相州小田原城
只今は2月2日から11日までの10日間の無料スカパー放送に嵌っているのでblogが疎かになっている、年金生活者には只の魅力には勝てないようだ。
一昨日、節分の夜は丙(南南東)に向って恵方巻を食したが昨日は立春である。ひと月前の正月4,5日で熱海へ家族で温泉に行ったがその途中で新横浜から南西に45km先にある小田原に寄った。あれから1ヶ月過ぎた。年々月日の過ぎ去り行くのが早く感じる、1月は既に行ってしまった。この分では2月も早々に逃げてしまうだろう!と只の時代劇専門チャンネル、東映チャンネル、日本映画専門チャンネル、囲碁将棋チャンネル、J SPORTS(毎年12月-3月のプロ野球が無い期間は契約解除して、この期間は鉄道チャンネルを視聴する)などの番組表から趣味の時代劇と将棋、見たいスポーツ番組で一日があっという間に経つ今日この頃である。
熱海に向う途中の新湘南バイパス茅ヶ崎中央付近で撮影した1月4日午前の高速道の富士山
旅の途中で寄った小田原城。正面入口の馬出門土橋を渡り、馬出門に入った処で小田原城天主閣を遠望した。
小田原城址公園内に1990年に復元された木橋です。馬屋曲輪と二の丸の間の住吉堀を跨いでおり、1997年に復元された銅(あかがね)門に通じる通路上にあります。
平成9年に復元された銅(あかがね)門、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていました。
正月の銅門(渡櫓門)銅板が赤く鈍く光ます。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。
小田原城本丸の正門にあたる常盤木門、もっとも大きく堅固に出来ている、昭和46年復元
常盤木門(ときわぎもん)の由来は常盤木は常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞえらえてこの名がついたと言われる。
天守閣の登城口、15世紀中頃に大森氏が築いた山城が全身。
戦国時代の1497年北条早雲の居城になってから、関東支配の拠点となり、北条氏綱・氏康・氏政・氏直と五代続くが1590年豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となる。
昭和35年に鉄筋コンクリート造りで江戸時代の姿に復元された、三層四階の天主閣には付櫓と渡櫓がある。
天主閣三階からの海岸方面の小田原市街、この上の最上階四階は高欄つき廻縁には金網が有り、格子窓からの撮影となった。
小田原城の歴史と門などの名前や由来は城址公園内の説明文や配付されたパンフなどからの引用。
江戸末期の城の姿へ復元整備が進められている「小田原城址公園」は1月下旬に北条氏の庭状遺構が市の発掘調査で「御用米曲輪」跡で見つかるなど今後の調査でまだ知られていない戦国大名北条氏の居館跡の発見が期待されている。
« 円運動の連続技は合気道 | トップページ | 人生は旅 »
「趣味」カテゴリの記事
- 最初にして最後のゴールド免許(2024.06.18)
- このブログはまもなく終焉を迎えます(2023.07.16)
- 始めあるものは必ず終わりあり・その2(2023.07.26)
- 転ばぬ先の杖と杖ことば(2023.03.07)
コメント