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2012年11月28日 (水)

萩城址と厚狭毛利家屋敷

今朝は「卒原発」を掲 げて「日本の未来の党」の党首になった滋賀県知事の嘉田由紀子さんの記事に目がテンになった。新たな第三局が生まれたのである。環境社会学者から知事そして党首になれたのである。原発に反対する著名人からの賛同も多いようである。太陽の党と合流して歯切れの悪くなった橋下さんは大阪、琵琶湖を守る嘉田さんは大阪の命の水がめの番人でもある。真の第三局はどちらなのか、師走の選挙で日本の未来が問われる。

現役最後の3年間は毎月1回の会議に琵琶湖畔にある子会社に通っていた。新横浜から朝一の新幹線のぞみで2時間ジャスト、京都から湖西線で25分、堅田駅からタクシーに乗り近江八景の「堅田の落雁」で有名な浮御堂の前を通り20分位で琵琶湖が全貌できる会議室に9時前に着く、今でも琵琶湖の四季の風景を思い出すが若狭湾の原発群も近い。

宿の萩小町もどこの温泉と同じように、朝の温泉は男湯と女湯が入れ替わる、夕べの女湯であった17030 17050違った趣の温泉に入れるのも朝飯前の楽しみのひとつである。夕べ食後に予約してあった家族風呂とあわせてこれで五つの海辺の温泉を楽しんだことになる。
17130 朝食は別館のダイニングでイス席が用意されていた歳をとると座敷よりもやはり椅子の方が楽である。

この日の朝は萩城址のある指月公園と駐車場前にある旧厚狭毛利家の長屋の観光から一日が始まった。
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広島に居城を置き中国地方8ヶ国の大大名112万石、五大老のひとりであったが1600年の関が原の天下分け目の戦に西軍について敗れ、周防・長門の二ヶ国に36万千石に減封された毛利輝元の築城である。萩城址の石垣につわぶきの花が見える。
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明治初期の萩城天守の写真、慶長9年(1604)から着工13年(1608)に完工、桃山初期の形式をのこす、白亜五層の天守閣は明治7年(1884)に解体されたと説明文にある。天守閣にあった一角に上る石段と天守閣跡から見た内堀の一部。

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煤払いの茶室の庭、旧梨羽家(萩藩寄組士三千三百石)別邸茶室は年末の煤払いの際に藩主が一時ここに休憩することからこの名が付いた。晴天秋晴れの16日、正面入口付近の石垣の上から一段高い天主のあった石垣方向を写す。二の丸東門方向からの内堀と城跡の石垣。

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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋、厚狭毛利家は毛利元就の五男元明秋を始祖とする一門で厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に知行地(8370石)を持っていたのでこのように呼ばれた。棟札によると安政3年(1856)に建てられた桁行51.4m梁間5.0mの長大な構造で現存する萩武家屋敷の中で最大。

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長屋には三本の矢の話、萩城下の町割り、甲冑などの他に萩城を再現する模型など昔を彷彿するのに参考になる資料が展示されていた。

この見学のあとは萩城城下町界隈を後にして秋吉台に向けて車を走りだした。

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