国鉄の思い出✡ディスカバージャパン
微かな記憶の断片しかない43年前、ディスカバージャパンのスタンプ帖16頁にある当時の北海道国鉄路線図とスタンプを置いてある駅の地図から話を始めたい。その前に11月17日は将棋の日、徳川家康は将棋好きで将棋を幕府の公認にした、八代将軍徳川吉宗も将棋好きで旧暦11月17日に行われた「御城将棋」に由来して新暦の11月17日を日本将棋連盟が将棋の日とした。
現在の時刻表にある北海道路線図と比較すると俄か鉄ちゃんのみならず、何方でも一目で路線図の違いに気付く。このブログでもフクロウ撮影の三笠市の幌内線廃線駅跡を訪ねた旅でも書いたが1882年(明治15)開業の官営幌内鉄道から始まり、北海道の鉄道は輸送インフラとして北海道開拓に多大な役割を果たしたが石炭から石油への変革により、産炭地の衰退とそれに伴う北海道自体の人口減少とが相まった。マイカーの普及によるモータリゼーションの進展は、国鉄北海道の大半が赤字路線となり次々と廃線に追いやられた歴史がこの路線図から垣間見える。今年の8月11日JR北海道の発表でも留萌本線の留萌―増毛間が来年度中に廃線されることが決まった、この区間は輸送密度が極端に低く、一列車平均乗車が3人の赤字路線ではやむを得ないと思われるが地元の観光地、増毛町の痛手は大きい。北海道新幹線開業の明と暗の赤字路線の廃線・廃駅の明暗はこれから先も交錯すると思われる。
43年前は主要幹線・本線からの枝線や盲腸のような支線が数多く見える。現在のオホーツク海沿岸の鉄路は釧網本線の知床斜里~網走しかないが網走から北への路線では湧網線・名寄本線・興浜南線・興浜北線・天北線などのオホーツク沿岸の廃線となった路線が目に付く、日本海側は幌延・天塩から留萌までの羽幌線と名羽線・深名線などが廃線となっている。道央の手宮線・岩内線・胆振線など、道南の瀬棚線・江差線・松前線など、道東の広尾線・白糠線・標津線・根北線・相生線・士幌線など、全部は書ききれない程、びっくりするほど多くの路線が廃線となっている。
ここからが今回の本題に入る。43年前にもなる今となっては遥か彼方の思い出、国鉄時代のディスカバージャパンのスタンプノート、二冊目は昭和46年10月1日初版発行、昭和47年8月1日4版発行、弘済出版の青表紙ビニール装丁の79頁の文庫本と同じ大きさ。
表紙をめくると1972年8月~1973年7月のCALENDARが目に入る
最初の頁の見出しは全国1400の駅に記念スタンプを用意してあります。これは一冊目と同じ内容の説明書きであるが挿絵が違うだけであった。
全国の有名行事カレンダー
全国の有名行事カレンダー、この当時の旅行は殆ど出張でこの行事カレンダーには縁がなかったようだ。
一番から72番もある長い鉄道唱歌(北陸地方)
♪車輪のひびき笛の聲
みかへる跡に消えて行く
上野の森の朝月夜
田端は露もまださむし
最後の72番は上野と新橋へ
♪思へば汽車の出来てより
狭くなりたる國の内
いでし上野の道かへて
いざやかへらん新橋に
北海道の人には懐かしい思い出の路線図と思われる。 この16頁に冒頭に説明した北海道の路線図がある。
はじ めて北海道旅行したのは28年前の青函連絡廃止直前の夏休みであった、当時中一の息子と三人での家族旅行であったがこの時はマイカーの旅であった。北海道列車の旅は16年前にカシオペアが登場した時に寝台特急カシオペアで札幌に旅行して、支笏湖畔にある日本秘湯を守る会の丸駒温泉と札幌から特急北斗で八雲駅まで、ここで普通車に乗り換えて落部の上の湯温泉・銀婚湯への旅行が唯一の列車での旅行であった。行程(列車時間・目的地・宿など)が事前に決めてあるのが旅行。その後十数回の北海道の旅はフェリーとマイカーのひとり旅であった。一人旅というが一人旅行とは言わない、旅は事前に行程を決めていないことが多い。自分の旅行と旅の違いは大雑把に言うとこんな違いだろうか。
日付を見ると32歳の会社の夏休みと思われる、この当時は中目黒に住んでいたのでまだマイカーを持っていなかった。列車の旅であったが軽井沢と中軽井沢のスタンプが押印されているが乗車した上越線・信越線の記憶の欠片(かけら)も出てこない。
軽井沢旅行での横川駅は「おぎのや峠の釜めし弁当」以外はなにも思い出せない、今は鉄道旅ではなく、長野方面への撮影旅の帰りによるSAでのお土産に峠の釜めしである。
勿来駅はここに協力会社があったので出張旅と思われる。 出張は旅行と同じように旅の行程を決めてある。八幡太郎源義家が「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな 」と詠んだ和歌の碑が、いわき市内の勿来の関にあるが勿来駅にこの歌碑があった。
東海道線の袋井駅は記憶のかけらも出てこない。家電メーカーの多い大阪は新幹線の出張が多かった。47年9月26日の日付の9が抜けている、苦抜けの洒落?かどうか単なる9のハンコが奥に入り印字面がスタンプされなかったと推測
1964年10月1日東京オリンピックの日に開業してから8年目、1972年9月に新大阪出張の折りのスタンプと思われる。1965年5月の九州への新婚旅行の帰路に新大阪から乗車してから5億人乗車の日まで何回も乗車しただろうと思われる。右の上野駅は上越方面かいわき方面への出張の折りと思われる。乗降客の多い駅はスタンプ台が乾いている、いくら強く押してもスタンプ面がかすれる場合が多い。(道の駅のスタンプ押印の経験から推量)
長岡駅はスピードメーターのメーカーへの出張と思われる。ここへの出張の帰りは、海藻がつなぎの緑色ぽっいへぎ蕎麦がソバ好きには楽しみであった。
上諏訪と茅野は諏訪湖・霧ヶ峰高原と白樺湖・蓼科高原などの観光旅行の気がするが記憶が定かではない。 仕事で上諏訪に行く機会が多かったが信州は精密機器メーカーが多かったが営業と同行しての出張であったが今日は将棋の日であるので車中で磁石の携帯将棋盤で往復とも将棋を何十回もへぼ将棋を指した記憶がある。
鶴岡は前にも書いたが関係会社への出張、石巻はスタンプ帖を忘れたのでメモ用紙に捺印して後日貼った形跡がある、ここは仕事には無縁の駅。
本塩釜駅もメモ用紙にスタンプしてあり、記憶にない石巻駅と同様に43年前を推測するカギも全くない記憶が甦ってこない駅である。東北本線小牛田駅も罫線があるメモ用紙にスタンプ、この頃はスタンプ帖を忘れて出掛けることがなぜか多い、思い出せない謎のひとつ
東北本線一ノ関駅も小牛田駅と同じメモ用紙なので同じ日のスタンプと思われる、まだ東北新幹線開業していない。
1982年(昭和47)10月14日は鉄道開通100年記念、47年11月30日仙台駅のスタンプはこれが最後の駅となっていた。
東北新幹線開業は1982年6月、これより10年前の1972年11月の仙台駅のスタンプ。このスタンプがスタンプ帖最後のスタンプであるが手帳から切り取った紙片に押印されてスタンプ帖に糊付けしてあった。79頁あるスタンプ帖はこの36頁が最後の頁となった、42頁も余して旅のスタンプ帖が終わっていた、なぜだろうか全く思い出せない、余白の空だらけである、飽きたのか?厭きたのか?記憶が甦らない43年前の秋である。ディスカバージャパンよりもディスカバー記憶の断片と欠片(かけら)であった。
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佐藤健一様
コメントありがとうございます。
JR北海道の毎年ような廃線廃駅にニュースに心が痛みますね。
在職中に佐藤健一さんと同姓同名の知り合いがいました?ので懐かしい姓名です。
さて、今思うとと現役時代からスタンプが好きだったようです。
現在は北海道の道の駅と日本100名城のスタンプ・コレクターとして
スタコレさっさと押し歩いています。
ありがとうございました。
投稿: ケン | 2020年3月16日 (月) 09:12
こんにちは
素敵な思い出ですね
短縮される前の北海道各所のの路線について興味があって調べています
私は砂川という町に住んでいました。とても貴重な絵や図ありがとうございます
投稿: 佐藤健一 | 2020年3月14日 (土) 17:12