将軍の御鷹場
目黒通りと駒澤通りの二つの大通りに挟まれた、東横線の学芸大学駅付近に目黒区の歴史を今に伝える目黒区鷹番の地名 がある。ここは八代将軍徳川吉宗(将軍職 1716年~1745年))のころに指定された御鷹場が六筋(6ヶ所)あり、その一つが目黒筋と呼ばれ、付近には野鴨が豊富な碑文谷池(碑文谷公園弁天池)などが鷹狩の好適地として利用され、鷹番や鳥見役所などが置かれた。鷹番とは御鷹場の監視や管理をする番所があったことや、鷹狩りに携わる役職(番人)が住んだ土地から鷹番と呼ばれるようになった。(東京おもしろ雑学を参照)
鳥見とは江戸幕府の職名。若年寄に属し,将軍の狩猟地を巡検し,鳥の所在を調査する職。(大辞林の解説)
昔から時代劇が好きだったが三十数年前に鷹が飛び回るTV時代劇を見た記憶がある、昨年はCS放送の時代劇で再放送を観賞した。時代は1770年代、悪政を極めた田沼意次時代に、鷹を自由に操る10代将軍・家治直属の探索機関“があった“お鷹組”と呼ばれ、将軍から切捨て御免の権限を与えられた“江戸の鷹”の面々は、汚職した武家政治の中、いかなる権力にも屈せず、社会正義と庶民の治安を守るため、名優・三船敏郎が将軍直属の探索方に扮し、鷹と共に活躍した痛快時代劇である。(ウィキペディア 江戸の鷹 御用部屋犯科帖より一部参照・抜粋)
浜離宮恩賜庭園には江戸時代に築造された二ヶ所の鴨場がある、庚申堂鴨場(こうしんどうかもば)は安永七年(1778)、新銭座鴨場(しんせんざかもば)は寛政三年(1791)に築造されたものである。
入園時に配付されたパンフの園内見取り図を拡大、右上に新銭座鴨場が見え、東京湾から引いた潮入りの池に架かるお伝い橋の左脇に庚申堂鴨場が見える。
東京湾側から撮影した往時の面影を残すお伝い橋
園内の説明文、鴨場の元溜り、引掘、小覗、大覗、双手網(さであみ)などの鴨場の説明
鴨猟の説明図
庚申堂鴨場の元溜まり
小覗きと引掘り
小覗きの内部、覗き窓、ヒエ・アワなどの餌の挿入口、囮のアヒルに合図する板木と木槌引掘りと小覗きの外観、このような引掘りと呼ばれる細い堀が元溜りには数筋ある、ヒエやアワなどの餌に飼いならされた家鴨(アヒル)の後に野鴨がついて来る習性を利用してこの堀に引き込む
小覗きの外観
小覗きの真下の引掘り、このような引掘りと呼ばれる細い堀が元溜りには数筋ある、ヒエやアワなどの餌に飼いならされたアヒルの後に野鴨がついて来る習性を利用してこの堀に引き込む、野鴨がついてくると元溜まりの入口を塞ぐ
大覗きは池や鴨の様子を見る、野生のオオタカがやってくると鴨が落ちつかなので囮の鳩を仕掛けて捕える
大覗きの内部、囮の鳩をどのように仕掛けたかは不明
双手網(さであみ)が展示されていた、明治以降はこのサデアミで引掘りに誘い込んだカモを捕えた、飛んで逃げるカモは仲間にここは危険な場所と知らせるのを防ぐために鷹匠のタカがカモを狩した。
因みに将軍の狩場は、御鷹場(オタカバ)、御拳場(オコブシバ)、御留場(オトメバ)などと呼ばれた。
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