩くように注意書きがあった。

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「因幡の白兎の神話」の主人公である大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀る古社の前にある御慈愛の御神像。

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ムスビの御神像、出雲大社の御祭神”大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)”が、幸魂奇魂(さちみたま・くしみたま)を拝戴される様子を表した像なのだそうです。格好を真似してみましたが、今年もビリに終わったベイスターズの帽子を被り”お手上げの主の老狼”にしか見えません。これでは優勝との縁結びは当分なさそうです。

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平成の大遷宮で御本殿は仮本殿でした、平成20年に仮殿還座祭を行い神様はこちらにお住いです。縁結びの神様に30代とみられる女性二人の観光客が参拝していました。真ん中に千木が見えるのが修造された御本殿ですが周囲の建物が修造できる平成25年5月10日が本殿還座祭です。右は神楽殿です、長さ13m周囲8m重さ5トンの巨大な注連縄の神楽殿を御本殿と勘違いする人が多いそうです。

忘れもしない27年前の8月12日は出雲大社を息子と二人で参拝した後に、この日に電話で予約した日御碕の民宿に向う途中でラジオからJALが大変なことになっていた、民宿の女将さんに報せるとTVをつけて日本航空123便墜落事故の大惨事を知ったのである。この民宿に忘れたのは女将さんに冷凍をお願いしたクーラーボックス用のハードタイプ保冷剤二つであった。忘れ物は昔からの癖となっている。

午後1時に出雲大社を出発、この日の宿は山口県の津和野まで160kmある、途中の世界遺産・岩見銀山の観光を中止して国道9号を4時間掛かって、じゃらんで予約した津和野の町中にある「よしのや」に午後5時に到着。

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津和野の宿「よしのや」は全館が畳じきである、旅の疲れをとるために入った浴場は温泉ではなかった。観光地のど真ん中にあり、一分も歩かないうちに鯉の掘割やキリシタン殉教者の教会などがあり、城下町の佇まいがある白壁や格子窓など津和野藩の家老の家も近い、観光地のロケに便利な宿なのかTVや映画人の色紙が多い。

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夕食のかに鍋ととらふぐの刺身、鯉の煮付けご飯は釜飯。翌朝の朝食。

翌朝は宿の駐車場に11時半まで車を置いて津和野の町を歩いて観光。

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2012年11月23日 (金)

妖怪と松江市内めぐり

山陰遊悠旅と望みたいが一週間では廻り切れない、鳥取エリアの白兎海岸を出発してから観光地の倉吉エリアと大山エリアの二ヶ所をパス、来られるのはいつになるのか次回の楽しみに、山陰路を遊覧して最後は中海を左に美保湾を右に見ながら出発後2時間のドライブで島根県とよく間違える鳥取県の端にある、境港エリアの水木しげる記念館に10時半に到着。鳥取県境港市は水木しげる先生の出身地、ゲゲゲの女房は島根県安来市のご出身をNHKのドラマで知った。現住所はゲゲゲの女房のロケを行なった深大寺の調布市、水木プロダクションも調布市布田にある、深大寺には鬼太郎茶屋もあり、グッズ販売もしている。なぜ調布にこだわるのか、小生は調布中学を卒業してから25歳まで住んでいた元調布市民である。有名な野鳥写真家も調布市とご縁があると聞いている。
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黄色いねずみ男のぬいぐるみを着た妖怪が出迎えた、館内は撮影禁止、撮影できるのは記念館の表と中庭にある置物の妖怪、入口の鬼太郎と水木しげる先生の写真まで撮影OK、孫のお土産は「妖怪大百科」、記念館の通りにある商店街の各店には、何か用かいと言わんばかりにそれぞれの妖怪が棲んでいる

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商店街の妖怪の中を見物しながら通りを抜けると松江までは中海の中、水木しげるロードを走り、宍道湖の畔にある曇天・雨上がりの松江城に到着。

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重要文化財・松江城、松江開府の堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成した、慶長5年~寛永10年初代藩主堀尾忠氏・2代忠治、寛永11年~14年京極忠高、寛永15年~明治4年まで徳川家康の孫・松平直政から定安まで10代234年間出雲国を領した。石垣は自然石をほとんど加工せずに積み上げた頑丈な積み方で野面積(のづらづみ)と言われる。

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松江城は千鳥城ともいい、全国に現存する12天主のひとつ。場内に展示されていた甲冑は誰のものか不明、柱は松の一本柱の外側に板を揃えて寄せ合わせ、これに鉄輪で締めて太い柱が作られている。天主から撮影した松江城下、宍道湖が望める。

松江城を見物したあとは大手前堀川遊覧船乗場からぐるっと松江堀川めぐり。50分間の城下町・水の都松江の十六の橋をくぐる船上からの見物。

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乗船直後から真っ赤な紅葉が出迎える、船上からの武家屋敷、堀川遊覧船乗場でUターン。堀川めぐりの乗船場所は3ヶ所ある。途中で下りて市内見物してから何度でも乗船できると説明があった。

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橋の下にアオサギを発見、次は鶴なのか白鷺なのか鳥の像がある、空にトビが飛ぶ堀川の風景

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内堀から外堀に出ると街中の旧日本銀行松江支店のカラコロ工房前、橋の下花の中にアオサギが佇む、小泉八雲のゆかりの地とあって昼間から雪女も現われる。妖怪を見たあとは怪談の幽霊である。

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船上からの松江城、紅葉と松江城、突き当たりは出発点の大手前広場発着場。50分間のぐるっと松江堀川めぐりの上がりである。

堀川めぐりの次は小泉八雲旧居(ヘルン旧居)とその隣にある小泉八雲記念館を見学、記念館内は撮影禁止なので写真はない。

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庭のある侍の屋敷に住みたいという八雲の希望で、旧松江藩士の武家屋敷である士族の根岸家に5ヶ月間住んでいた。これが現存するラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧居である。

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高浜虚子の句「くわれもす 八雲の旧居の 秋の蚊に」と日本の庭園と題したこの家のたたずまいの書と旧居の庭

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書斎と愛用の故郷から持ってきた高い机、旧居の庭。

小泉八雲旧居の隣にある八雲庵で遅い昼食をとる。

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なかなか歴史のありそうな庭が立派な蕎麦屋の八雲庵、とろろ・大根おろし・うずらの卵、三色蕎麦を注文したがとろろ蕎麦を食し始めた時に写真を思い出し、食べ始めてからの撮影。有名人の色紙がいろいろ飾ってあったが、その中に国民栄誉賞の吉田沙保里がこの店に6年前に来たのを見つけた。

松江の武家屋敷は小泉八雲旧居と同じ200石から600石の中級武士の家中屋敷がならんでいた塩見縄手の通りに面している。表向きは立派だが裏側の家人の住まいは造りも材質も区別した質実剛健の武士のきびしさを示していた。

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有名な温泉がある島根県でこの日の宿は島根県で唯一の日本の秘湯を守る会・海潮温泉の海潮荘を予約していた。松江から車で30分ほどの山間の出湯はしょっぱいので海潮(うしお)温泉の名がついている、大きな銘石で造られた露天風呂がすばらしい。

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海潮荘のフロント、露天風呂、内風呂から露天風呂へはガラス戸を押して、そのまま露天風呂へ露天風呂から撮影した内風呂の灯。

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この日の夕食の献立の一部と御品書きは右下

80218280_2 14日の朝食はお粥かご飯のどちらかを選択

この朝は松江方面に戻り、庭園日本一と言われる足立美術館に向った。

 

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2012年11月22日 (木)

鳥取砂丘と白兎海岸

今年二度目の鳥取県入りである、北海道から帰浜直後の7月中旬に兵庫県や岡山県に近い八頭町にある八東ふる里の森で4日間、県名の鳥撮り県で昼夜を問わず懸命に野鳥撮影をしていたのでこの時は観光どころではなかった。
京都府伊根の舟屋を9時半に出発して丹後半島を巡るように走る国道178号をドライブして、撮影済みのコウノトリが居るコウノトリ郷公園のある兵庫県豊岡市をスルーする、3750_4 兵庫県との県境にある岩美温泉で鳥取県入り、 国道9号で白バイが後をつけて来たが何事もなく通過、鳥取砂丘に着いたのは午後1時頃であった。連れ合いが初めての鳥取砂丘はこれがサンド目である。
4191 砂丘の沖合い右手に浮かぶクジラに似た形の海士島(あもうじま)が見える砂丘に登る前に駱駝と記念撮影。3811 駱駝の上の人は定年後の今でも上の人であるが鳥取砂丘は初めての人でもあった。今日11月22日はいい夫婦の日であるがラクダの上と関係あるやなしや。写真は本人の都合により一部を割愛してあります。3920 砂丘にも川の流れや一部には緑があります。 3990

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砂丘に登って見た日本海と海士島、砂丘斜面の足跡が黒く見えるのは水分で砂が黒ぽっく見える。砂丘には「あれから40年」の長靴を履いた団体さんがよちよちと砂に足をとられながら登っていた。

三度目の鳥取砂丘は観光客が少ない文学碑の短歌と俳句を見て廻った文学散歩であった。普段は文学に縁がない、浅学菲才には碑文の文字と意味が読めない、悲しきかな文人の感性は凡人には通じない。ここでサラ川を一句、「サンド目は 俳句も短歌も ハイ苦なり」

4140 最初の句碑は草で覆われた逆光の中にあった。手前の草を少し払いのけて撮影した。高浜虚子の弟子の 森川暁水(もりかわぎょすい) が昭和12年に詠んでいる。「月荒き 砂丘は古邑 うづむとや」

4160_4 高浜虚子の句碑は廃屋となっている大きな建物(砂丘荘)の前の松ノ木の下にあった。
「秋風や 浜坂砂丘 少しゆく」昭和7年に主宰するホトトギスで鳥取砂丘を詠んだ。



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道路の右側の広場の奥にあった。「砂丘をいくつか越えしが波音のまぢかにきこえて海まだ見えず」詠み人の説明も説明文に掲示されていた。

4270 有島武男の歌碑は道路の砂丘側、休憩舎の傍で一番目立つ処に建っていたがその文字が薄く文面は読めない。「浜坂の 遠き砂丘の中にして さびしき我を 見出でけるかも」
これは、大正12年有島武郎が45歳の時に鳥取砂丘を訪れて詠んだ短歌です。その後、武郎は1ヶ月余りで愛人とともに情死してしまいますが、鳥取砂丘はこの歌によって一躍有名になった。

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有島武男の歌碑から少し先に行った道路が左に曲がり鳥取市街が見える砂丘側にこの二つの案内板が立つ、その後ろにあるのが与謝野晶子と有島武男の歌碑が一つの石に並んではめ込まれてある。

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「砂丘とは浮かべるものにあらずして踏めば鳴るかなさびしき音に」昭和5年5月25日に与謝野鉄幹とこの地を訪れた与謝野晶子は友人有島武郎への鎮魂歌として、短歌を詠んだ。(短歌・俳句・解説など全てネットからの引用である)

最初の宿泊はじゃらんで予約を入れておいた鳥取駅前のホテルニューオータニ鳥取である。初日の宿泊は宿への時間が読めないので繁華街の中心にあるホテルを予約したのであるが思ったよりも早く着いた。フロント前のスペースにある小原流の生け花はこのホテルの存在感があった。

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ホテルの日本料理店、山茶花でじげ料理を注文した。じげ料理とは地元の郷土料理で11月の献立は左、料理の写真は右、宿泊者には一割引きの特典があった。

翌朝13日は神話の海岸を訪れてから鳥取砂丘を後にした。道の駅「神話の里白うさぎ」の駐車場前の海岸にある、4630 大黒さまの作曲者田村虎蔵の記念碑、♪が刻まれた石と後方に見えるのが白兎海岸。
4600_2 大国主命と因幡の白兎は鳥取県の恋人の聖地。全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図って全国に100ヶ所以上もあるそうです。先月は愛知県の恋路ヶ浜と三重県の神島と二ヶ所も見た恋人の聖地であった。右に見える鳥居は白兎神社の鳥居。4800 白兎神社は皇室の紋章である菊花をかたどった菊座石六ヶが社殿の土台に使われている。4880 いかなる旱天・豪雨にも水の増減がないという不増不減の池、神話では大黒様がこの池で皮を剥かれた白兎をこの池の水で洗い蒲の穂でくるんだといわれている。

神話の里、白兎海岸を後にして国道9号線を島根県方面に下った。

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2012年11月21日 (水)

天橋立と伊根の舟屋

27年前の1985年(昭和60年)8月10日(土)から始まった会社の夏季休暇を利用して当時10歳(小5)の息子と二人でスカイライン2000GTで山陰方面にドライブに出掛けたが最初の目的地が天橋立であった。今回は連れ合いと二人で同じようなルートで山陰に出掛けたが最初の目的地は27年前と同じように日本三景のひとつ天橋立である。27年前は京都東ICで下りて一般道を舞鶴方面に走り、天橋立に着いたが、今は遠回りになったが中国道・吉川JCTから舞鶴若狭道を経由して綾部JCTから京都縦貫道に入り与謝天橋立ICまで高速道を走り、横浜から670kmをSAで休み休み12時間かけて午前8時前に与謝天橋立に到着。天橋立駅前の文殊近辺を散策した後に対岸の府中にある斜め一文字の股のぞきの名所に向う。
天橋立は長さ3.2km、北海道の野付半島(日本最大28km)と同じように砂嘴で形成された景勝地である。

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与謝町の大内峠から見る「横一文字」、北の傘松公園からの「斜め一文字」、東の栗田峠から望む「斜め一文字(雪舟観)」が天橋立3大観と言われる。

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どこの観光地にもある観光名所の案内板、天橋立の股のぞきは傘松公園、27年前に息子と二人で股のぞきをした、その後に鳥取の得意先へ出張した帰りに大阪支店の仲間と又、股のぞきに来たのもここである。

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この時期の一番は8時30分発、乗客は我々二人であった。隣にあるリフトは同じ料金で9時からが始発であった。

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傘松公園には車でも行けるが丹後海陸交通のケーブルカーからも天橋立斜め一文字が車中からも見える。すれ違った空の2番発のケーブルカー、帰りもすれ違いケーブルカーの右脇にはリフトがあるが寒いのかお客はケーブルカーで上がってくるようだ。

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斜め一文字天橋立の股のぞき台、半逆光のお立ち台からの天橋立、ここから股のぞきをしたが体が硬くよく見えなかった(大笑い)、この他に新展望台スカイデッキ・スカイテラス・展望ウッドデッキ「コロッセオ」などがあり、二番発で登ってきた高校生で賑わっていた。昔と違いここの施設もかなりリニューアルされていた。

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ケーブルカーの駅員から上の成相寺からはもっと眺めが良いと勧められて160段の階段を登った休憩所で再度の股のぞきを試みる。

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ここでも体が硬くて股のぞきは、膝を曲げてもよく見えない!膝を曲げると自分の股しか見えない!27年前の働き盛りとは大違いの体力の衰えを自覚、股のぞきする理由がなくなった。

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午前8時31分頃の下りケーブルカー車窓からの天橋立斜め一文字

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下車間際に運転手に断わってケーブルカーの運転台を撮影、いまだに電車に興味深々?

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ケーブルカーを下りて丹後半島を25分走ると伊根の舟屋の里公園に着く

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舟屋見物の遊覧船も見えるが逆光の中

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道の駅舟屋の里公園から海辺に下りて順光の中で舟屋を撮影

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京都府与謝郡伊根町の舟屋、一階は舟の収蔵庫二階は住居

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丹後半島の海岸沿いに鳥取砂丘に向う、途中で撮影した屏風岩

今日のブログのカテゴリーは旅と観光にしてあります。

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2012年11月20日 (火)

薊と真鶸

旅行に出掛ける前にノートPCでブログが作成出来なくなり、ネットのPDFも開くことが出来ない不具合が発生、購入したPC DEPOTに診断を依頼するとスパイウェア2種とその他の亜種3種に感染していたのが原因と診断され、そのまま一週間の入院を余儀なくされて、ノートPCを不携帯で山陰への旅に出た。2530 旅から無事に帰った18日にPCも無事にカエルで手元に戻りました。山陰への旅路の前日11月10日の撮影。

今日も昨日の続きです、箱根温泉で気の早いOB会の楽しい忘年会で生き返り、2500_2 箱根路の行き帰りに湖尻園地で撮影した紅葉風景 と野鳥。真鶸(マヒワ)が採食していたのは薊(アザミ)であるが、アザミの種類は60種以上と多く、春に咲く野薊では時期が違うので夏から秋に咲く野原薊か、鬼薊なのかアメリカ鬼薊なのか、よく分からない。小春日和に誘われたのか、2610 まだ赤紫色の花が残る枯れ薊には黄蝶がとまり、この時期に貴重な写真が撮となった。
ビジターセンターの女性スタッフに教わったアザミを採食するマヒワが来る場所は昭和天皇御手植えのヒノキ1050 の近くであった。御植樹されてから62年、このヒノキも団塊の世代を迎えていた。この付近にはススキの中に秋の花、桔梗が咲いていた。1070_2
高原ホテルの傍には真弓の赤い実に負けじと蔓柾の赤い実も成り、ヤマガラが赤い実を啄ばみに来ていた。真弓の実にはヒヨドリしか見当たらない。2410_2 この付近から眺めた景色は紅葉の先駆けと想えた。ヤマガラはツルマサキの実を咥えると隣の木の枝2420_3で何回か採餌をして、2380_2 その後は実を咥えてどこかに飛んで行った。

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天を睨んで咲いていた赤紫や紫色のアザミの花も晩秋にはこんな風に変わる

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細長い管状花の集合体も花の終わりはタンポポのようになり、マヒワが立ち上がって啄ばむ姿がみられた

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綿毛を紋次郎のように咥えていた

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真横から見た綿毛を咥える様子

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薊の花言葉は独立、一羽で独立なのか孤立なのか、まあ暇の時にでも考えよう

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見返り美人型、止まっているアザミには棘が多く近づくと痛い目に遭う

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タンポポと同じような痩果の先端にある綿毛は風に乗り遠くに飛ぶ種である、マヒワも綿毛を啄ばんだ後は種も仕掛けもなく、どこか遠くに飛んだ。

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2012年11月19日 (月)

半島の野鳥

毎年恒例の箱根温泉での早いOB会・忘年会に参加の途中で寄った真鶴半島で11月9日に撮影した岩場の野鳥。
番場海岸でテントを張り、野営していた釣り人?の影響か、毎年海中の岩礁に佇むクロサギと遊歩道で見られたジョウビタキ♂は今年は見られず、中途半端な半島であった。

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海岸の潅木に群れるメジロとシジュウガラ

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ジョウビタキ♀も遠くの梢にいた

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海岸の岩場にイソヒヨドリ♀がいたが撮影するのに時間が掛かった

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海を背に逆光にいたので石がゴロゴロしている海岸を順光の位置まで移動して紅葉をバックにようやく撮影

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逆光の中で近くに寄ってきた、♂はシャイなのか遠くに見えたがカメラに納めることは出来なかった

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不思議そうな目つき

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飛び出しの態勢

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海をバックにカメラの近くを移動する、この日は磯でイソヒヨ♀に遊んでもらった。

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近く岩場にはトビもいた

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見ているとトビが飛び出した

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2012年11月 9日 (金)

蔓柾と眉茶鶇

鳥撮りを始めた頃にマミチャジナイの名前を聞いた時は和名の感じがしなかった鳥です。日本より北で繁殖して南に渡る時期に日本にたち寄る旅鳥です。マミチャジナイの和名漢字は眉茶の次の三文字目は (しない)冠に脚は鳥です。自分のPCでは手書き入力しても変換できません。パソコンで変換できない漢字の場合は [即/鳥]と書くことになっている。 ネットでは眉茶鶇と出ていますが図鑑では眉茶Photo_12 です。文字として変換出来ないので画として貼りました。PCで漢字変換できない鳥名は初めてのような気がします、ちょっと感じ悪い漢字です。
鳥名もややこしい、ちょっと珍しい名前です、一見すると胸から脇腹の橙黄色がアカハラに似ていますが、アカハラには白い眉班がありませんが同じツグミ科です、Webで調べるとツグミ類の古称はシナイと呼ばれたそうです。古称と言えば2007年大阪の都市公園と2011年荒川堤で撮影したキガシラシトドのシトドはホオジロの古称でした。
マミチャジナイ→マミは眉、チャは茶、シナイはツグミ類の古称で、眉のある茶色のツグミが名前の由来となります。マミジロなどの眉班の白の名前が省略されているので眉茶の茶は眉の色ではなく茶色い頭などの意です。鳥名に古い歴史を感じるマミチャジナイです。
舌足らずの解説でしたがこの鳥の愛称をマミチャンと呼びたいが、相模湾河口近くでミサゴが飛び込む相模川流域、田園にはいろいろな鳥が入ることでも知られていますが、七夕で有名な平塚市の観光大使に今年から委嘱された元アイドルのタレント「山瀬まみ」と混同するので止めにした。

 

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赤い実を飲み込んだ瞬間です、本当は飲み込む前を撮りたかったが咥えるや否や飲み込まれてしまいました。

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これを啄ばむと言うのでしょうか、早いので飲み込みの方が似合います。

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一度にこんなにも、大食いでもあるようです

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食休みの休憩のようです

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眉茶と言っても白い眉が目立ちます

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赤い実が少なくなってくると、こんな動作での採餌もあります

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大きくトリムして実(み)ました!

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ツルマサキの葉も黄葉する秋真っ盛り、実りの秋、食欲の秋ですね。

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白い眉でも眉茶とは如何に?名前の由来が気になりましたので冒頭に調べて記しましたがこれがトリムしたツルマサキの赤い実を啄ばむマミチャジナイです。

本日午後3時に現地集合で箱根でOB仲間との一番早い忘年会、明後日からは秋の渡り旅(鳥撮りにあらず)で山陰を渡り歩きますので、このブログは暫く休みます。

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2012年11月 8日 (木)

蔓柾と麦蒔

昨日も書いたが大勢の鳥撮りの中で黒ぽっいムギマキ成鳥♂が撮れない8年目となった。毎年撮れているハッキリした成鳥♂のムギマキをゲット出来ない!それどころかツルマサキの赤い実とムギマキも撮り損なった。おまけにオートフォーカスが効かなくなりカメラが故障した、サブカメラで急場を凌いだが、そろそろ鳥撮りを止めろとの神のお告げかどうか、まだ明るい時間に戸隠神社中社前のロータリーもどきを通り、いつもの神告げの湯に向う、温泉につかりながら癒しのひと時、浴槽の硝子越しの視界に黄葉や紅葉を眺め、気分は昂揚しながら神のお告げを待ったが10分も温泉につかると体の火照りの方が早く、全身が紅葉して、神告げの「やめろ!」との声を聞く前にのぼせてしまった。鳥撮りはまだ続けていいのかと暢気に判断したが、人生の収穫期とも言われる林住期にいつまでも野鳥にのぼせてはいられない、他にも挑戦すべきの林住期にやるべき余生がある想われ、元気な内にいつかはやめる日が来ると考える機会となった。

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ムギマキ♀なのかそれとも♂若なのか、ハッキリしない二羽を実が少なくなったツルマサキの中で視認した

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ムギマキ♂若なのか♀のようでもあるが外側尾羽基部の白色部はよく見えないが白いようにも見える、目の後方僅かに眉斑があるので♂若のようだ。

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ツルマサキの実のない処でお休みなのか 、目の後ろの眉斑が微かにあるように見えるので♂若かも

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カメラ目線も何か物足らない!

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そうなんです!この時期のムギマキはツルマサキの赤い実を啄ばむ姿がないと様になりません!昔ムギマキを初めて見た時は枝でもエーダ!と喜んで撮った駆け出しの頃があったが、赤い実を啄ばむ場面が撮りたい!目の後方の薄い眉斑があり、外側尾羽基部の白色部が見えないがどうやら♂若らしい。

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繁盛しているツルマサキのレストランにまばらに残った赤い実の中で、♀とも♂若とも見えるムギマキの区別は難しい。

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赤い実のフラィングキャッチ、これでも外側尾羽基部の白色部が確認できない

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大食いのアカハラやマミチャジナイなどが食べ尽くして残りは、僅かだがどの実が旨いか品定めのようである。他に木道や遊歩道から撮れる十数本のツルマサキがあるが今年は何故か?この木だけが大繁盛していた。

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まだツルマサキの実は残っていたが赤い実を啄ばむムギマキと黒いムギマキ♂が赤い実を啄ばむ写真が遂に撮れない年となり、連続8年のムギマキと赤い実の記録はついえた。
例年ならば三脚を担いで植物公園内のツルマサキのある処をくまなく歩き廻るが今年はここだけで済ました、歳のせいか年々真面目さや真剣さがなくなる。粘りと根気もなくなり、これから先の鳥撮りが思いやられる。

AFが故障したD3の点検にニコンプラザ銀座に出掛け、点検時間中に秋晴れの日差しの中を銀ブラ、6月以来のライオン銀座七丁目店で大ジョッキーと生ハムで喉を潤して戻るとショックが待っていた。AF作動不具合でAFが迷う、修理見積もり46000円である。新品を買うか修理をするか迷ったが目標400種も見えているので修理を選択した。5年も愛用していると主な修理はシャッターの交換、焼きついた液晶の交換、曲がったバョネット部の交換など何回も修理・交換しているがこれが最後に願いたいものだ。

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2012年11月 7日 (水)

蔓柾は小鳥のレストラン

今年もツルマサキは小鳥のレストランとして盛況であった、ご馳走の赤い実を啄ばみに来た小鳥たちである。撮影日11日前の10月27日長野県

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ムギマキ♀なのか♂若なのか、修行がまだ足らないのかムギマキは♀と♂若の見分けが難しい、前日は撮り放題と聞いたが26は日♂♀両方とも撮れなかった。場所を移動してまで撮る粘りが無くなったのか、鳥運に見放されたのか、ツキが落ちたのか、朧月は見たり聞いたりしたが、前日までの尽きがなくなり、1日違いでのまだらのつき、ツキの斑月は聞いたことがないが、まだらボケはあるらしい。

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やっと黒い成鳥ムギマキ♂が来たと思いっきゃキビタキ♂でした

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キビタキ♀これが居座るとムギマキを追い払うので上客のムギマキが来ない、ムギマキ目当ての人とツルマサキレストランではあまり歓迎されない。

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ツルマサキレストランの明るい片隅での採餌はコガラ君です

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キツツキの仲間のコゲラが二羽で追いかけっこをしながら赤い実を啄ばみに立ち寄る頻度が多い、これは一度に三つもほおばる欲張りのコゲラをはじめて見た!ヤマガラと同じようにどこかに貯蔵でもするのかな?

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このレストランでは一番大きい留鳥のアカハラの群れが来た、これが来ると根こそぎ食べてしまうおそれがある、ツグミの仲間でL24cmを小鳥というのかどうか、デジタル大辞泉ではL28cmのヒヨドリも小鳥の部類に入れていた。

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ムギマキの次に人気があった、渡りの時期のマミチャジナイ、アカハラよりも少し小さいツグミの仲間、L22cm、2年前はこの森のコブシの実を啄ばむ光景を多く見たが今年はこのツルマサキレストランの常連であった。

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ゴジュウカラはツルマサキにも時々寄るが今回は赤い実の写真がなかった。隣の木で採食、やはり蜘蛛や虫の方が好きらしい。すぐ傍にキバシリも来た、近くのモミの木にはキクイタダキも来た、アカゲラ・オオアカゲラも近くに来たが撮る気力がなかった。

例年ならば黒っぽいムギマキ成鳥♂を撮るまで粘るが根気がなくなってきたせいか、今年は♂を見ても木道は満員で三脚を動かせず、手持ちのカメラは故障、鳥運と撮り運がなかったと諦めも早く、戸隠の8年目は収穫の少ない年となった。

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2012年11月 6日 (火)

三杯の軍艦に右往左往

”太平の眠りを覚ます蒸気船たつた四杯で夜も寝られず” たった四杯の黒船、ペリーの来航により対応に慌てふためく、江戸幕府を狂歌に長けた江戸の庶民が揶揄 した傑作である。さしづめ現在人気のTV番組ではクイズ形式のペケポン川柳か、この対比ではチョット軽る過ぎて、この狂歌には及ばない。

例年タカの渡りの観察と撮影で賑わう恋路ヶ浜、今年は10月初~中旬に軍艦の珍客で地元も慌てふためいた。軍艦三杯が台風で迷い込み、椰子の実が流れ着いた浜に来たのである、タカを尻目にタカを括り、巨大なツバメを探す鵜の目タカの目、軍艦が現われると三脚とカメラを担いで右往左往した。

軍艦が迷い込む半月前、9月16日に放送されたダーウインが来た!空飛ぶ”軍艦の秘密”インド洋に浮かぶ熱帯の島、クリスマス島の大きな鳥、名前に軍艦と付くのには理由がある。一つは体の大きさ。翼を開くと2メートル以上、黒く光る巨体は威圧感に満ちている。もう一つの理由は、鳥類トップクラスという空中戦の強さ。飛行機のない昔、海で戦うものと言えば軍艦だったため、この名が付いたといいます。軍艦鳥の弱点の一つが泳ぎ。魚を食べる海鳥なのに、水に入ったり水面に浮いたりすることが全く出来ません。自力で魚を取るには、水面すれすれに飛びながらすくいとるしかありません。こうした狩りだけでは食料が足りないため、水鳥から強盗をするのです。厳しい宿命を背負って生きるグンカンドリ。(ダーウインが来た!空飛ぶ軍艦の秘密より)

今更ではあるが1種が増えるかどうかの話である。伊良湖港と神島漁港で撮影したそれぞれの軍艦鳥に違いがあるとは感じていたが、現地でも両方で三羽の小軍艦と大軍艦のそれぞれの若が飛んでいる噂であった。鷹撮影の渥美の森でもお世話になった管理人のTさんから毎日現われた時間や場所の情報が入って来る、午後からは早々にここを離れる人が多くなるがその中の一人であった。7日午後からは軍艦鳥オンリーとなった。
図鑑によれば、コグンカンドリの幼鳥や若鳥は頭部が白く、胸が黒くて褐色味があり、下面全体は黒いが胸部は白く、その部分が下雨覆いまで入りこむものが多い、嘴は鉛色で先端部分は白っぽい。一方のオオグンカンドリの成鳥は喉が赤いので見れば分かるが日本では成鳥の記録はないといわれ、若鳥は頭部と腹部は白い、また前頸に橙色味のある灰色の部分がある個体や胸に黒っぽい部分がある個体があるなど、個体変異がある。腹部の白い部分が翼に入りこむことは少ない。両者の一番の見分け方は腹部の白い部分が翼に入り込む長さを基に軍艦鳥の違いを比較してみた。

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顔・頭が淡色で、斜めからの写真では飛ぶ姿の胸の白い部分が雨覆いの下まで明瞭に深く入っている。10月7日伊良湖港で撮影

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真上に飛んだ、胸の白い部分がかなり翼の中まで入っている様子が分かる、鉛色で先端が白っぽい嘴。

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この個体は燕尾の片方が短い、コグンカンドリは翼長W175-195cm、頭上を飛んだノントリ写真

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上の4枚の写真は10月7日に撮影したコグンカン若と思われる同一個体、頭部は白く、胸は黒くて褐色味がある、白い部分がかなり翼下に入っている。燕尾の右側が欠損して短い。下のオオグンカン若と比較するとこちらの方がズングリしているようにも見えるのはオオグンカンよりも翼長が短いからか?

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オオグンカンドリ若と思われる、頭部から胸にかけてコグンカンドリよりも淡色の橙褐色、胸の白い部分が翼に入り込むことは少なく形も異なる、上のコグンカンとはかなり違う。10月10日神島漁港撮影

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下の二羽編隊飛翔の後ろを飛ぶオオグンカンドリ若、こちらの方が嘴・顔・頭・胸の色が濃く成鳥に近い若と思われるが、あるいは図鑑でも説明のある個体差。

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オオグンカンドリ若の編隊飛翔、顔と胸の色と燕尾の飛翔形に個体差がある、編隊は変体と変態にあらず。

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オオグンカンドリ若と思われるこの二羽の尻尾は綺麗な燕尾、これで一羽のコグンカンドリ若と合わせて3羽の軍艦鳥を記録した。

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編隊の後ろにいた嘴・頭・顔・胸が黒い方のオオグンカン若にトビが飛び掛る

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編隊の前にいた嘴・頭・顔・胸が淡色のオオグンカンドリ若とトビの追跡劇、地元のトビの群れがよそ者を追い出すのか、トビとの神島上空の空中戦、軍艦も相手が普段の海鳥とは勝手が違うようだ、初めて追われる身なった?これが原因で数日後の台風が来た翌日に抜けたのか?翼の形と長さの違いがよく分かる、スマートな軍艦はツバメのように飛翔が早そうに見える。トビの翼長W157-162cm、オオグンカンドリW205-230cmである。

情報に右往左往しながらも神島まで広範囲に探した甲斐があり、お陰様で初見・初撮りが若であったが2種増えたことになる。
最後に遅くなりましたが現地でお世話になった皆さんありがとうございましたo(_ _)oペコッ

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2012年11月 5日 (月)

桃花鳥の飛翔

紫式部日記の1008(寛弘5)年11月1日の項に、源氏物語に関する記述があり。この名作が文献に出てくる最も古い日付だそうだ、これを記念して今年から11月1日が古典の日となったと新聞の解説。これを機会に日本の文化を古典から学ぶのも奥深いものを感じる。

日本書記や万葉集などではトキを桃花鳥と表記して、トキの古名をツキと読んだとWebで知った、漢字3文字でツキと呼ぶのも古典の奥深さ、古典知らずにはコテンと参った。

まだ在庫にあったトキの飛翔連写16枚の写真です。毎回同じでご存知と思いますが画像をクリックするといつものように最大100KB、1024x1024ピクセルの写真に拡大します。写真の順番、番号は上段から左→右へ、左→右へと時間の経過です、田圃から餌場の休耕田へ飛翔する16枚の全てノントリの写真は15時31分台です。撮影日10月25日富山県

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旧名のようにツキがあったのか、青空のみならず薄雲の中を飛ぶトキ色も撮れました。GPSアンテナを健気に背負い飛んでいる写真もトンダものです。連写16枚の後は餌場に向い下降するトキの画像も小さくなり、しかも電柱、信号機、家屋などが入りましたので割愛しました。

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2012年11月 4日 (日)

姉羽鶴旅立ちの飛翔

ユーラシア大陸の中央部、ロシア・モンゴル・カザスフタンなどの大草原の繁殖地から5万羽以上のアネハヅルが秋に南下して、世界の屋根、標高8000m級のエベレスト8848mを頂点とするヒマラヤ山脈上空をチベット側からインド側に命懸けで飛び超える、空気も薄く、氷点下マイナス40℃の厳しい気象条件の中を壮大なV字編隊飛翔、大きな群れの渡りである。下降気流や乱気流の悪天候では途中から集団は麓に引き返してくる。天気が回復してからヒマラヤ山脈越えを再挑戦する、今度はイヌワシが待ち構えている、V字編隊が突然乱れる、群れの中から若が追い出されて、必死で逃げるも二羽のイヌワシの連携プレーに若いアネハヅルが餌食になる、ヒマラヤの頂点にいるイヌワシは食物連鎖のピラミッドの頂点にいるのだろうか。この犠牲により群れはV字編隊に戻り、無事ヒマラヤ山脈を越える。
これは一度見た記憶がある、2006年に放送されたNHKスペシャル・プラネットアース 第5集「高山 天空の闘い」のアネハヅルのヒマラヤ越えを、NOD:NHKオンデマンドで昨日あらためて有料(三日間210円)で見直した。60分間の番組は初めて映像に撮られたユキヒョウなどの高山の珍獣や珍しい鳥などが見られ最後はアネハヅルとイヌワシの空中戦で終わる。番組の最後に2008年10月に71歳で亡くなった緒形拳がナビゲーターとして出演していた。なぜアネハヅルは過酷な旅をするのか、それはヒマラヤ山脈がまだ低かった時から続けられている説があるとの懐かしい声のナレーションを聞いた。何万年もの間アネハヅルはヒマラヤ山脈を越えてインドへ渡りを続けていたのだ。抜けてしまったアネハヅルへの思いが断ち切れずにいる、今日も重いブログになった。

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二番穂の田圃の中で8時30分頃、最後の採餌を終わる、旅立ちの武者振るい?

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稲刈り後に水を張った田圃の中を歩き畦道にあがる

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8時40分、田圃の畦道から飛び出し

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田圃に影を写し飛翔開始です、カメラの正面に向って飛んできます。 

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近くを飛んだノントリの大きさ 、お腹が大きい、撮影日の前日も雨の中で採食をしていたといわれるのでこの日もたらふく採餌していたようだ

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これもノントリ、お腹の膨らみがシルエットに目立つ、旅立ちの腹ごしらえなのだろうか

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これはトリムしたお腹の膨らみ、飛翔が重そうに見える

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遠くに行ってからUターンしてきた、飛んで行く方向を探すのか、これもノントリ

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田圃の上空を旋廻して行く

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餌場の田圃の移動は低空飛翔であった、この日は飛び方が違うようだ、青空高く

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ヒマラヤ山脈を越える時は登山隊にもV字飛翔が見えたそうです

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畦道の飛び出しから約10分、方向が違うのか、この森の上まで飛びまた引き返して来たが

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これが最後の一枚、見納めの時です。

田圃の上空から8時50分頃に森を越えて見えなくなり、10時過ぎまで車で付近を捜したが見つからず、諦めてここからトキの処へ移動した。この時が抜けた瞬間かも知れない。一路平安を祈る。

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2012年11月 3日 (土)

田圃の姉羽鶴

何十年振りなのか学生期(がくしょうき)に学んだ、旧い教材の世界地図、帝国書院・新詳高等地図・昭和38年最新版、定価274円の裏書が黄変している地図を書棚の隅からとりだした。

インドの思想(ヒンズー教)では人の一生をそれぞれ25年の四住期に分けて、25歳までの勉強や修行の時期を学生期、就職して家庭を築き子供を育てる家住期、これで50歳までの人生の前半だが現代では、作家の五木寛之は定年となる60~65歳から始まり、75歳までの林住期を人生の黄金期、収穫期(ハーベストタイム)と呼んでいる、第一線を退いてから自然に向き直り、自己を見つめることが出来るのが林住期、作家の体験なのか元気な人は更に5年10年も林住期が続くと言う、人生の最後は俗世の欲を捨て去り、旅立ちを待つ遊行期である。

学生期に学んだ地図を林住期の今に紐解いて、アネハヅルの飛行ルートを勉強した。地図を見ていると太古の昔、インド大陸が移動してユーラシア大陸に衝突して下に潜り込み、今でも隆起を続ける地球上で最も若い長さ3800kmにおよぶヒマラヤ山脈が海底から隆起した気配が読み取れる。アネハヅルはユーラシア大陸の中央部、ロシア・モンゴルなどの大草原の繁殖地から秋になるとこのヒマラヤ山脈を越えて越冬地のインドへ過酷な渡りを続けていたのである。春になると逆に越冬地から繁殖地へ年に二度もヒマラヤ越えをする。

今年は二つの台風が群れでやって来るのが多かったが10月初めの19号か20号に流されて単独で日本に迷い込んだのだろうか、アネハヅルと10月24日に能登の田圃で3時間弱遊んだ。

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田圃の畦道で全身をぶるぶる震わした時、理由は不明。

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鶴では一番小さいが羽を広げるとこんなに大きく見えるぞ!

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肩をすぼめるとこんな感じ?

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猫じゃないのに猫じゃらしはいやよ!ダ目よ!ダ眼よ!!

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立派なお髭に見えるよ!ヒマラヤ越えのマイナス40℃の極寒では襟巻になるのか?

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時々の羽繕い

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足の爪までストレッチ

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田圃の採餌中に何か動くものかあるのか?

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この田圃で採餌後に飛び出し、水路の先にある隣の田圃に移動

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助走は短いが飛翔までは非常にゆっくり長く感じる

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田圃の移動は高く飛ばず、飛翔は全てノントリ。

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2012年11月 2日 (金)

姉羽鶴

アネハと言っても耐震強度偽装でマンション住まいの人に疑心暗鬼と国会をも巻き込み、世間を震撼させた事件の元一級建築士の姉歯ではなく、大勢の鳥撮りがまだいると思われた能登半島で起きた、25日にぬけていた晴天の霹靂事件(大袈裟な言い方かな)の姉羽である。
アネハヅルの情報は10月10日に恋路ヶ浜で耳にしていた。先月11日に伊良湖岬から帰浜して携帯電話を一週間も車の中に置きっ放しでグンカンドリなどのブログを書いていた、20日に携帯の受信記録を見ると、この間13日~16日に7,8回3人の鳥友からの連絡を放置したまま情報は携帯の中であった、受信記録からアネハを撮りに行かれ移動中に携帯に受信した千葉のKさんに申し訳ないと言い訳して五日前のアネハの情報をいただいた。
日常の情報はPCで行なっているので、アネハのPC情報は21日夜に私のブログリストにアネハヅルが載っていないと20日にアネハを撮影して来られた鳥友Mさんからメールに入った、イナバは抜けたがアネハはまだ居ると確信して、重たい腰を上げたのが雨降る23日深夜、七尾市まで500km以上走り、24日の星空が見えるまだ暗い夜明け前に到着、田圃でアネハの探鳥を始めた直後にKさんご夫妻と遭遇して、ケンさんでしょうと声を掛けられる。これが今回のツキの始めである。翌日トキの場所で聞いた話ではこれが抜ける前日に間に合ったのである。二日間の
アネハとトキの場所ではKさんご夫妻との携帯の通話で手分けの探鳥、広範囲な場所で鳥を探す時は最高の連絡手段であることを再認識した。ローンウルフを自認していても結局は大勢の鳥撮りの仲間に支えられている事を自覚した。携帯の使い道はポイント天気予報が主な用途であったので真に謝謝、多謝、感謝である。

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6時半頃の田んぼのアネハヅル、頭頂は青灰色、眼の後方にある白い飾り羽と赤い眼が可愛い、黄色い嘴の先は紅をつけたように赤く見える、足は黒い。

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二番穂の田んぼの中を落穂を採食するのか、それとも草の根をほじくって食べるのか田圃の中を歩き廻る、頭頂と後頸と全体は青灰色のアネハヅル

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朝日を浴びて畦道に立ち止まるアネハヅルの赤橙色の虹彩と嘴の先が赤く目立つ

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黄色い嘴の先が赤く、額から顔、前頸は黒く、頸の下部の黒髭のような 黒い羽は長い、繁殖地のモンゴルなどから10月の渡りの時期にはチョモランマなどの8000m級の厳寒の山を越えてインドなどへの越冬地に渡るので有名であるが時たま来る日本への迷行は大歓迎である。

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真正面からののアネハヅルは頸からの長い黒い飾り羽に威厳を感じる、アオサギよりも少し大きいL95cmで鶴の仲間では最小の大きさである。数はカナダヅルに次いで二番目に多い。

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早朝から初めての動きがあった。一本足のストレッチでも赤い可愛いお目目に眼がいく

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田んぼの中で餌場の移動は低空飛翔

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田んぼの着地を優雅に決めた、鶴の仲間であるので良く見るタンチョウの着地と似ているが小振りである。

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2012年11月 1日 (木)

桃花鳥

映画撮影の苦労話として、某大物監督は時代劇のロケをしていたとき、助監督に邪魔な電柱を切り倒すよう命じて困らせたそうである。時代劇の撮影では「松の廊下」と言われるのが電柱、「殿中でござる!」から映画人の洒落のようです。アスファルトやコンクリートの道は砂をまき、電柱は塀を積み重ねて隠すそうです。電柱があれば電線もあるはずですがこれはどうしたのでしょうか?カメラアングルを低くして映らないように苦労したものと思われます。

電柱の鳥は普段あまり撮らないが朱鷺だけはトキ別である。
午後1時過ぎにトキが田んぼから近所のお気に入りの電柱にとまった時に、道路から撮影すると電線が画面の縦に入り、ロケーションが良くないので
電柱前にある家の人が庭先におられたので、「トキの撮影をさせて下さい」とお声を掛けると笑顔でどうぞと言われて、太陽を背に道路と直角の位置に三脚を立てさせていただいた。このお宅は縁側と庭先から電柱にとまったトキが見える絶好の場所であった。トキお気に入りの電柱と思われる、このお宅では日頃からトキの撮影者に理解を示す、トキに親しみを持つ市民と思われ、有り難いことである。お陰様で二本目の電柱のトキ撮影が成就した。

今日の天声人語に今年から11月1日は古典の日。さだまさしの絶滅の虞があるトキの新聞社会面から作詞した、前夜(桃花鳥)ではトキをこの漢字で書いている、日本書記にはトキを見た色から付けられた漢字で桃花鳥となっているが万葉集でも同じように桃花鳥である。いにしえのロマンを思い朱鷺を桃花鳥として著し、今日もまた徒然なるがままのトキである。

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お気に入りの電柱でござる!一番上の電線はトキが飛来した避雷線、架空地線と呼ばれ、雷による送電線の切断や雷の高電圧が送電線に誘導されないようにする裸のアース線。電線類ではこれが一番目立たない細い線。

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大きな動きにときめいたが鳴いたのかアクビなのかトキ知らず

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淡いトキ色の尾羽の手入れ、口をはさむつもりはないがこれは嘴入れだろう。この場所ではないが餌場でトキ撮影中にトキ観察員が口をはさんできた曰く、この子は雌鳥であるので夢精卵を3,4個産むが残念ながら孵らないと言われた。トキも市民も早くお婿さんが飛んで来て欲しいものだと思う。佐渡にトキを贈ってくれた同じ学名を持つNipponia属の中国・陝西省で増殖したか、天然のトキが飛んでくるか、または佐渡で放鳥した♂が飛んで来てお婿さんになればトキメキちゃんは佐渡嬉しいことだろう。この時にハテナ?と気になるのは背中のGPSは繁殖に邪魔にならないか?アンテナが気がかりである。

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そろそろ2時間が経過、飛び出す前触れのストレッチ、そろそろ飛び出し時間も学習効果で分かるようになってきた。飛び出し1分前。

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二時間もここで佇む、飛び出しの直前トキ万歳の時、最初は4人で庭先にお邪魔していたが飛び出しの時は、途中からアネハヅルの処から来られた愛知のジェイスさんと二人だけの黄金の時で観察・撮影となった。

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上に跳んだように見えた飛び出しとなった、これがノントリ

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これが飛び出し二枚目、三枚目は隣家の軒下で撮り損ねた。このあとは餌獲りに田んぼに朱鷺色が舞い降りた。庭先でお声を掛けた家の人は出掛けたままで2時間経っても帰らなかったがトキは田んぼに帰った。
今日もブログで五日目のトキを学び遊んだ。

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