懐かしの「DISCOVER JAPAN」スタンプ帖
+-+-の電極から11月11日は電池の日。記念日からみで先月の鉄道の日に因んでの最も古い過去ログとなった。日本の鉄道史を紐解くと新暦の10月14日は「鉄道の日」であった(旧暦は9月12日)、1872年(明治5年)新橋―横浜間に鉄道が開通した日、現在は新年度の4月が始まる3月にダイヤ改正をしているが昔の国鉄のダイヤ改正はこの日に因んで十月に改正された。
今年の北海道遠征旅では野鳥撮影と道の駅スタンプラリーに加えて三つ目のタスクに俄か鉄ちゃんを始めた。巡ったJR駅は道央・道東・道北などでの37駅であったが約半分は無人駅であった。訪れた廃線駅も十ヵ所近くになった。
道の駅スタンプラリーでは2013年から始めてこの年は40ヶ所、昨年は50ヶ所、今年は北海道・道の駅115ヶ所のうち道南の道の駅を除いて70ヶ所のスタンプを押印して来た(帰宅)。
鉄道好きとスタンプ収集癖は自分でもよくわからなかったがその原点(源典)の一つを身辺整理の断捨離中に見つけた気がする。それが今回のタイトルである。
このスタンプ帖には31歳の44年前の懐かしい思い出が詰まっていたが詳細については思い出すことが酷なほど、国鉄時代(酷鉄とも呼ばれた)のスタンプ帖である。このスタンプ帖のカレンダーは当時のダイヤ改正の十月から始まる。
「DISCOVER」と「JAPAN」の間に風見鶏の風向計のような矢印が付いた、1971(昭46)ビニール装丁緑色表紙、1972(昭47)青色表紙・文庫本大の国鉄監修・弘済出版 旅の手帳の初版と二冊目(各定価200円)を身辺整理(断捨離)中に見つけた。
記念すべき最初のスタンプは芦原温泉と東尋坊の観光地である芦原駅であったが詳細を思い出せないが1971年8月会社の夏休みの個人旅行?。我が家の宗派・曹洞宗の大本山永平寺の参拝が旅の目的と思われる?。しかしスタンプには「DISCOVER JAPAN」が入っていないので国鉄の駅ではなさそうである。どうやらスタンプは現在の「えちぜん鉄道」のあわら湯のまち駅の旧称芦原駅と思われる。この駅は芦原温泉に一番近い駅、現在のJR芦原温泉駅の旧称は金津駅であった、46年も経つと最初のスタンプから謎だらけである。
この時代は地方への出張が多く、得意先の品質保証と関係会社(子会社)や協力工場(外注先)の品質管理などを担当する品質管理課長の頃であった。1971年の福山駅は山陽新幹線がまだ岡山までの開業で岡山から在来線の特急に乗り換えて福山まで行き、タクシーを飛ばして、音響機器の輸出専用会社F社の子会社に訪問した時のスタンプ。新潟駅は会社の新潟営業所か又は新潟に十数社あった外注工場への訪問の記念か?詳細は思い出せず。どちらも出張の折りのスタンプ。この時代は上越新幹線を着工開始した頃で新潟へ行くには上野から「特急とき」か急行佐渡の時代であった。
この二つのスタンプは新潟方面に出張の折りのスタンプ収集
鶴岡駅は関係会社への出張であったがこの当時は急行寝台天の川は上野発22:38、鶴岡着8:01をよく利用していた。
金沢には得意先も外注先もないのでこの駅に来た記憶が甦ってこない。子供が5才と2才の頃で家族旅行ではなさそうと懐疑的に思う。46年前の金沢旅行を思い出す鍵が必要である。
スタンプがかすれているが左は上越線の六日町駅、ここには協力会社(外注工場)があった。宿泊した宿は名人戦などの将棋の対戦会場となる龍言であった。
右は常磐線の平駅、大規模な町村合併でいわき市となっていたのでその後1994年に駅名が改称されて「いわき」となっている、隣の湯本に関係会社(子会社)があり、出張で何回も来ている。ハワイアンセンターが近くにあり、ここに宿泊した記憶がある。
名物のうなぎと大凧上げ観光の浜松駅は初めての日付入り、46年11月5日ここは二輪車メーカーへの出張、擦れてよく見えないが原爆ドームと思われるスタンプは広島駅、ここは四輪車メーカーへの出張、なぜか広島駅のスタンプにはディスカバージャパンが入っていない?
こちらは広島駅にあった観光スタンプ
武生は大阪支店長と同行した得意先、米原で待ち合わせて北陸本線に乗り換えて武生に出張した時のスタンプ、武生駅の前に敦賀駅のスタンプもあったので出張先は敦賀かもしれない?
米原出張の帰りのスタンプと思われる、羽越本線の村上は特急いなほで出張、ここには仕入先の工場があったが日本海に夕日と瀬波温泉の観光地でもある。
村上駅は翌日の色違いのスタンプ、上越線の小出駅は村上からの帰路に浦佐駅近くの協力会社に行く途中にスタンプか?
山陽新幹線が博多まで開業する4年前の博多駅と長崎駅、寝台特急の全盛期の時代に寝台特急さくら、はやぶさ、あさかぜ・・・どうしても思い出せないブルートレイン、ブルーになる。今でも人気がある寝台特急出雲は44年前の鳥取三洋電機の工場への出張を思い出した。ブルートレインは仕事絡みでしか乗車していない。
金山駅で大井川鉄道に乗り換えて家山駅に合弁会社があった、この駅の名産品は家山茶、お茶が切れると家山出張と思い出すほどお茶が美味いお茶所、仕事どころではなかった?
二本松は輸出専用の音響機器メーカーの記憶、高崎は電機メーカーそれぞれクレーム対応
名古屋は名古屋支店の主要得意先の自動車部品メーカーへの対応、仙台駅は仙台営業所の得意先対応だったようだが具体的な客先名は思い出せず
1982年に東北新幹線が開業する十年前、現在の登米市にある関係会社(子会社)に出張するには、当時は東北本線の急行停車駅の石越駅か、小牛田駅に迎えの車が来ていた、東北新幹線開通後は古川駅その後に地元の請願で出来た、くりこま高原駅が最寄りの駅となったがタクシーで40分位だったがあまりおぼつかない記憶。
NHKの大河ドラマで樅の木は残ったの原田甲斐は記憶に残るがこの岩井山のスタンプは記憶のかけらも出てこない、こまった怪(甲斐)である。陸羽東線の当時の旧称羽前赤倉駅はその後に赤倉温泉と改称された。
陸羽東線の瀬見駅は現在は瀬見温泉駅と改称されている、奥羽本線の新庄駅は陸羽東線の終着駅であり、ここから余目まで陸羽西線となる、奥羽本線と陸羽東線・陸羽西線の交差点と言える駅が最上川観光の出発点の新庄駅であるが小牛田始まり余目に至る東北の関係会社への出張旅のスタンプ、陸羽東線の瀬見駅と赤倉温泉では途中の宿捜しの記念スタンプ?
陸羽西線の終点は羽越本線の余目駅、当時は鶴岡駅の隣の藤島駅近くにあった関係会社の工場からは田園地帯を煙を吐きながら走るSLが見られた
酒田といえば本間様。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇った、日本最大の地主だった本間家、豪商の本間家旧本邸を話のタネに見物をした記憶がある。一冊目の最後の87頁は越後湯沢、ここには協力会社があったが強力であったかの記憶は定かではない。一つひとつのスタンプの説明も誤りがあるのか定かではないと思う。
スタンプに仕事の思い出が詰まっているようだが想い出は朧の中にある。44年前のスタンプ帖の二冊目は次回の記録ログにしたい。
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