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2015年2月

2015年2月26日 (木)

一鳥一絵の浜雲雀

 水の流れと人生は二度と元には戻らない。敗戦後5歳の12月に満州から引揚げてきた。その後に入学したのは烏山小学校である。学校の長い廊下を走って、先生に叱られた。”廊下は静かに!”あれから七十年。今は人生の老化を歩んでいる。”老化は静かに!”時のうつろいとともに刻んでいる”老化がヒタヒタと迫る”世界一の速さで高齢化の波が押し寄せる日本の中で。加齢の流れは早いもので、今年から後期高齢者となる。あれから七十年。今は一日一日の時の流れが早く感じる、体のうつろいを感じる”老化の時感”。心のうつろいを感じる”老化の時感”心身のうつろいを感じる”老化の時感”。

時感とは何だろうか。時間は楽しい時は針が進むのが早く感じるし、辛い時は長く感じる。加齢の時感は辛いものである。
「時感」は時計の針のように一定ではない、人により、男女の性別のより、年代により時感は差異があり、意識のズレがある。


シチズン時計の現代人の”時感”意識調査では20代30代40代50代の各世代男女各50人をランダム抽出、合計400人のネット調査では
「未明」「早朝」「昼下がり」「真夜中」に関する”時感”のアンケート結果の一例を参考までに。

「未明」とは1時53分から4時07分までという結果でした。(各質問も始まりの時間、終わりの時間の各平均値)
「未明」は広辞苑によると「夜がまだすっきり明けきらないとき」です。調査時期(10月12日~14日)の日の出は、東京で5時45分でしたので、辞書の意味よりかなり早い時間帯を未明と捉えています。一方、報道機関や気象庁は0時~3時を「未明」としていますが、調査結果はこちらともズレがあります。年代別では、始まりの時間が20代は1時30分であるのに対し、50代は2時14分で44分の開きがあります。

広辞苑では「早朝」は「あさはやいうち」とあります。
4時37分から6時15分までの2時間弱程度を「早朝」と感じる人が多いようです。女性と20代が若干「早朝」感覚が早いようです。

12時35分から14時12分までが「昼下がり」の感覚でした。広辞苑では「正午を少し過ぎた頃。午後2時頃」とあり、ほぼ同じ“時感”のようです

広辞苑では「夜のもっともふけた時。深夜」とありますが、23時37分から2時04分までを「真夜中」と感じるようです。

調査の一部をネットから抜粋しましたが60代以上は何故か調査対象ではなかったが自分の時感とやはりズレがありましたが読者の皆さんは如何でしょうか。鳥撮りを謳歌していた頃は夜討ち朝駆けは当たり前でしたので、目的意識により時感も差異があります。直近は時感にも冴えがなくなりました。

四季のうつろい、季節の流れ、自然の気配を感じるのも「時感」である。時感は感性でも異なります。

”時感”を老化とともに走っている”。廊下を走って先生に叱られたが老化を走っていたら、先日後期高齢者医療被保険者証が追い掛けて来た、来月の誕生日から有効らしい。自分の保険者もうつろう、会社の健康保険組合から退職後に国民健康保険は横浜市に移る、今回は神奈川県後期高齢者医療広域連合という長たらしい名前の組織に移ろうとしている。今まで淡いピンク色のカード大の保険者証と黄色の国民健康保険高齢者受給者証の二枚から青の一枚に変更になった。診察券と同じ大きさのカード大からカード二枚分の大きさになり、携帯には不便な大きさとなった。この大きさが失くさないから便利と書いてあったが携帯には不便な大きさである、これでは二つに折り畳んで所持しなければならない不便極まる大きさである。
人生は長いようで短いもの、このように思うと時感の中にも「一期一会」という言葉も大事にしなければならない。人との出会いも真剣にならなければならないと思います。
野鳥を始めた頃に今となっては一期一絵の野鳥に出会いましたが駆け出しのせいもあってか、一生懸命に追い掛けて撮影するベテランらしき人達と比較して真剣さが足らず、いつも後追いになり、移動の早い浜雲雀のピントが甘い写真の山が出来ました。
今となっては一期一会の、一生に一度の出会いとなった「一期一絵」の浜雲雀です。ブログを始める前の「一鳥一絵」のハマヒバリの写真です。私にとっては珍鳥の部類でした。

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ハマヒバリが残雪が残る畑地にいました2006年2月25日撮影、撮影地長野県南牧村

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ハマヒバリ 数少ない冬鳥L16・5cmヒバリと同じくらいの大きさで雌雄同色 

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上もトリムしてあるが更にトリムした、成鳥と思われる♂?、前頭は黒く、眉斑と喉は黄色い、眼先から 頬にかけて太く黒い線がある。
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石がゴロゴロしているが夏は高原野菜のレタス・キャベツなどを栽培する開拓地にいたが干拓地・裸地・砂浜・草地・河原などの開けた環境に生息と図鑑にある。
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ハマヒバリの羽繕い
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後ろ姿も撮ってあった、頭には孫悟空のような黒い輪が見える、背や尾までの上面は淡褐色で背や肩羽の軸斑は黒褐色で縦斑状
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一定の場所で毎日行動する。荒地を歩きまわり、草木の種子や昆虫類・陸生貝類などを採食
10年前の当時、都内の一期一会の人に地図まで書いて頂いて教わり撮影に行った。一期一絵で一鳥一絵のハマヒバリであった。

2015年2月24日 (火)

多摩川の葭鴨(葦鴨)

 鎌倉時代の随筆である方丈記は鴨長明が晩年に京都で構えた方丈(約3m四方)の庵に隠棲して書いた「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」格調高い書き出し・・・京都と言えば、川は鴨川なのか宇治川なのか・・・
因みに方丈記の現代語訳、ネットの書き出しの一例では

川の流れは途絶えることはなく、しかもそこを流れる水は同じもとの水ではない。川のよどみに浮かんでいる泡は、消えたり新しくできたりと、川にそのままの状態で長くとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所も、また同じようなものである・・・

25歳までの学生期の小中学生の頃はまだ多摩川で泳げた、京王線の京王多摩川から下流の小田急線の和泉多摩川までが遊び場所であった。地番では調布・布田・国領・狛江である。対岸の神奈川県は南武線が多摩川沿いに走り、駅は矢野口・稲田堤・中野島・登戸であった。中学生の頃から多摩川のよどみに洗剤の泡が浮かぶ高度成長期には工場排水と生活汚水が多摩川の浄化能力以上流入して泳げなくなった。
十才の頃から数えて五十五年の歳月が流れた。学生期と家住期を終えた六十五歳の黄金の林住期に始めたのが鳥撮りである。それから早くも10年経った、今も
多摩川の流れは途絶えることなく、しかもそこを流れる水は同じもとの水ではない。十年前に多摩川を泳ぐ鴨を撮った、ナポレオン帽を被ったような冠羽のヨシガモ(葭鴨)である。葦鴨とも書く。
川崎市の多摩川で中学生が殺された悲惨な記事を見て、鳥撮りで何回も通った川崎大師近辺の多摩川を思い出して書き始めたこのブログであるが鴨長明のような格調高い随筆のようには書けない凡才の悲しさである。凡才の仮名は鴨長明にあやかって鴨鳥迷である。ヨシガモも今日は四枚でヨシとした。


鴨長明が亡くなった年齢は61歳であったが、来年からは林住期が臨終となる七十六歳からの遊行期に入る。小中学生の頃はバタバタと廊下を走って先生に叱られたが今は、遊行期に向かって佳麗(加齢)に老化をヒタヒタと走っている想いである。

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ヨシガモ成鳥♂ 撮影日2005年11月20日 撮影地 多摩川(川崎市)

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ヨシガモ成鳥♂ 冬鳥 L48cm嘴は黒く基部に白斑がある

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額から後頭と目先から頬線の部分は黒ずんだ赤紫色

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目から後頭にかけて光沢のある緑色で後ろへ長くのびている、喉から頸の上部は白く、黒い頸輪がある。北海道では夏鳥で少数が道北・道東で越冬する。

今日はブログを始める7ヶ月前の写真である。

2015年2月22日 (日)

高齢者運転講習会の記録(三年後のために)

 2月19日は二回目の運転免許書の高齢者講習の予約日であった。当初は2月11日の建国記念の日に菊名ドライビングスクール に予約していたが前回の免許書更新で「眼鏡なし」であったが事前002 に近所の眼科で視力検査を受けた結果は左眼の白内障が進んでいるので視力検査では一番上の字以外は見えない結果であった。右眼もこの三年間の加齢で視力は落ちている。普段は両眼で新聞・TVを読んだり見たりしているので、こんなにも視力が落ちたとは思わなかったが視力検査表で運転免許の合格0・7が正しく見えない、正見期限切れであった。老化により左眼の賞味期限が切れたのである。医者からは左眼の白内障手術を薦められたが免許が切れる3月の誕生日直前なので二ヶ月も待てない(手術を申し込んでから二ヶ月待ち)、往き付けの眼鏡屋(パリ ミキ新横浜店)で眼鏡を新調して一週間後の2月17日に出来上がる。二日間眼鏡を掛けて目を慣らしてから19日に菊名ドライビングスクールで8時半に受付窓口で手数料6000円を払い、講習予備検査(認知機能検査)・高齢者講習を受講した。時のながれは早いもので今回で2回目である。三年前の前回の心配事の記憶がないが今回は心配した視力検査よりも認知機能検査に手間取った気がする。教室の写真は講習が始まる前に撮ったのがこれ一枚、左端のビデオでの運転講習もあった、開始時に白板前に4人の指導員が並び自己紹介などの挨拶をしたが4人とも姓名は直ぐ忘れた。

最初は認知機能検査である。三年前の講習では記憶がないのでそれ以降に始まったと思われる。これを講習予備検査と呼ぶようだ。エンピツが配付されて答案用紙に当日の日時を記入することから始まる。

Aは当日の「年」「月」「日」「曜日」「時刻」を回答するテスト、試験前に腕時計を外して仕舞う。

回答覧に「年」「月」「日」「曜日」までスラスラ書けたが「時刻」でチョット考えた、8時45分に開講したので山勘で時間を「9:00」と記入したがこれを時勘というのか時感でもある。9時0分は正解の範囲であったようである。

問題を感じたのは記憶力のBである。大きなボードに4つ描かれたイラストを4枚合計16種類の名前を記憶して回答する試験である。開始前にイラストの動植物・物品・体の一部などの名前を指導員が説明(これがヒント)してから制限時間内に回答するクイズのような試験、今見たばかりなのに9種類しか思い浮かばなかった。時間の半分は思い出そうと焦ったが出てこないものだ。次にイラストのヒントが書かれた同じ質問には14種まで回答したがヒントがあっても制限時間内に二つの名前が出てこなかった。イラストの一例をあげるとヒントに「戦争で使う武器」→「大砲」と答える。

Cは時計が正しく描かれているかどうかの時計描画のテスト、指導員が11時10分を示せとの合図で始まる。このために開始前に腕時計を外して各自で見えない処に収納したのである。

白紙に大きな丸を描いてから、12、3、6、9を書いて、後から残りの数字を入れて、指導員が指示した時間11時10分。短針は11時、長針は2時のところに記入した。認知症が進むとこれが書けないらしい。このテスト結果はAとCは問題なかったがイラストの絵が思い出せなかったBが心配されたが総合点80点は「記憶力・判断力に心配がありません」でした。点数は次のような判定がなされています。76点以上 記憶力・判断力に心配がない49点以上76点未満は記憶力・判断力が少し低くなっている49点以下 記憶力・判断力が低くなっています。
記憶力・判断力が低くなっているとされても免許書の更新はできるそうです。但し一定の期間に信号無視や一時停止などの特定の交通違反がある場合は警察から連絡があり、専門医の診断を受けることなり、認知症と診断された場合は免許が取り消される。高速道逆走の8割が65歳以上の高齢者だそうです。

これが講習予備検査(認知機能検査)である、この日の受講者10名は全員が合格して、運転実技と視力検査の二組に分かれて講習を受けた、最初は運転実技から受けたが普段の車庫入れはTVカメラを見ながらの運転なのでチョット違和感があったがS字もクランクも問題なしで実技は終わる。心配なのは視力検査である。

三年前と同じようにゲーセンの運転ドライブマシンと同じような装置でハンドル・ブレーキ・アクセルの操作をテストする運転適正検査がある。
「選択反応検査」では「車の陰から急な子供の飛び出し」をブレーキを踏む反応時間、「道路を横断する人が現れたら」アクセルを
離す反応時間、「二輪の対向車が現れたら」アクセルを踏んだままにする、ブレーキを踏んだり、アクセルを離すと誤操作となる。
このテストでは評価Aは3、Bも3であった。ブレーキの反応時間は0.57で高齢者平均0.8よりも早かった。

「注意配分・複数作業検査」は蛇行する走行路に合わせてハンドル操作をしながら上と同じ子供の飛び出しでブレーキを踏む、道路横断の人にはアクセルを離す、二輪の対向車が現れてもブレーキとアクセルはそのままで何もしない。このテストの結果は評価Aは4、評価Bは4であった。総合評価は評価Aは4、評価Bは4であった。評価Aは同一年齢層との比較、評価Bは30~59才の年代との比較である。評価5は優れている。評価4はやや優れている。3は普通。2はやや注意、1は注意。

「視野角検査」では右眼80度、左眼75度、両眼155度であった。眼鏡を掛けるとレンズの縁で見にくくなり視野角が落ちるようである。70代の平均値は150度であるので問題なし。

「動体視力検査」は5回の平均値が0・2であった。同年代での評価ではやや劣るの2であった、30-59才との比較でも評価2のやや劣る。であった。指導内容は加齢とともに動体視力は低くなります、安全速度を守り安全運転に努めましょう。であった。

「夜間視力検査」は両眼の通常視力と眩光下視力検査がある。眩光下視力は両サイドからヘッドライトのように発光する中央に視力検査と同じ印が現れるのを答える検査である。通常視力は1・2であったが眩光下視力では0・3まで落ちたので評価は「75歳以上の中で」「やや劣っている」の2の評価点であった、夜間の視力は年齢が高くなるにつれて低下するが通常視力1・2から眩光下視力0・3は落ちすぎと言われた。夜間は安全速度を守り危険を予測した運転を行なうようにとの指導内容である。どうやら夜目が利かなくなったようで暗い早朝と夜間のドライブは避けた方が無難である。

3時間の講習終了後に「高齢者講習終了証明書」を受け取り、菊名ドライビングスクールをあとにした。あとは最寄の港北警察署に行って免許書の更新である。

2015年2月21日 (土)

緑萼梅と鯉と金黒羽白

 写真展の見物後は久し振りの三渓園の散策であった。2月14日から観梅会は始まっていたが2月19日の白雲邸を出た付近の梅はまだ早いようである

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内苑の8番が白雲邸である、高円宮妃殿下の写真展を見学後に庭園散策に歩き出した。隣の臨春閣の庭園では結婚式後の新郎・新婦が記念写真を撮影しているのを眺めながら中国梅林(緑萼梅)の横を通り南門に向かう。緑萼梅は横浜市から友好都市上海市に桜の木を贈った桜のお礼に贈られた中国蘇州産の珍しい梅の木であるが、緑萼梅は花びらの付け根にある萼(がく)の部分が緑色であることから名付けられた。ここ三渓園には昭和52年(1977年)に移殖されたと表示板の説明書がある。

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緑萼梅はまだこの程度の開花であった。

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南門入口の建てやの後ろだけは満開の緑萼梅が一本あった。満開時には全体が白く見える。

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緑萼梅の名付けの由来となっているまだ蕾の萼だけは緑色をしていた。

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南門から一度園外に出て撮影した鴨類、カルガモ、キンクロハジロ、オオバンなどが見えたが野鳥撮影用の望遠レンズの持ち合わせがなかったので24-120mmの120mmで撮影

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大池に戻り、三渓園茶寮で蕎麦で遅い昼飯を済まし、外苑の梅林(臥竜梅)もまだ早かった。恒例の行事である観梅会が始まっているが見頃はまだで完敗であった。その穴埋めに大池前の盆栽展で観梅した。盆栽は素人目にはどれも見事であり、賞と賞なしの区別が付け難い、どれも良い塩梅である。
帰り際に正門近くの藤棚付近で鯉に餌をやっている観光客を見つけて近寄る。このポイントは野鳥撮影を始める前の桜撮影で三重塔と池に浮かぶ和船とライトアップした夜桜を撮影した想い出の場所である。

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和船の浮かぶ付近にいたキンクロハジロの群れの中から一羽が鯉に餌やりをしている岸辺近づく、キンクロハジロをカルガモが故意に追い払う、鯉の餌場から逃げるキンクロ、追い払うカルガモ

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それでも北帰行が近づいたのか、食欲旺盛なキンクロハジロは、カルガモの後方から餌とりの機会を窺がう

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キンクロが鯉がうじゃうじゃいる水面で余裕の羽ばたきなのか、それとも鯉に餌の乞いなのか?あるいは鯉に恋のディスプレイか?野鳥が魚にディスプレイは八百長でしょう!
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鯉の群れが濃い中にキンクロが餌とりの突進、エサやりの人もキンクロに来い来い!これには「さかなくん」もギョギョっと!

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鯉の餌は正門入口売店で売っている「麩」と思われる、エサの麩が目の前、嘴の前でラッキー!横取りのキンクロ

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餌の麩に向かって濃い鯉の上を歩くように泳ぐキンクロ、神話の因幡の白うさぎはサメを騙してサメの上を歩き、皮を剥がされたが鯉に揉まれて大丈夫なの?

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大池の鯉がみんな集まってきたようなう・・・じゃうじゃいる中で頑張るキンクロ

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「浅みの鯉」は手づかみでも獲れる鯉の諺、近見で撮れた鯉と金黒羽白、望遠レンズなしの120mmでもこの通り、野鳥撮影となった

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最後の一言。故意に鯉の餌とりでキンクロ恥ろ!

2015年2月20日 (金)

三渓園の写真展

 朝日デジタルに写真入で掲載されていた、2月11日の建国記念の日から始まった、高円宮妃殿下写真展に最終日の19日に会場となっている三渓園の白雲邸を訪れた。写真と記事は2月11日のものである。

写真・図版写真展のオープニングセレモニーに出席した高円宮妃久子さま(左)と林文子横浜市長(右)=横浜市中区
高円宮妃殿下写真展~鳥たちの煌(きらめ)き」が11日から、横浜市中区本牧三之谷の三渓園で始まり、オープニングセレモニーに高円宮妃久子さまが出席した。写真展は19日まで。
高円宮妃殿下のお姿をはじめて拝見したのは2009年9月21日、タカの渡り撮影二年目の信州白樺峠のタカ見の広場であった。昼間はタカの渡りを観察されておられたが夕方には奈川の夢の森文化センターでの講演会で通訳をされておられた。その講演会に出席した記録のブログが帰宅後の2006年9月23日にUpしている。

昨日も白樺峠は晴天でタカ類は、サシバ2075羽・ハチクマ527羽・ノスリ27羽・ツミ30羽・その他ミサゴ・アカハラダカ・トビなど12羽など2671羽が渡ったそうです。21日にPM5-7時の講演会「世界をつなぐ渡り鳥」の講演をされた、テルアビブ大学教授のヨッシイ・レッシュム教授の通訳をかっておられた、バード・ライフ・インターナショナルの名誉総裁であられる高円宮妃殿下も大変ご満足されたことと思います。当日の講演とビデオを拝聴して大変面白く環境教育も有意義に感じました。

その時の講演会の内容である。

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 講演    「世界をつなぐ渡り鳥」  
      -イスラエルの渡り鳥研究と環境教育-
 講師 :ヨッシィ・レッシュム (テルアビブ大学教授・東京大学客員教授)
 日時 :9月21日(木)   午後5時~午後7時 
 場所 :夢の森文化センター (長野県松本市奈川古宿 0263-79-2304 )  
 参加費:500円
 主催 :信州ワシタカ類渡り調査研究グループ
問い合わせ tel 090-1406-6679(木下) 
      e-mail viola@cocoa.plala.or.jp
 後援 :松本市(予定)ほか
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タカ見の広場を設置した信州ワシタカ類渡り調査研究グループの主催であるので安い参加費で予算もないので、鳥について造詣が深く流暢な英語を話される妃殿下の通訳を堪能させていただいた。

この講演後に松本インター近くの信州の石臼挽きの手打ち蕎麦、榑木野(くれきの)に寄ったが時間的には遅かったのでこのときは閉店していた。ここは店内に高円宮殿下と妃殿下の来店記念の写真が飾られており、店先にご来臨の記念の石碑があります。その後数年はここの手打ち蕎麦のフアンになり、お土産にもして家族にも喜ばれた想い出がある。

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パンフ表面の写真(横浜市内のカワセミ)と同じ案内板が原三渓が隠居所として居住していた会場の白雲邸玄関前に立て掛けてあった。

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パンフの裏面は主催:フォト・ヨコハマ実行委員会によるものであるだけに4枚すべての撮影地が県内と横浜市であった。

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裏面4枚の写真をコピー、ゴイサギ(ホシゴイ)の大写し、撮影地 横浜市内

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波とアオバト 台風直後の波が大きい日の撮影、この日は溺れたアオバトはいなかったと愛鳥精神が表記されていました。大磯照ヶ崎 この当時の自分の写真は溺れるアオバトを撮影していますので自然を愛する妃殿下の想いが伝わります。

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サンコウチョウ 神奈川県葉山町 ここは薄くらい杉林で撮影が難しいところでした。

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桜とメジロ 横浜市内

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白雲邸の間取り図、鳥たちの煌(きらめ)きの50作品の写真で室内を埋め尽くしていた。

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玄関横の部屋に林文子横浜市長の挨拶と並んで高円宮妃殿下のご挨拶文

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係員に写真撮影の諾否を問うとOKが出たのは珍しいことであった。白雲邸の各部屋の床の間や障子や襖の前、廊下などに展示されていたが室内の電灯光が写り込むので写真は写りがよくない。このオオワシの他に流氷上など合わせて七点の知床半島のオオワシが目立った。北海道は釧路湿原の飛翔するタンチョウ親子とシマフクロウの合計九作品が展示されていました。世界遺産の冬の北海道がお好きのように想われます。

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部屋の電灯が写り込むとこのような失礼な写真になるので割愛してあります。写真は出雲平野のコハクチョウ、その他に日御碕・安木平野などの島根県・鳥取県の作品が合計七点もあり、高円宮典子さまとご一緒に出雲大社へのご縁参りの機会が多かったように想像されます。

2015年2月18日 (水)

十年で一つの巴鴨

 30年前の夏休みに当時小5の息子と二人で山陰をドライブ旅行中に出雲大社から宿のある日御碕に向かう途中でラジオで聞いたJAL123便の大惨事が起きた日で忘れもしない1985年8月12日(月)、この時が最初のご縁参りで、その後は仕事の出張で大阪支店の仲間と鳥取へのビジネスの帰りに2,3度Ooisikura 参拝している。最近では二年前の60年に一度の出雲大社大遷宮の前年に世界遺産に登録された岩見銀山の観光に合わせて夫婦で初めてご縁参りした。参拝のお土産に神話のシンボル、めのう勾玉(まが玉)を組み合わせたような形をした 巴(ともえ)は日本の伝統的な文様の一つである。巴を使った紋の総称を巴紋(ともえもん)ともいう。家紋や神紋・寺紋等の紋 としても用いられ、太鼓などにも描かれる。師走から新年のBS・CS放送の時代劇で恒例であるお馴染みの忠臣蔵 や赤穂浪士四十七士の映画やTV番組で大石内蔵助の兜や打ち鳴らしたといわれる山鹿流の陣太鼓にも右二つ巴の家紋がある。一つ巴の家紋から九つ巴まで数十種の巴の家紋があるそうです。
915 新春恒例の浜離宮恩賜庭園の諏訪流放鷹術では女性鷹匠の稲田早苗さんが披露した「振替」と「渡り」の演技では彼女が飼育している雌のオオタカ「巴」が活躍した。昨年春公開されたオオタカと鷹匠のドキュメンタリ映画(DVD)「ぬくめどり」の中にも鷹匠捕から鷹匠への昇格試験で見事に合格した場面も見られた。彼女自身の説明では平安時代末期の信濃の女武将巴御前(木曽義仲の愛妾)からつけた強そうな名前が♀のオオタカの巴である。振替の演技で稲田鷹匠がオオタカの巴を投げた時の「巴投げ」の写真です。
柔道の捨て身技の一つに巴投げがあります。相手を前方へ崩して、自分はからだを後方へ捨て、片足を相手の下腹に当てて、相手と巴の形になりながら頭越しに回転させて投げる大技である。
相撲では流石に巴投げはありませんが土俵際のうっちゃりで頭の上から空中投げでうっちゃれば相撲の巴投げになると思われるがまだ大相撲の記録にはないようです(当然決まり手にもない)。体重200kg前後の関取を空中に放り投げるのは空想の世界でしょう。だが大相撲にも巴の名がつくのが優勝決定戦の巴戦です。三人が千秋楽で同率になって優勝を争う時、だれか一人が他の二人に続けて勝つまで順番に戦う優勝決定戦の方法です。
今日は「巴」絡みでブログを始める10年前に八王子の公園で撮影した巴鴨です。全長約40センチ。雄の顔に緑色と黄色の巴形の斑紋がある。東シベリアで繁殖し、日本には日本海側に多く渡ってくるが太平洋側は珍しいようです。冬鳥の巴鴨ですが10年間で後にも先にもこれが一つ巴の出合いでした。

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2006年2月18日撮影、トモエガモ♂
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池の杭の上に上がったので全身が撮れました
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身震いで水飛ばし、小さい公園の池では近くで撮影できるのでノントリです
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斜め正面顔はこんな巴
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池面からの巴飛び?枠からはみ出しそうです
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巴飛びからチャックイ(着杭)の直前
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綺麗な決まり!のポーズ、これで悔いは残らず、杭の上
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別の杭からの飛び出しもあります
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片足ストレッチもします、羽はコガモに似ています
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池面を見つめるイケメンの巴をトリム、顔は黄白色・黒色・緑色からなる巴形の模様、昔の写真を鳥友のトモエ贈ります。

2015年2月15日 (日)

駆出しの頃の緋連雀と黄連雀

 最近こそは冬鳥の連雀は撮影していないが10年前の酉年に始めた最初の頃は関東周辺の緋連雀・黄連雀の情報が入ると直ぐに撮影に出掛けた駆出し者であった。

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連雀の名前の由来は群れで連なる雀に似ていることからきているそうです。写真は100羽以上の緋連雀の大群の中に二羽の黄連雀一緒に行動していた時の写真です600mmで撮影した写真には33羽程度しか入らなかった)。
野鳥撮影は2005年3月から、ブログは2006年6月1日が開始日、この1年3ヶ月間の野鳥撮影の写真は基本的にはブログに公開していない。本日は先日の黄連雀の続きです。

ウィキペディアで連雀(連尺)を検索すると3項目がある。
1.レンジャク科の鳥。日本で見られるのは黄連雀と緋連雀
2.物を背負うのに用いる背負子(しょいこ)。
3.日本に見られる地名の一つ。

ひとつは鳥名、二つ目は時代劇にも登場する行商人が背負う背負子、三つ目は調布市に住んでいた頃は隣の市町村であった東京都三鷹市上連雀、下連雀などの地名。ここは明暦大火(1657)で延焼防止の火除地として土地を召し上げられた神田連尺町の一部住民が代地として与えられここに移住したことに由来する。全国に連尺、連雀と呼ばれる町名や通りが多数あるが連雀(連尺)を作っていたか、使っていた人々に関係が地名。

更に歴史民族用語Weblio辞書で背負子の連雀(連尺)を調べると51abbbkqz9l__sl500_sr87100_

(かご)・箱・荷などを背負うときに,肩にあたる部分を幅広く編んでつくった荷縄。また,それをつけた背負子(しよいこ)
両肩から脇にかけてひもをかけて背負うこと。
連尺商い」の略。写真の連尺を背負い商品を売り歩く商売、行商人。鬼平犯科帳を見ていると江戸の風情によく登場したり、大店に置いてあるのを見掛ける。
今日は連尺商い→連雀飽きないの撮影記録

野鳥撮影を始めたのは酉年の2005年3月。ブログを始めたのは戌年の2006年6月。この間の歌舞伎役者の隈取りのような顔をしたレンジャクの撮影は地元の県内一ヶ所と横浜市内の二ヶ所の3ヶ所が最初であった。野鳥撮影デビューした三つ池公園の先輩達に教わったポイントである、金沢区の富岡総合公園と保土ヶ谷区の日蓮宗妙福寺の境内であった。市立富岡公園は戦前は海軍基地があった大きな総合公園であるが駐車場が少なく直ぐ満車になり、駐車に苦労した。ここでヤドリギを初めて知った。ヤドリギの実を採食に来る緋蓮雀を撮影したがかなり距離があったようである、水飲み場は隠れた撮れない場所にあり、蓮雀の撮影にはあまり満足出来るポイントではなかったと記憶している。日蓮宗名刹の妙福寺での撮影は、毎朝庫裡から出て泉水の横を通り、向かいの寺務所に向かう、ご住職に朝の挨拶をして撮影させて頂いた。お彼岸の期間はお墓参りの檀家に迷惑にならないように遠慮もした。寺の周囲の欅や境内・寺林の杉林などのヤドリギの実を採食した連雀は庫裡の前にある岩をくり貫いた泉水が水飲み場であった。カメラマンは寺務所の横に潜んだり、参拝客用のトイレの脇から水を飲む連雀を撮影したのである。

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ヤドリギの実を採食した後、椿の花を背景に休憩中のヒレンジャクはここから水飲み場に飛びます

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ここが庫裡の前にある岩をくり貫いた泉水、ヒレンジャクの水飲み場になっています。


その後の数年間の連雀撮影の旅は八王子の都立小宮公園の木道脇のヤブランを採食する黄連雀を初めて撮影した。

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木道脇でヤブランを採餌する地上の黄連雀

埼玉県秋ヶ瀬公園のヤドリギは普通にみられる採食だがトウネズミモチの採餌は珍しいものであった。

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トウネズミモチを採餌するヒレンジャク、ヤドリギの実と違い採食すると直ぐに飛び去るので撮影時間の制約がある

北本自然公園梅林の下草や崖地の法面保護に植栽されたリュウノヒゲ、冬でも葉が枯れない常緑性で暗緑色の細長い葉を地際からたくさん出して冬に光沢のある美しいブルー色の実を付けます、この実を採餌する地上の黄連雀と緋連雀は毎年来るとは限らない変動が多い渡り鳥。

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リュウノヒゲの鮮やかなブルー色の実を咥えるキレンジャク
群馬県赤城山(あかぎやま)の麓からワカサギ釣りの大沼までヤドリギを探して連雀を広範囲に追いかけた旅もありました。ヤドリギとヒレンジャクはありふれた画像なので省略します。
一番多く通った山梨県山中湖は逆さ富士やダイヤモンド富士の撮影地でもある長池親水公園の緋連雀は湖岸が氷結した山中湖が水飲み場、ここから数キロ先のみさきキャンプ場周辺の砂浜も水飲み場面の撮影であった。

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親水公園前のヤドリギの実を採食した後は寒中水泳のようにも見えるヒレンジャクの水飲み

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みさきキャンプ場付近のヤドリギの黄色の実を採餌した後は砂浜に下りたヒレンジャクの水飲みが見られた。

一番遠い遠征先は信州諏訪湖畔であった。ナナカマドの並木道で100羽以上の緋連雀の中に混群していた黄連雀を目の前で撮りました(2月11日 建国記念の日のブログ)

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ナナカマドの実を貪る緋連雀

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食べつくしたナナカマドの天辺で食休みのヒレンジャク

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一番見掛けたのはヤドリギの果実を採食するヒレンジャク

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ヤドリギは落葉樹に寄生するので冬になるとくすんだ緑色のこんもりしたかたまりを落葉した樹に見つけることができる。レンジャクの撮影はこのヤドリギを見つけることがはじめの一歩である。寄生木から水や養分をもらい繁殖するヤドリギ。ヒレンジャク・キレンジャクにとってヤドリギの実はご馳走。ヤドリギの実を食べたレンジャクはかなりの時間をかけて数珠繋がりの長い糞を出す。硬い種は消化されず、そのまま出てきます。ヤドリギの実は粘り気あり、寄生木の枝や幹にくっつき芽を出し成長する。ヤドリギは連雀のおかげで、樹木根を下ろす。ヤドリギとレンジャクは共存共栄の関係である。

2015年2月11日 (水)

皇紀2600年誕生の紀子さんは黄蓮雀が好きかな?

 今日は国民の祝日、建国記念の日であるが流石は朝日新聞は一言も触れていないので何気なく思い出した。ご近所の奥さんに名前が紀子さんがいる。普通は女性は自分の生年は明かさないものだが、この家で旦那さんと飲んでいる時に酒の勢いなのか、ご本人が名前の由来をあかしてくれた、皇紀2600年(1940年・昭和15年)の生まれなので親が紀子と名づけたそうです。
明治安田生命のHPに昭和生まれの女の子にはどんな名前が多いのか分るサイトがあります。これによると昭和に入って長らくトップの座を維持したのが「和子」。 戦前戦後を通じて、女性のもっとも多い名前でした。女子社員にもいましたのでもっともだと思います。和子さんは 昭和の「和」を取ったのでしょう。ちなみに昭和2年の第2位は 「昭子」。こちらも昭和から取っています。戦前・戦後を通じて 「和子」がトップの座を譲ったことのあるのが3回。 1940年(昭和15年)紀子、1942年(昭和17年)洋子、1949年(昭和24年)幸子。 1953年(昭和28年)~1961年(昭和34年)は恵子。「和子」に代わってトップの座についたのが「恵子」でした。美人女優の津島恵子、岸恵子、淡路恵子、関根恵子(高橋恵子)など女優に恵子が流行った時代でもあった。
ネットで生涯学習の真似事をすると今日は「建国記念の日」であって、建国記念日ではない。「の」が入るのは「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事実そのものを記念する日だからだと言います。現在の歴史学上は神話・伝説上の人物とされている神武天皇(紀元前711年2月13日~紀元前585年4月9日)は、日本の初代天皇とされ、127歳の長寿であったと「古事記」「日本書紀」に登場します。1873年(明治6年)に2月11日を明治政府が「建国記念の日」を紀元節と定めた。戦後GHQにより廃止されたが1967年にかっての紀元節の日を建国記念の日として復活したのである。
紀子さんが誕生した年の
紀元二千六百年記念行事とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った行事を指す。日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとした一連の行事(ウィキペディア:紀元二千六百年記念行事より抜粋)
その後は日本政府と軍閥の暴走で太平洋戦争まで拡大したが敗戦後は平和憲法下でこのようなことは再発していないが最近は安倍政権下では何やらきな臭いことが起こるような気配を感じるようになってきたと思うのは自分だけだろうか。

神話も皇紀弐千六百年もあまりにも遠い昔の話ではあるが、鳥撮り10年も経つと始めた頃の野鳥は遠い昔のことと想う様になって来た。その中で始めてから2,3年は夢中で追いかけた冬鳥に連雀(レンジャク)がいる、中でも黄蓮雀(キレンジャク)は緋連雀の中に稀に僅かではあるが混在していることがある。近所の紀子さんは黄蓮雀が好きかどうかは分らないが、紀つながりで黄蓮雀である。諏訪湖畔のナナカマドの赤い実のキレンジャクと埼玉の公園のヤブランやリュウノヒゲを採食するキレンジャクを思い出した。写真はどれも初めて使用するような気がする、いや・・・黄がする。

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諏訪湖畔のナナカマドを採餌するキレンジャク、100羽くらいの緋連雀の中に2羽の黄蓮雀が混在していたが、600mmを構える目の前のナナカマドにキレンジャクが採餌、枠からはみ出すので後づ去りしながらやっとのことで画面に納めた。2006年3月撮影

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蓮雀の名前の由来のように緋連雀が鈴なりです、この100羽の群れの中に黄蓮雀が二羽だけ混在でしたがなかなか見つかりません。上の大写し写真を撮る前の話です。

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キレンジャクは尾の先端が黄色い、ヒレンジャクはL18cm、キレンジャクはL20cmで少し大きい。二枚の写真はキレンジャクが紛れ込んでいます?

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キレンジャクの黄色い尾羽狙いの写真。2007年4月4日

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キレンジャクがリュウノヒゲを採食する処に誰かが桜花の枝を置いた?2007年4月埼玉県

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キレンジャクがリュウノヒゲの採食、2011年2月4日埼玉県

2015年2月 8日 (日)

小雪と小耳木菟

 昨日の土曜日、朝日朝刊に週末別刷り青の『be』がおり込まれて発行されて、そのフロントランナー欄に「自産自消」で荒地を再生・・・ここまで書いていたらPCがクラッシュしてブログが消えたのである。朝から晩までかかって事故内容を自己診断・自己分析したが解からず直らず、今朝から再挑戦してまた書き始めたが重たく遅く大不調である。
青beに戻ると「自産自消」は過去には見慣れぬ四字熟語である。最近よく目にするのは地産地消(ちさんちしょう)、地域生産・地域消費の 略語で、地域で生産された様々な生産物や資源(主に農産物や水産物)をその地域で 消費することである。昔から見慣れている
自給自足(じきゅうじそく)とは、生活に必要な物資をすべて自ら(単身または家族で)手 に入れる生活のあり方のことであり、一般的な生物はすべて自給自足をすることである。これに対して、個人単位の地域生産・消費であり、理想的ではある大掛かりな自給自足にはほど遠いものである。
青beによれば「自産自消」は耕作放棄地を誰でも野菜作りを体験できる農園にしてよみがえらせている農業ベンチャー「マイファーム」のビジネスのキャッチフレーズである。「自産自消は自分で作り、自分で食べることを意味する造語、だれもが当たりまえのように、自分が食べる野菜は買わずに自分で作る世にしたい」これがコンセプトのようである。耕作放棄地を整備した体験農園は関西・関東・東海に86ヶ所あり、15平方メートルの一区画あたり、月々平均数千円の利用料を払えば、ベテランの指導員がいて農具を備え付けられているので初心者でも手ぶらで有機無農薬の野菜栽培に打ち込めるそうです。
さて、今日のお題は自から始まる四字熟語絡みです。「自画自賛」の本来の意味は自分で描いた絵に「賛」を書き入れることを「自画自賛」といい、写真の場合は「自写自賛」でしょうか。
先週末の天気予報は降雪予報が二日間も外れて雪を楽しみにしていた小学生の孫どもがガッカリしていました。野鳥写真を撮りに頻繁に出掛けていた時分の自分も楽しみにしていた時期がありました。自画自賛のように自写自賛の写真に小雪と小耳木兎の写真があります。その昔、ご近所さんにこの写真を「自画持参」するように携えて、持参した時に喜ばれて自賛したことがあります、この時は持参した甲斐がありました、これを自写自賛と言うのでしょうか。

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これがその時の写真と同じ小雪のコミミです、雪が積もったとまり木に初めてとまったコミミです。

今日はPCの調子が悪いのでこの一枚でお仕舞いにします。

2015年2月 1日 (日)

老人力の回顧録は沢鵟の回想録

 今年早くも睦月が去り、如月が来たり、一年の1/12の月日が過ぎ去り、早くも加齢が流れるようにうつろいゆく。未年も諸行無情の齢をかさねてゆくと思わざるを得ない。一週間前の朝日デジタルで直木賞作家の赤瀬川隼(あかせがわ・しゅん)さんが1月26日、83歳で肺炎で死去した情報に心が曇る。1995年 に「白球残映」で第113回直木賞を受賞した作家である。「捕手(キャッチャー)はまだかなど野球小説を数多く残した作家だった。この記事を見てからこのブログを書き始めた。Roujinnryoku_001_2
2014年10月に77歳で死去した作家の赤瀬川原平さん(芥川賞受賞)は弟であった。3ヶ月間に兄弟が亡くなられたのである。兄は直木賞作家、弟は芥川賞を受賞したカメラマニアの画家・作家ある。
弟の赤瀬川原平さんの著作は表も裏も赤い表紙の「老人力」は1998年のベストセラーとなり、流行語大賞を受賞している。この本を久し振りに書棚から取り出した。表紙は写真のように赤地に金色の文字が変わらなかったが、陽が直接には当たらない部屋だが本の背表紙は室内灯に褪せて、赤色が淡いピンク色に退色した本は「老人力 赤瀬川原平」の黒字がまだ元気に浮かんでいたが17年間の時のうつろいが本の背中にもあらわれていた。まだ現役だった頃なので当時は斜め読みしたが老人力とは、物忘れも、繰り言も、溜め息も、老年域に達してこそ身につく新しい力の一つ。人間も世界ももう少しボケたほうがいい。「ゆとり」や「遊び」をもって、「肩の力を抜いて」生きることの大切さを説く著作であった。17年前はまだ能力主義・成果主義の真っ只中にいたので深読みはしなかったが今読んでみると毎日の老人暮らしで同感することが多い、物わすれを「忘れる力」「老人力」が付いたと称するユーモラスに描いた著作である。目次にもある「宵越しの情報はもたない」は名言といえる。この著作を作者は還暦の頃に世に出したのである、あれから17年読者である自分も十分に老人力が付いた、作者は亡くなったが自分の物忘れは「貫禄がついてきた」後期高齢を迎える齢となり、物忘れは好機高齢者か、好期高齢者と言われるほど物忘れには、決してぶれない「老人力」がついてきたと思わざるを得ないのである。
「物わすれ」といえば昨年12月から歯痛で近所の歯科に通い出した、歯が痛む日は通院日を忘れないが痛まないと忘れてしまう。今年になって2回も予定日をすっぽかした、29日は歯医者から3回に1回は忘れるね!忘れるのは歯が痛まない証拠だね!と揶揄されたが「老人力」が付いた証だと歯医者には判らないような言い訳をしてきた。受付嬢から次回は2月5日の予定と診察券に印字されていたので「また、いつか」と挨拶してきたが今は覚えているが2月5日まで記憶がもつかどうか。2月のカレンダーに大きく書き込んであるがそれでも忘れた前科がある。
1月28日水曜日PM7時のBS朝日「日本の名曲」で顔を覚えていたが名前が出てこなかった老女の歌手。頭の天辺から声を震わせて出す記憶があったが名前を忘れていた。「え~と、ほら、あの、あれを歌った・・・」「そうそう、あれでしょう、あの、ほら、あれ・・・」60年前にヒットした「月がとっても青いから」を歌った「菅原都々子」さんの名前を思い出すのに夫婦で時間がかかった。夫婦揃って老人力に実力と貫禄が立派についた。

10日前のTVの歌番組で伊東ゆかり「小指の想い出」から「小耳の想い出」を連想して小耳木兔を回想したが、コミミと同じようにアシ原を低空飛翔でネズミなどを採餌するチュウヒを思い出した。今回は同じフクロウ顔で平面顔の猛禽のチュウヒである。顔はチュウヒと判っても国内形なのか大陸形なのか、♂なのか♀なのか、成鳥なのか幼鳥なのか、顔だけでは判らないタカの仲間のチュウヒである。中飛とも書くチュウヒから脳血管障害の後遺症の中気(中風)を覚醒させたならば申し訳ないと思います。

沢鵟の国内繁殖地のひとつ、夏の北海道サロベツ原野でシマアオジを撮影中に、ふと見上げた空に両翼を浅いV字型に保つ滑翔と羽ばたきを繰り返しながら飛ぶチュウヒがいる。遥か彼方には利尻富士が浮かぶ中空を低く飛んで地上の獲物を探す。時々停翔飛行も行なう。チュウヒの顔はフクロウと同じで平面的であり両眼視できる。やはりフクロウ類と同じく顔盤は耳が大きく集音しやすくなっており、獲物を探すときには視覚だけでなく、聴覚も利用しているといわれる。同じようなフイールドで見掛けるコミミやチョウゲンボウ、ノスリと同じように餌はネズミ類が共通している、その他には鳥類・両生類・爬虫類・昆虫など。撮影地は三年前の2月に茨城県で撮影した回想録である。
この10年間のブログは2500頁(回)、2万5千枚以上の写真を掲載している、過去は豊富にあるが現在の抱負がない、未来は行方不明である。

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アシ原のチュウヒとコミミ、チュウヒの顔にピント、手前のコミミのピントが甘いのはこの日の主役ではないからである、チュウヒの上尾筒の白帯が目立つので♂のようである

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アシ原のチュウヒとコミミのバトル、共通の獲物であるネズミ捕りの争い、同じ猛禽でもタカ斑模様が違う

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虹彩と足が黄色い綺麗な鷹斑のチュウヒがアシ原からにゅーっと舞い上がる。垂直離着陸可能な唯一の猛禽といわれる。英名のハリアーは、ハリアーVTOL(垂直離着陸)戦闘爆撃機の名前となっている。因みに沖縄では歓迎されていない大形ヘリのオスプレイはミサゴの英名。トヨタのSUVのハリアーの車名はこのチュウヒである。

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アシ原で足を出してネズミ捕りかな、腰の白帯が目立つ

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得意の浅いV字飛翔が斜めの正面顔

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浅い逆V字の餌探しの低空飛翔

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獲物を見つけたチュウヒの停翔飛行、いわゆるホバである

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沢鵟(チュウヒ)の和名の由来は宙飛からきているといわれるが野擦からの由来のノスリよりも低く飛び、ノスリの方が高く飛ぶ、名前の由来が逆のようである。宙飛は人の名前では「そらと」「ひろと」「ちゅうと」と呼ぶらしいが鷹の名前には宙飛は、ちゅうとはんぱである。

 

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参考書と図鑑ではチュウヒは、全長:雄48cm~雌58cm、猛禽類はノミの夫婦が多い。翼開長:雄 113cm~雌 137cm。
雄:国内型は個体による色彩の変異が大きい。胸は灰白色で、茶褐色の縦斑がある場合とほとんど無い場合がある。体上面も茶褐色で、淡色の羽縁がある。足は黄色。嘴は黒く、ろう膜は黄色い。虹彩は黄色いが淡褐色のものもいる。尾羽の横帯は雌に比べると明瞭。腰は白く幅広い。大陸型と呼ばれるものは頭、首、肩羽、外側初列風切、小雨覆が黒いほかは灰色で、腰が白い。
雌:色合いは雄と大きく違わないが、やや褐色味が強い、腰は白くなく、尾羽の横帯は見えずらい。幼鳥(若鳥):齢の識別は非常に難しいが、成鳥に比べると全体が黒褐色である。

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