鳥取砂丘と白兎海岸
今年二度目の鳥取県入りである、北海道から帰浜直後の7月中旬に兵庫県や岡山県に近い八頭町にある八東ふる里の森で4日間、県名の鳥撮り県で昼夜を問わず懸命に野鳥撮影をしていたのでこの時は観光どころではなかった。
京都府伊根の舟屋を9時半に出発して丹後半島を巡るように走る国道178号をドライブして、撮影済みのコウノトリが居るコウノトリ郷公園のある兵庫県豊岡市をスルーする、 兵庫県との県境にある岩美温泉で鳥取県入り、 国道9号で白バイが後をつけて来たが何事もなく通過、鳥取砂丘に着いたのは午後1時頃であった。連れ合いが初めての鳥取砂丘はこれがサンド目である。
砂丘の沖合い右手に浮かぶクジラに似た形の海士島(あもうじま)が見える砂丘に登る前に駱駝と記念撮影。 駱駝の上の人は定年後の今でも上の人であるが鳥取砂丘は初めての人でもあった。今日11月22日はいい夫婦の日であるがラクダの上と関係あるやなしや。写真は本人の都合により一部を割愛してあります。 砂丘にも川の流れや一部には緑があります。
砂丘に登って見た日本海と海士島、砂丘斜面の足跡が黒く見えるのは水分で砂が黒ぽっく見える。砂丘には「あれから40年」の長靴を履いた団体さんがよちよちと砂に足をとられながら登っていた。
三度目の鳥取砂丘は観光客が少ない文学碑の短歌と俳句を見て廻った文学散歩であった。普段は文学に縁がない、浅学菲才には碑文の文字と意味が読めない、悲しきかな文人の感性は凡人には通じない。ここでサラ川を一句、「サンド目は 俳句も短歌も ハイ苦なり」
最初の句碑は草で覆われた逆光の中にあった。手前の草を少し払いのけて撮影した。高浜虚子の弟子の 森川暁水(もりかわぎょすい) が昭和12年に詠んでいる。「月荒き 砂丘は古邑 うづむとや」
高浜虚子の句碑は廃屋となっている大きな建物(砂丘荘)の前の松ノ木の下にあった。
「秋風や 浜坂砂丘 少しゆく」昭和7年に主宰するホトトギスで鳥取砂丘を詠んだ。
道路の右側の広場の奥にあった。「砂丘をいくつか越えしが波音のまぢかにきこえて海まだ見えず」詠み人の説明も説明文に掲示されていた。
有島武男の歌碑は道路の砂丘側、休憩舎の傍で一番目立つ処に建っていたがその文字が薄く文面は読めない。「浜坂の 遠き砂丘の中にして さびしき我を 見出でけるかも」
これは、大正12年有島武郎が45歳の時に鳥取砂丘を訪れて詠んだ短歌です。その後、武郎は1ヶ月余りで愛人とともに情死してしまいますが、鳥取砂丘はこの歌によって一躍有名になった。
有島武男の歌碑から少し先に行った道路が左に曲がり鳥取市街が見える砂丘側にこの二つの案内板が立つ、その後ろにあるのが与謝野晶子と有島武男の歌碑が一つの石に並んではめ込まれてある。
「砂丘とは浮かべるものにあらずして踏めば鳴るかなさびしき音に」昭和5年5月25日に与謝野鉄幹とこの地を訪れた与謝野晶子は友人有島武郎への鎮魂歌として、短歌を詠んだ。(短歌・俳句・解説など全てネットからの引用である)
最初の宿泊はじゃらんで予約を入れておいた鳥取駅前のホテルニューオータニ鳥取である。初日の宿泊は宿への時間が読めないので繁華街の中心にあるホテルを予約したのであるが思ったよりも早く着いた。フロント前のスペースにある小原流の生け花はこのホテルの存在感があった。
ホテルの日本料理店、山茶花でじげ料理を注文した。じげ料理とは地元の郷土料理で11月の献立は左、料理の写真は右、宿泊者には一割引きの特典があった。
翌朝13日は神話の海岸を訪れてから鳥取砂丘を後にした。道の駅「神話の里白うさぎ」の駐車場前の海岸にある、 大黒さまの作曲者田村虎蔵の記念碑、♪が刻まれた石と後方に見えるのが白兎海岸。
大国主命と因幡の白兎は鳥取県の恋人の聖地。全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図って全国に100ヶ所以上もあるそうです。先月は愛知県の恋路ヶ浜と三重県の神島と二ヶ所も見た恋人の聖地であった。右に見える鳥居は白兎神社の鳥居。 白兎神社は皇室の紋章である菊花をかたどった菊座石六ヶが社殿の土台に使われている。 いかなる旱天・豪雨にも水の増減がないという不増不減の池、神話では大黒様がこの池で皮を剥かれた白兎をこの池の水で洗い蒲の穂でくるんだといわれている。
神話の里、白兎海岸を後にして国道9号線を島根県方面に下った。
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