静態保存44・留萌市見晴公園D613号機
子供の頃の想い出に魅かれて、始めたSL訪問旅も北海道で二年目を迎え、旅を重ねて度重なるとSLの知識も多少はついてきたが まだまだ勉強不足である。今後はSLの先達やSL愛好家のブログなどを訪問して生涯学習を続けたいと思います。
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北海道のサクラの時季に始まった初心者の静態保存SL訪問旅は5月1日の小樽総合博物館の動態保存アイアンホース号の乗車と転車台の実機見物、屋内静態保存の静(しづか)号、機関庫保存の大勝号、屋外展示のC12 6号機、C55 50号機に始まり、7月12日のD51-23を最後に今年のSL訪問旅どうやら幕を下ろす時が来たようです。
桜見物・道の駅スタンプラリー・JR駅探訪・野鳥撮影などの合間に静態保存シリーズは43回まで数え、48輌の蒸気機関車を訪問し、シリーズ以外の訪問地の北海道鉄道起点の手宮(小樽総合博物館)と三笠鉄道村の動・静態保存3輌、森林鉄道・動態保存の雨宮21号、名寄市の静態保存キマロキのSL2輌、廃駅の神居古潭駅のSL3輌などを加えると60輌以上の蒸気機関車を訪問し、動態保存の3輌に乗車しました。5月1日~7月12日の73日間で60輌強の蒸気機関車を撮影しました。7月15日からフェリーはハイシーズン料金になりますので13日18:45発の大洗行を予約して14日に帰浜しました。
野鳥撮影で珍鳥情報をいただいて現地に撮影に行ったが、昨日まで居たがもう抜けたと言われ、ガッカリしたことが何回もありました。いわゆる空振りです。
今回のSL静態保存地の情報はWebで検索し、参考にさせていただき、大変お世話になった情報源は「日本で保存の蒸気機関車」→「保存機関車全国地図」→「北海道で保存のSL」をお気に入りに保存して、野鳥撮影の合間に起動して、静態保存SLの検索した情報が15年前の2001年の資料であるために15年間の時の流れにより、SLが解体されたり、閉鎖している場合があり、静態保存地を訪問しても蛻(もぬけ)のカラだったり、更地のなっていたり、夕張市のように財政難で閉館中などの保存場所では見られません。
前回の平取町(びらとりちょう)振内鉄道記念館のD51-23号機と同じように個人所有であった平取町二風谷(にぶたに)のD51-2号機について振内鉄道記念館のD51-23号機を塗装していた責任者にお尋ねすると7,8年前に「中国に売った」と言われたが、Webで確認すると2008年に解体されたと情報がある、どちらが正しいのか詳細は不明であったが自分の目で確認した例もあります。
同じ様にサハリンから帰還したD51-25号機とD51-26号機について平取町の帰路、日高国道237号線からむかわ町で浦河国道235号線に入り、むかわ町宮戸の国道沿いのコンビニで訪ねると数年前まであったが今は無いと聞かされて所在した場所はすぐ近くの小川組と聞いてその場所に行ってみた。
道路標識に道の駅むかわ四季の館2km、この標識の下に株式会社小川組の立て看板の敷地に入り、事務所におられた女性事務員にSLの所在をお尋ねすると8年位前におじいさん(お祖父)が鉄屑として売却したが家に動輪が残っているようだとの説明があった。
小川組の駐車場と敷地、ここに旧ソ連(サハリン)向け輸出から帰国したD51-25号機とD51-26号機の2輌が静態保存されていたと思われるが解体されていまは無かった。個人所有(私企業含む)のSLは将来にわたり解体の運命を背負っているようだ。
5月9日に訪問した夕張石炭の歴史村SL館は2006年に財政破綻した夕張市高松7-1にあるが閉館中であった。
D51の形をした夕張石炭歴史村SL館のエントランスは煙突の後ろの罐(屋根)が壊れていた、この展示館の中に三菱大夕張鉄道4号機と夕張鉄道14号機が保存されている、その後のWeb情報で2008年から閉館中で中のSLは見ることが出来ないそうです。ここでも事前の情報不足でSL2輌を空振りしました。旭川市高砂台のドリームランド高砂ニュー温泉の三井芦別鉄道C58-2号機を捜しに現地に行くが建物があった隣の高砂温泉の駐車場に車をとめて、高砂温泉の受付にSLの所在を訪ねると2~3年前にニュー温泉の建物とSLを解体して更地になっていると聞いて隣の土地を撮影したのが下の写真
旭川市が一望できる高台のにコンクリートを打った敷地にニュー温泉の更地だけが夏草の中に残っていた。残念無念の思いを更地の隣にある高砂温泉に入り、心を鎮めた。高砂温泉で旅の疲れを癒す、ここはいろいろな温泉がある健康ランドであった。
◎ 6月13日に訪れた上川郡上川町栄町の北の森ガーデンのD51-157号機は現地を訪れた時には、今は無い、2009年に解体されたと聞かされた。
ここも15年前の情報が古すぎて、既に解体されて撤去されていたので初心者には空振りのSL訪問旅となった。
◎ 解体はされずに存在はしているが見られなかったのは「北海道で保存のSL」に記載のJR北海道苗穂運転所のC62 3号機とD51 237号機を撮影に7月12日(火)9時30分頃にJR苗穂駅へ見学に行く
7月11日午前9時30分 JR苗穂駅、駅スタンプを押印して入場券を購入してホームに入る
苗穂駅6番ホームからの苗穂工場
6番ホームから撮影した苗穂の構内
6番ホームにあるJR社員専用階段、列車から降りた運転手・車掌がこの階段を上り左手の苗穂運転所・苗穂工場方面に利用する専用階段。9:17分、再び野鳥撮影、昔の鳥と書いて鵲(カササギ)をレンゲの花と撮る。
今年の北海道で最後の撮影となる。
今回で今年の北海道のサクラ・新幹線・道の駅スタンプラリー・JR駅構内撮影・静態保存SL・野鳥撮影旅はようやく終わります。
今回の沙流郡平取町振内町振内鉄道記念館のD51-23号機は、去る6月6日に撮影して、10月27日に静態保存17としてブログ・アップしてある、別海町鉄道記念公園のD51-27号機と同じようにサハリン(樺太)向けに昭和23~24年に30輌が製造され輸出された。昭和40年頃までサハリンで石炭輸送で活躍して、役目を終えて平成2年に日本に帰国して保存が開始された樺太向け仕様のD51型である。
7月12日午後3時に現地(旧国鉄富内線振内駅構内に作られた振内鉄道記念館と屋外展示)のD51-23号機を訪れた時はあいにく塗装作業中であった。
鉄道記念館・入口のガラスには「社会福祉法人 平取福祉会、指定相談支援事務所 なないろ」が平成26年度より入所している。建物右手には義経号のレリーフ。建物後方は旧国鉄富内線振内駅構内に保存している客車(ライダーハウス)が見える。
D51-23号機と思われるSLは塗装作業中であった
塗装用の脚立があるが作業中の人影は見えない
左はホームとライダーハウスの客車、右奥は鉄道記念館
コンデジ撮影の非公式側、主連棒などは先に色入れしてカバーが被っていた。国内よりもかなり大型の前照灯レンズにもカバーが被っていた。煙室扉の蝶番も数が多くゴツク見える
D51-23号機のナンバーが見えない、塗装中でありキャビ内も見えない。
腕木式信号機を入れての振内駅跡のコンデジ撮影
午後3時過ぎは逆光となったテンダーの撮影
テンダーのナンバープレートでようやく「D51-23」号機を確認
旧富内線の駅名標が振内駅を中心にホームに三ヶ所
鵡川駅で日高本線分岐し、沙流郡日高町の日高町駅までを結んでいた(この間15駅)。
ライダーハウスに使われている客車後尾にエントツ?
駐車場の案内看板に振内鉄道記念館とライダーハウスの利用案内がある。
【開館時間】展示室/平日のみ開館9:00~16:00(施錠中のため、見学希望者は振内支所に連絡願います)ライダーハウス /宿泊可能期間 5月~9月【ご利用料金】大人600円 小人300円 ※コインシャワーあり
冒頭に説明した、同じサハリンから帰国した別海町鉄道記念公園のD51-27を参考までに
D51-27の説明板には、この蒸気機関車は、戦後、日本からサハリン(樺太)へ輸出されたものを購入したものである。この型式は、日本国内には1両しかない。昭和24年から昭和40年頃まで、サハリンの東海岸沿いで主に石炭輸送に従事していた。型式は日本のD51に準拠しているが、防寒目的で運転室は密閉式となっており、性能・装備などほぼ同じであるが、区分するために型式と番号の間にハイホンが入っている、などの趣旨が書かれている。
昨日の勤労感謝の日は地震と津波の警報で半日が終わったが、大きな被害が出なくて良かった。今朝は東京で半世紀ぶりの雪のニュースで出勤前の混乱ぶりを各TV局を取り上げていた、横浜も同じ1962年11月22日以来の54年前ぶりの11月の降雪である。紅葉狩りの箱根路のターンパイクなどは通行止めになっている。
今年の北海道は異常気象で台風が3回も上陸して河川の氾濫などで農産物などに多大な被害があったが、今日のブログは晴天の7月12日の記録である。
正午頃に白老駅を離れて、13時には苫小牧市に戻り、苫小牧駅より約1kmの北海道苫小牧市旭町3丁目1番12号の苫小牧市科学センター前庭に屋根なしの屋外保存、C11133号機を訪れた。
プラネタリウムがある苫小牧市科学センターの前庭に屋根なしで静態保存C11133号機
昭和13年(1938)4月から昭和48年(1973)10月まで日高本線を走っていた蒸気機関車C11 133「たるまえ号」
後ろの苫小牧市科学センターのミール展示館にはロシア(旧ソ連)製の宇宙ステーション「ミール」(実物予備機)が展示されてる。
昭和13年3月9日に川崎重工によって製造。長さ12.65m、高さ3.85m、幅3.0m、重量66.05トンです。運転距離は約1,736,000kmで、地球43周分に当たります。昭和50年5月に旧国鉄より永久貸与されました。
屋根なしだが塗装も良く、保存状態は定期整備されている様子で良好である
キャビに入る階段まで塗装、写真を撮ると階段が目立つ、これも怪談話
後尾灯はなぜか白雲と同じ色に写る?
中を見学する階段を上りキャビに入る
主要の運転装置に名前と用途説明のラベルが付いている、SLの初心者には勉強になる。
今日は11時からスカパーの鉄道チャンネル546で同じC11型の「C11 325 会津只見号」と機関室の運転操作と動輪の同時画面を見た直後であり、この斜めのレバーは自動車のアクセルに相当する「加減弁ハンドル」、正面にあるハンドルは「逆転機レバー」自動車のギアのような役目をする、右はブレーキレバー。SL初心者もSL訪問旅を重ねるとだいぶ勉強の機会が増えた。
このような説明書もキャビ内にぶら下がっていたのでコンデジで全ページをメモかわりに撮影、左手で資料を持ち、右手でSWを押して撮れるコンデジはこのような時は武器になる。
こんなタイトルもある
蒸気機関車の製造番号を表すナンバープレートの説明もある
動輪の径の大小による速度の説明
運転方法に興味があったので拡大してみた
今朝のCSーTV番組(鉄道チャンネル546)でも機関士が発車直後は加減弁ハンドルと逆転器レバーを忙しく動かしていたが駅が近づくと加減弁ハンドルから手を放してブレーキハンドルに右手が移った。キャビの天井からぶら下がっているヒモを引っ張ると汽笛が鳴るシーンは機関士も嬉しそうに見えたが、隣の機関助士が忙しそうに焚口戸から石炭を罐に入れていたのを見るとSLの運転は過酷な作業であったと思われる。
この時期は帰浜する日が近づいてきたので、フェリー波止場の苫小牧市周辺の静態保存SLを訪問している、7月12日はキリンビール千歳工場を午前10時頃に出発して、次の目的地は白老郡白老町末広町のJR白老駅北広場のD51333号機を訪問した。苫小牧市には直線区間の長い線路があるので鉄道ファンには有名な所です、室蘭本線の沼ノ端駅~苫小牧駅~苫小牧駅から五つ先にある白老駅までの区間で28.7kmの直線区間があります。室蘭本線と並行して走る室蘭国道36号線を白老駅の手前で右折してポロト公園に付くと湖畔にポロト温泉があり、ここでSLの場所を聞いて公園通りを白老駅方面に500m位進むと白い柵に囲まれたナンバープレートがゾロ目のD51333号機の保存場所に11時30分に到着、キリンビール千歳工場から1時間30分のドライブでした。
白老駅に向かう公園通り、駅に向かって走るようにD51333号機が屋根なしで白い柵の中に保存されている。
信号機やポイント切替機なども保存
白老駅方面を背中にして撮影
今まで見たことがないユニークな説明表示板、このデゴイチの現役時代の2枚の写真と車歴が表示されています。愛称はポロト湖畔に保存した時に町民から募集した名前のSLポロト号、現在はここの白老駅北広場に保存。
昭和14年12月17日製造
北海道内の室蘭本線・函館本線・江差線・松前線・夕張線・万字線・幌内線を26、494、437km(地球一周40、075kmで換算すると66周)
昭和50年11月5日廃車
テンダーには冬季にシートを被せて保存する骨組みがありました、今頃は保存会によってシートが被っていると思われます。
室蘭本線線路側からの撮影
室蘭本線側からは柵の中央部分の踏切信号機が邪魔しています。密閉式キャブ窓は鉄格子が嵌る、塗装は良好で錆びなどもありません、保存会などにより定期的な整備を行っているようです。
白老駅に向かう公園通りからの撮影
11時43分、D51333の保存場所の後方は室蘭本線の線路、特急スーパー北斗10号が白老駅に向かって走行中であった。保存場所から通過する列車が見えることは、列車の窓からもこの蒸気機関車が見えることになる。
苫小牧駅11:32発、室蘭駅11:56着特急スーパー北斗10号が11:43分白老駅を通過する最後尾
線路側は公式側、真夏にもみじが紅葉していた、晴天に静態保存状態の良いSLを撮りながら高揚する。
白い柵の一本一本に色が入り、樽前山のイラストが見える
広い保存場所にポイント切替・切替信号・腕木信号機などは最初からあったのか、最初に保存した40年前の1976年3月北海道白老郡白老町ポロト公園の保存は見ていないので詳細は不明。
2008年3月に現在の白老町白老駅北広場に移転保存した際に保存されたものかもわからない鉄ちゃんの駆け出しものです。
白老駅ホームより白老駅北広場のD51333号機が見える、通過する列車からもこのデゴイチは見えると言われる場所に保存場所を移転したのは喜ばしいことである。
この後は室蘭駅方面へ行くか、苫小牧駅に戻るか悩んだが、二日後にフェリーに乗船するので苫小牧周辺に戻ることにした。4月25日の花見の時季に室蘭を通過した時にSL保存場所を事前に調査すべきであったと反省する。
”後悔先に立たず”
7月12日快晴、朝一番に道の駅「サーモンパーク千歳」から千歳市内の支笏湖野鳥の森、小さな池のある観察舎へ野鳥撮影に出掛けたが撮れたのはウグイスに似ているが尾の短いヤブサメと思われる鳥、藪の中から地上にチョロチョロ出てくる臆病な鳥で他の野鳥が池の水を飲みに来る気配があると直ぐ藪の中に引っ込む、池の縁や倒木の上にしかこない鳥で、木の上に止まることがない、思うような写真が撮れなかった。今春発行された、知りたい野鳥が早見チャートですぐわかる!「日本の野鳥 識別図鑑」により似ているウグイスとヤブサメを確認するとやはりヤブサメであった。
9時頃まで支笏湖野鳥の森・観察舎で撮影していたが他に目ぼしい野鳥が現れないので同じ千歳市内のキリンビール千歳工場へ向かった。千歳市上長都の中央大通と市場通の交差点・信号機付近にキリンビール千歳工場の正門がある。ここは朝は9時30分から希望者に工場見学が開始される。正門を入り左の駐車場に車を停めて、工場見学ツアーのバスの右横の受付でSLの見学を申し込む、一番搾りの工場見学ツアーにも勧誘されたが時間がないとお断りする。受付案内嬢が受付奥の50m先にある(中央大通沿い)屋根付きフェンス付の静態保存D51 1052号機へ案内して下さいしました。
デフ横とキャブ横に見学用階段が作られている 、デフ横の上からの写真撮影が新鮮であった(この後の10枚目あたり)
鬱蒼とした木立に囲まれて屋根付きで低い柵に囲まれてD511052号機が保存されていました。(中央大通側からは植栽で全姿が撮れない)
朝は曇り空の7月11日に訪問した札幌市西区八軒5条西6丁目の「農試公園」のD51111を訪問した後に、札幌市東区北7条東9のサッポロガーデンパークのビール園に静態保存のSL 9643号機を訪れた、右の写真はサッポロビール博物館前にある銅製のビールを造る仕込み釜、釜は釜でも蒸気機関車の罐はボイラーの罐である。ビール造りは釜で風味が決まり、SLは罐で出力が決まるのだろうか。
9643号機の後ろの案内板にSLのイラスト、駐車場から約200m、大谷翔平などの活躍で日本一になった北海道日本ハムファイターズ室内練習場の前あたりに静態展示されている。
前日に掲載した9600形「2つ目羊蹄号」は、前照灯は2灯式(であったと思われるが実物は片目であった)。切り詰めデフの両側に空気溜めを抱え、短い煙突の後ろに給水温め器を横に置いて、前面に手すりがある北海道重装備型?であったがサッポロビールの9643号機は、普通の前照灯、大型のデフ、空気溜め器は後方のキャブに密着している、集煙装置付きの短い煙突、前面の手すりなしなど同じ9600型でも随分と形が違う感じであった。
園内の露天にフェンスが無しの保存、曇り空に9643号機は雨垂れ汚れの形跡
愛称はキュウロクでも大正3年生まれは100才を超える9643号は古豪
公式側は生垣がある道路側から、ビール工場にSLが良く似合う
野晒し展示は撮影の自由度があるが、雨垂れ汚れが弱点
テンダーにも雨垂れ汚れが目に付く
キャビに上がらないようにの注意書き
キャビの後ろは金網で入れない
金網でキャビの様子は見えない
窓枠に何かを外した無数のネジ穴、キャビの圧力計が見えたが細部は不詳
窓越しの撮影ではキャビの様子は良くわからないが金色塗装のバルブコックが見える
園内からは非公式側
公式側は道路側からの撮影
樽の山は「麦とホップを製すればビイルといふ酒に奈る」と書かれています。サッポロビールの前身である官営「開拓使麦酒醸造所」開業式のサインを復元したものと説明されていました。
4年前に北海道旅行をしたときに新札幌駅のホテルからタクシーに乗り、このビール園でBBQなどを飲食した時にサッポロビール園の開拓使館の玄関で孫と記念撮影したのを思い出した。
岩内町運動公園のD51 159号車を撮影後に40分間で到着したのは隣町の倶知安(くっちゃん)町南3条東4丁目2番地2の文化福祉センターの79615号車です。写真はSLを保存してある文化福祉センターから望む、蝦夷富士の「羊蹄山」は青空に白雲がかかり、白雲の中から頂上がのぞき、重畳(ちょうじょう)でした。道央で活躍して生涯を終えたSLの愛称は「2つ目羊蹄号」です。
79615号機のあしあと(2つ目羊蹄号)
期待していた「2つ目」が1つ目でガッカリです、このままでは真打ちにはなれません。2つ目の看板も降ろさなければなりません。あまりにも可哀そうです。
その一つ目も下に傾いて、恥ずかしいのかうつむいていました。こちらも事件が起きるような気配です。2つ目の羊蹄号のクンロクに何が起きたのでしょうか、このままの放置ではロクな目に合いません。
煙突の後ろに大きな給水温め器と小さ目のデフ両側の下に大きなタンクを大事そうに抱えて、地元を走ってきた貫禄を保っていました。
スノープロウに79615と読める刻印は身の証です
コンクリート柱に遠方信号と腕木式信号機の中途半端な光景は滑稽に見えます
ナンバープレートは4枚とも無事にありました、キャブ内を見学するハシゴがあるので撮影可能でした。計器類は揃っているように見えます
キャブの天井の板が腐っていたのは痛々しい
道央で225万キロ走行した後付けの窓枠から、24万キロ走った愛車が写りました、今年で廃車になりますのでこれが最後になります。テンダーの横に初見の給水塔と呼ぶのか給水柱と呼ぶべきなのか、象の長い鼻のような給水装置も保存されていました。
テンダーのハシゴに青いカバー、青空に給水スポートが伸びる、更に給炭装置もあれば、生き物のように石炭を食べ水をタラフク飲んで北海道の急勾配を黒煙を出し白煙の蒸気を吐きながら、ヴォーヴォーと爆音を上げ、ピー・・・と汽笛を鳴らし、シュポシュポ・・・、ガタンゴトンと爆走する姿を思い出し、彷彿させることと思います。テンダーと給水スポート越しに蝦夷富士の羊蹄山が見える、こんな景色の良い故郷に保存されて79615号車は幸せと想います。
コンクリート柱の信号機は事実に傾注して欲しい心からか傾きました
罐の上や側面を縦横にはい回るパイプ類と金色塗装のバルブに目が引き付けられます、逆に色落ちと錆びついたように見えるピストン・ロッド、コネクティング・ロッド、カップリング・ロッド類には目を背けたくなります
空気タンクのカバーは鉄板の腐食が進みかなり傷んでいます、動輪のロッド類なども油っ気がなく、グリスアップの気配が見えない、屋根なし保存の弱点が見えます。蒸気機関車保存会が組織されているので塗装などの定期整備はあるようですが錆びの進み具合・キャブ内の荒れようと看板の「2つ目羊蹄号」は前照灯が片目では泣けてきます。
79615号機の車歴表示の横に駅名標も並んでいました。撮影後に寄った函館本線倶知安駅です、名所案内はやはりスキーと羊蹄山です
羊蹄山の麓を走る列車の写真脇にホームの倶知安駅名標、2つ目羊蹄号保存地の駅名標とは形が違います。札幌方面は小沢、函館方面は比羅夫。
撮影日7月11日、この日は4ヶ所で5両のSLを撮影して、ここの倶知安が最後でしたが2ヶ所目のサッポロビール工場のSLを掲載済でしたので飛ばしましたが明日はそのサッポロビール保存の9600形 キュウロク 9643号機と比較してみます。
昨日はボジョレーヌーヴォーの日に気をとられて「将棋の日」でもあったことを忘れていました。今日は王将戦挑戦者決定リーグ戦、「久保利明九段 VS 糸谷哲郎八段」のリーグ戦トップ同士の直接対決。月曜日には竜王戦7番勝負第4局、挑戦者丸山9段の2勝1敗のリード後に注目です。
朝里川温泉・北海道ワインの静態保存SLを正午に撮り4月29日に雪道の下り坂を恐る恐る走行したことを思い出しながら逆に毛無峠を上りはじめて、次に向かったのは赤井川村の道の駅「あかいがわ」ここから更に40kmの距離にある岩内町の元国鉄岩内駅跡地の道の駅「いわない」に向かう、ここから町外れの北海道岩内郡岩内町宮園の 岩内運動公園に着いたのは午後1時30分、この運動公園は町民のスポーツ拠点施設として整備された公園で陸上競技場、野球場、弓道場、照明完備の多目的広場、テニスコートなどを備えた大きな運動公園 。第一駐車場に停めて、案内図を確認して管理事務所の北側、遊戯広場の隅に静態保存のD51159を訪れた。
広大な運動公園の一角に屋根付きの静態保存
撮影日 2016年7月11日
屋根は勾配が少ない左右同じ太さで片側4本、計8本の支柱がある
フロントの連結器が黄金色で異様に目立つ
前照灯はレンズとランプが欠損していた、ナンバープレートが煙室扉の湾曲にそって取り付けられており、不自然なプレートであった。
7月11日月曜日の午後1時半頃、遊ぶ子供も見えなかった
テンダーの連結器もフロントと同じ塗装色が光る
ナンバープレートは無事でした
運転席側からの景色、計器類のあるべき姿が見えない
キャブ内は立入自由となっていた、計器類は全て無くなっている、バルブコックの塗装だけが目立つ
焚口戸は溶接され閉じたままであった
機関助士側からの景色
塗装は全体的に厚塗りでロッド類とパイプは赤の色入れ、連結器の金色塗装以外は普通の塗装、縁取りにアクセントに入れる一般的な白色塗装が無い、屋根付きの管理状態は普通と思われるが管理者の好み?によってSLの塗装色に特徴があることを知った。
この後は隣町の「羊蹄山(えぞ富士)」の倶知安町に向かった。
11月の第三木曜日はボジョレーヌーヴォーの解禁日、現役の頃はあまり好みでもなかったボジョレーヌーヴォーをこの日は何故か飲んだ記憶がある。人の噂も七十五日といわれるが、北海道で本日のSLを撮影した真夏の晴天の日、7月11日は札幌農試公園から小樽を経由して赤井川国道393号線の朝里川温泉のカーブが続く峠道を上っていた。この日より75日前の4月29日は道南の桜見物と道の駅スタンプラリーの時季に春の大雪に遭遇して、雪の毛無峠を恐る恐る下って来た日であった。小樽市朝里川温泉1丁目130番地の北海道ワイン本社の前を通過する時に雪化粧の蒸気機関車二重連と客車二両を坂道の左に観ながら通過した、ここのSL広場に車を入れたら最後、夏タイヤでは脱出出来ないと思われ通過した日であった。それから75日後にギンザンマシコやクマゲラなどの野鳥撮影も終わり、桜の時季に通り過ぎたSLの静態場所を巡りながら苫小牧のFTに向かう旅の途中であった。写真はSL保存場所近くにある北海道ワイン創業者の意思が石に込められていた。今日は国産ワインの「初しぼり」販売の日である。
北海道ワイン代表者の創業の意思が込められた石碑の位置からSLを撮る
山中を走るように見えた二重連のSLと二両の客車は遠くから見ると素晴らしかったが・・・
北海道ワイン本社から国道393号を隔てた広場にSL2両と客車2両
D51286は1939年の製造から地球を72周相当も走り、1975年に廃車。
59614号車は1921年製造から1976年の廃車まで55年間も現役で働いた。車歴が輝かしいSL達。
先頭車のD51286、何か不自然に見えます。ナンバープレートが無く白字の手書きで、前照灯がありません。盗難防止で両方とも外したの?かそれとも人気の無い山中の展示で盗まれたのか?なんとも不自然に見える保存。
二両目のSL、59614号機もナンバープレートが白字で描かれ、前照灯が欠品しています。
車輛の塗装など整備状況はまずまずですが、キャブ側面のナンバープレートも盗難にあったのか白いペイントです。灯具類とナンバープレート全てが欠品しています。 7月11日石狩川河口でアカモズを撮影後に札幌市内に戻り、札幌から函館本線の二つ目の琴似駅から徒歩で15分位にある札幌市西区八軒5条西6丁目の農林水産省北海道農業試験場跡地につくられた[農試公園]、平日の月曜に空いていた駐車場に車を停めて、静態保存のD5111号車を撮影した。
撮影日2016年7月11日(月)
デゴイチの愛称で呼ばれたD51型蒸気機関車は日本の機関車1形式の車輛数で最大の総数1,115両が大量生産された、1936年に生産された初ロットの11輌目の若い製造であるので今年で4つ年上の八十才になる。
露天の静態保存であるが比較的保存状態は良好のようだ。
ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水温め器をレール方向に置き、それらを覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴である。その後の通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「ナメクジ」の通称もある。(ウイキペディアD51より)
半流線形とか半流形とか呼ばれ通称はナメクジ、野晒し展示により、ナメクジの背中から罐が雨垂れ汚れしていますがその他は良好な保存のようです。
7:3の公式側 正面からのD5111 交通コーナーの非公式側 札幌ポプラライオンズクラブが管理保存をしているのでしょうか D51 11は後部の照明灯は設置されていないようです? 農試公園の植栽の中から全景 密閉された窓やドア、キャビ内は撮れません
午前8時に苦労して探し、撮った!赤平スキー場跡のD51566号機をあとにして、次に向かったのは、函館本線深川駅・留萌本線始発駅でもある、9時20分から35分まで駅構内と到着列車を撮影してから、次の静態保存SLの目的地、深川市上多度志の9645号機の保存地を目指す。
現地に着くまで個人が所有するのSLとは思ってもいないので、情報は「深川市上多度志」これだけの情報で深川市上多度志の広大な田園地帯を探し回る、上多度志地区の駐在所を見つけてたが巡回中であったので留守番の奥様に「蒸気機関車の保存場所」をお尋ねしたら近くまで来たことは認識できました。周囲が田んぼの町道を進み、最初の道を左折すべき処を通り過ぎてしまい、その先の田圃の水路で作業する地元の人にお尋ねして、通り過ぎった方向の右を指さす方向へ車をUターンして、今度は右折して田圃から牧場の方向へ車を進めると、ようやく丘の上の民家とSLを発見しました。時間は10時30分を廻っていました。深川駅から約10kmの道程が見つけるまで一時間も掛かりました。
7月15日帰浜してから既に4ヵ月経過してもまだ7月5日撮影の静態保存SLです。今月中は静態保存SLがブログの生態になりそうです。
昨夜は期待したスーパームーンは見られず、今夜のスーパー十六夜に期待しましょう。野鳥写真もそのうちの復帰に期待してください。
このブログの写真は写真をクリックしない写真が見られない謎が起きています。
北海道赤平市元赤平スキー場跡地のD51566号機。
野鳥撮影の傍らの静態保存SL撮影であるが、ここは野山を駆け巡る野鳥撮影よりも困難なSLであった。SLの場所を見つけることと、SLに近づくことが野鳥撮影よりも難しいと思われた静態保存でした。
7月5日芦別市から赤平市の炭鉱跡地を観光しながらD51566号機の保存場所を探したが、今までの静態保存SL巡りで一番手間取った場所であった。
芦別市から赤平市に向かう途中で国道452号線から、炭山川橋梁の上に保存されている三井芦別鉄道のディーゼル機関車DD501を撮る。
赤平市はその昔炭鉱で栄えた街、産業遺産のこのような案内看板が目立つ
赤平市内には炭鉱跡が多い
旧住友赤平炭鉱立坑櫓の跡、炭鉱遺跡を巡りながら赤平スキー場跡地を捜す
やっと見つけた!2004年に閉鎖された赤平スキー場の入口近くに車を停めて赤平スキー場に保存されているD51566号機を探しにスキー場跡地に向かう。(写真はスキー場へ入る道路の右脇の道、どちらにも通行止の標識があるが立入禁止の表示はない)
熊が出そうな草深い山道を進むと、通行止から5,6分歩くと右へカーブする丘の上にD51566が見えて来たが夏草が深く、斜面のD51へは直進出来ない。
道なりに坂道を進むと、2004年から閉鎖中の赤平スキー場の管理棟らしい建物が見えて来た
夏草の中に荒れ放題のD51566が忽然と現れた、”夏草や兵どもの夢のあと”を思い出す。
草をかき分けて柵の近くまで登り正面を写す。光と影、朝の陽光が日陰者に射す。
更に非公式側に回るがあまり柵には近づけない
生年月日は月こそ違うが同い年の老友のようなもの、廃車・展示から40年、永年の放置状態で痛々しい感じ
テンダーのライトは破損していた、車体もナンバープレートも汚れ放題の放置保存 まだ十分に使えそうな建物側からのショット 逆光の非公式側は草木で茂り近づくことが出来ないのでキャビ内は撮れず
道の駅「オホーツク紋別」でスタンプラリー、オムサロ原生花園で野鳥撮り、廃線・名寄本線興浜南線・廃線駅のオホーツクの道の駅、「おこっぺ」と「おうむ」を巡り、道北の道の駅「マリーンアイランド岡島」から内陸に入り、国道275号線沿いにある天北線(音威子府駅からオホーツク海側を経由して稚内まで結んでいた)廃線駅跡の道の駅「ピンネシリ」でスタンプ、次に向かったのはベニヤ原生花園のある浜頓別に向かう途中で昨年も通過した中頓別町、ここも天北線の廃線・廃駅の中頓別駅跡、現在はバスターミナルとなり、気動車キハ22が派手な色に塗装されて保存されている。ここから車で4km5分の町外れのR275沿いにある天北線廃線駅跡の次の駅は寿駅、今は寿公園となって牧草地の中にある遊園地のような公園、自衛隊から借りうけたと言われるF104J型ジエット戦闘機も展示されている、ここに北海道で一番北に保存されている蒸気機関車49648号機、住所は北海道枝幸郡中頓別町字寿64番地1の広大な草原の公園が北限の静態保存地。
天北線廃線駅中頓別駅跡はバスターミナル
中頓別駅跡の気動車キハ22、所々に錆が目立ちました
サイロ型の公衆電話ボックスに天北線メモリアルパークの表示
地図では中頓別寿公園までは約4km車で5分
F104J型ジェット機などの展示の他にパークゴルフ・アスレチック・ゴーカートなどがある広大な草原の中にある遊園地・寿公園
昨年に続き二度目の訪問、昨年は通りすがりの撮影、今年は静態保存SL撮影旅の途中である
製造から57年稼働して、廃車から40年、北海道で働き、地元で余生をおくるSLでした。露天展示でも定期的に整備されているようで、大切に保存されているようです。 昨夜はBS朝日6:44からの放送の映画・故高倉健さん主演の「鉄道員(ぽっぽや)」を観賞しました。今月は二年前の2014年11月10日に亡くなった高倉健さんの三回忌になります。この映画を観て思い出し、高倉健さんを偲ぶ今日のブログです。
今年の7月3日雨のち曇りの日に、道の駅「南ふらの」に寄った時に近くのセイコーマートで買い物をして、その後は南富良野町役場の北にある根室本線の幾寅駅に写真を撮りに行ってびっくりしました。幾寅駅前と無人駅舎には「鉄道員(ぽっぽや)」のロケセットがそのまま残っていました。
高倉 健(たかくらけん) → 高久 健(たかくけん)
83歳で亡くなった高倉健さんは9歳年上の健さんとは、一字違い(らの字がない)、ら抜けのケンさんでした。間抜けでなくて良かったが亡くなられてからはこのような自己紹介が出来なくなりました。
駅名は映画の駅名のままである。映画は厳冬の寂しき雪の終着駅。元蒸気機関車と気動車の機関士であった定年間際の駅長、主人公の佐藤乙松(おとまつ)は朴訥で職務に忠実なあまり家族を顧みなかったと駅の官舎で嘆く。そんな男に優しい奇跡が訪れる映画の内容であった。
幾寅駅(無人駅)の入口脇の鉄道員ロケ地の看板
駅舎の右、屋根の下に本物のJR幾寅駅名
映画の中ではポンコツと呼ばれていた気動車だがこれは映画撮影のために新造された運転席と前部分のみのキハ12 23
運転室
運転席の右側
高倉健さんと出演者のサイン入り色紙 こちらもサイン入り色紙 映画場面のスチール写真は高校生役の広末涼子との夢のような場面 亡くなった妻役の大竹しのぶ、亡くなった当歳の娘雪子を抱く妻を駅のホームで迎える場面のスチール写真、朴訥で生真面目な佐藤乙松駅長役の高倉健さん。 無人駅舎の中はロケ記念展示コーナー 駅務室には高倉健さんの遺影が飾られていました 鉄道員ぽっぽやの名場面、1999年降旗康男監督、高倉健主演により映画化された。 鉄道員の宣伝ポスター、第23回日本アカデミー賞(2000年3月)の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した作品 幾寅駅のホームも映画の駅名幌舞そのままでした 本物の名所案内と駅名表示はここ一ヶ所 落合駅方面の景色 ホームの反対側からホームと改札口 映画の場面にも出てくる外にあるトイレ、映画は全て雪の中 「鉄道員ぽっぽや」は数々の賞を受賞した名画となった 幾寅駅前のロケ地、志村けんの臨時工が酔って騒ぎを起こしただるま食堂 炭礦の閉山前は賑やかであっただるま食堂 床屋は、ひらた理容店もロケ地の一部 幾寅駅前の鉄道員のロケ地の建物があちらこちら無数にある 幾寅駅前の案内板(これは本物) 地元に今でも、いつまでも慕われる高倉健さんでした。
北海道紋別郡湧別町計呂地2620番地の旧湧網線の廃線駅計呂地駅跡のC58139号機が二輌の客車(旧客スハ4517+オハ6291)を牽引するように連結して静態保存されている。スハ4517は座席が撤去され畳が敷かれ、ライダーハウスに改造されて夏期には一泊300円で泊まれる。駅長室は一泊500円。
オホーツク沿岸の原生花園のワッカ原生花園・シブノツナイ原生花園・オムサロ原生花園などへの野鳥撮影、あるいは知床峠のギンザンマシコを撮影後にウトロからシマアオジを撮りにサロベツ原生花園へ向かう途中、または逆にサロベツから知床峠にギンザンマシコを撮る途中でこのオホーツクライン国道238号線沿いにある計呂地駅跡の蒸気機関車を何回も見ているうちに写真を撮ったのが切っ掛けになり、北海道で野鳥撮影の合間に静態保存のSLを撮る俄鉄ちゃんになりました。
昨年はウトロからサロベツに向かう時はシートを被り、塗装などの化粧直しをしていました。一週間後にサロベツで上の写真のシマアオジを撮影後にウトロへ戻る7月5日に塗装直後のC58139を撮りました。それが下の写真の3枚です。(2015年8月2日のブログに掲載)
上の3枚は昨年撮影した計呂地駅跡のC58139号機、撮影日2015年7月5日
撮影日2016年6月22日 保存状態は綺麗で良好です
計呂地 駅名標も綺麗です
今年もC58139も屋根の下できれいな保存状態でした
キャブ内も丁寧に塗装されて綺麗です
メーター類も揃っているようです
焚口戸も綺麗に塗装されています
運転席からの跨線橋方向、この跨線橋は低いので後付けの建物
機関助士席からの跨線橋方向 跨線橋下にエンジン付きトロッコがありました、SLや客車が下を通れない規模の跨線橋 昨年と変わらぬ風景 ホーム上の計呂地駅の沿革と周辺にある鉄道記念碑 計呂地駅跡の鉄道風景 計呂地駅跡ホーム周辺 サンゴ草群生地への遊歩道からのショット 非公式側のC58139 スハ4517の内部 泊り客の荷物が置いてありました
計呂地駅跡全体
道の駅のスタンプラリーをしながら野鳥撮影と鉄道写真を両立させながらの写真旅をしてきた。6月21日はアカシヤの花咲く男山公園でハヤブサを撮影する、翌22日は180km離れたのオホーツク海沿岸のワッカ原生花園に野鳥撮影に向かう、国道238号線の網走と常呂の間にある能取湖畔の卯原内交通公園でSL撮影。ここは1987年に廃線となった旧国鉄湧網線の卯原内駅跡地を利用した交通公園で、公園内には当時の駅舎やホームが残り、9600型SL49643号機と客車(国鉄の旧型客車オハ47 508 )が静態保存されている。
ここで旅行中の横浜市青葉区在住の学生S君に会う、学生ながら名刺をいただく、生憎名刺を切らしていたので、携帯でブログのURLで自己紹介、ここのSLのブログを旅先で約束してから5ヶ月も過ぎてやっと実現した・・・あれから季節はうつろい初夏から真夏、秋となりサンゴ草群落の見頃も終わり、今頃の卯原内は雪景色だろうか?
野晒しの静態保存では雪害などで傷みも早いのでシートなどで覆われて冬ごもりの季節が来たようだ。
9600形49643号機に客車1両が連結されて露天に静態保存
1988年に廃止になった湧網線の路線図と履歴の説明板
SLの近くに踏切警報器の設置 がある、サイクリングロードもある
湧網線の線路跡はサイクリングコースになっている
前照灯のレンズ・ランプが欠損していた。 後方は鉄道記念館
卯原内駅名標
過熱弁ハンドル、焚口戸ハンドルなどのハンドル部分が金色に塗装されている
スピードメーターなどの計器類の周囲が金色塗装、逆転機ハンドル、ブレーキハンドルなどのハンドル類が金色塗装されているが錆び汚れも目立つ
ホームの位置に停車の客車 オハ47 508
客車の後方のホーム下にルピナスの青・白・紫などが花盛りの時期でした
車体にオハ47 508、名所案内には、サンゴ草群落9月中旬、アオサギ渡来地などの観光地の案内
釧網線 釧路駅の所管?
一部の座席が外されて休憩室に改装されている、ドアが開いているのでサイクリングなどの休憩所になる。
ホーム跡の後ろにある鉄道記念館はクローズしていた。
この後は常呂のカーリングホール見学、ワッカ原生花園でベニマシコなどの野鳥撮影、道の駅サロマ湖、計呂地駅跡のSL撮影、道の駅愛ランド湧別、道の駅かみゆうべつ温泉チューリップの湯、温泉で一日の疲れを癒し、この道の駅で車中泊、約200km無事に走破した一日が終わる。
遠軽町の瞰望岩は町のシンボル、高さ78mの巨大な岩をアイヌ語で「インガルシ(見晴らしの良いところ)」と呼ばれ「遠軽」はこの名に由来する。市街地のあらゆる場所から見ることのできる。
北海道唯一のスイッチバック駅であり、石北本線遠軽駅のホームからも眺望できる。この遠軽駅より西へ約400mほどの踏切を渡り、北海道紋別郡遠軽町西町1丁目の遠軽駅より500mほどの瞰望岩直下の遠軽町郷土館横の公園に保存のD51859号機を観光とSL訪問旅。
撮影日2016年6月20日早朝5時
瞰望岩」(がんぼういわ)は地上約78mの高さで聳える巨岩、遠軽駅南側の鉄道分岐(スイッチバック)の西側に位置する、瞰望岩真下の公園にある郷土館横で屋根付きの環境で静態保存されているD51859号機
瞰望岩」(がんぼういわ)は北海道の自然百選に選定、国指定名所「ピリカノカ」に指定されているの観光名所に戦時型のデゴイチが保存されている
デフのマークは遠軽町の町章、北斗星のデザイン
外側の星形を北海道の北見国を北斗星で表し、その中央に三つの輪を配して、まん中の輪を「天の時」右を「地の利」左を「人の和」とした。地方自治体の基本は、三和主義による理想郷にあることを意味したものである。(遠軽町章の由来)
蒸気溜はカマボコ型ドーム、角形の砂箱など戦時型の不格好なスタイル
一番製造数が多いデコイチの戦時型の公式側
D51859号機の履歴抜粋・由来の説明板
昭和18年製造、鉄材不足の当時の典型的な戦時型で、石炭車や運転室、ボイラーサイドデッキ等木材で代用できる所はすべて鉄材を節約し不格好な姿で戦時輸送や終戦后の復員兵や引揚者の輸送に活躍したそうです。
ここで哀愁列車の想い出、敗戦4ヵ月後の昭和20年12月5歳の時に満州からの引揚者、母に連れられて引揚の途中、やっと辿り着いた釜山港で満州で現地徴兵された復員兵の父と奇跡的に合流して、引揚船で博多港に入港して、博多駅から母の実家である宇都宮・烏山まで汽車に乗ったがもしかすると途中で、山陽本線で活躍していたこのD51859にお世話になったかもしれません。
昭和47年7月にこの遠軽で静態保存。
計器類は揃っているようです、バルブコックが赤色に化粧されていました
非公式側のデフには☆マークは入っていない
踏切信号機と遮断機も展示
腕木式信号機は青で保存
遠軽町郷土館寄りに雪カキ車の露天展示 雪カキ車キ100形式282号機
今年3月に開駅100周年の伝統ある遠軽駅、撮影日6月19日15時
屋根の傾斜を見ても主支柱は公式側です、今まで見て来たのは殆どが非公式側でした。(6月13日に撮影した和寒町郷土資料館のD51337号機も同じように公式側にこのような邪魔な支柱があったのを思い出した)
フロントデッキの下にある、白っぽい灰色塗のフロントビームに黒い連結器が精悍に見えます、新品に見えるような前照灯に金網がガードしています、北海道のSL訪問旅の二年目を迎えた駆け出しの撮り鉄でも、どことなくチグハグな塗装に見えました。
広場から見た運転席がある公式側、非公式側は木々の緑に覆われていました。
車歴説明板の拡大、製造は昭和13年9月10日汽車製造(株)、昭和48年5月13日池田、北見間の貨物列車を最後に現役引退、34年8ヶ月3日まどの履歴があります。
柱が少ないので撮り易いがこちらは残念ながら非公式側、公式側は左向
柵のなかにも若木が育ち始めていたので近々邪魔になる
非公式側のキャブ横のナンバープレートが持ち去られたのか無くなっている
公式側のナンバープレートは赤色が色鮮やかに見えます
テンダーの照明灯も金網でガードされていた、これもあまり見掛けない照明灯具
三枚目のナンバープレートは無事にあった、エンドビームもフロントビーム同様に見掛けない灰色塗装が気になった
最後は一番撮り易いい位置からです、以下はおまけの写真です
美幌駅に向かう途中にある石北本線網走の次の駅は呼人駅、網走湖に鳥のクチバシのように突き出た呼人半島、呼人探鳥遊歩道で数年前に探鳥の経験が数回ありますが、上の写真は呼人駅の手前にある丘の上に「鉄ちゃんと鉄子の宿」がありました。
宿の看板は「鉄ちゃんと鉄子の宿・旧国鉄保養所跡・鉄道資料館」ここの見学や宿泊をしたことは有りませんがここに泊まるとどんな特典があるのでしょうか。日本野鳥の会の協定ペンション・旅館・民宿などでは日本野鳥の会会員証を提示すると割引特典がありますが、ここは鉄ちゃん達にはどんなサービスがあるのでしょうか。
石北本線網走駅から四駅、呼人駅から三駅目の美幌駅美幌駅の2番線と3番線ホーム、名所案内に阿寒国立公園・美幌峠29km車30分・屈斜路湖45km車50分などの案内看板
美幌駅前の美幌開駅60周年モニュメントC5862の動輪(片面のみ)とレールの展示
美幌開駅60周年記念のレールの由来、このレールのは明治23年(1890年)英国より輸入し当駅開業当時使用せられていたレールである。美幌駅から車で5~6分の美幌町柏ヶ丘公園に静態保存のC5882号機でした。ここは野球場・陸上競技場などがある大きな公園でした。北海道斜里郡斜里町本町49-2の斜里町立知床博物館の59683号機は9600形式の第584号機である。1922(大正11)年6月26日に川崎造船兵庫工場にて竣工され、1975(昭和50)年帯広運転区で廃車の後、釧路鉄道管理局より貸与され、斜里町開基100周年記念事業として、1978(昭和53)年斜里町町民公園に設置された知床博物館の野外展示物である。(知床博物館HPより)
初心者には初めてのポイントレールの展示であったので、ウィキペディアで分岐器と転鉄器標識などを勉強した。
錆止め塗装のレール終端にトングレール(列車を分岐させる先の尖ったレール)と左にトングレールを入れ替える普通転轍機(ダルマ)、右に転轍機標識の信号機が展示されていた。SLの活躍した時代を彷彿する博物館らしい展示と思われた。
博物館の展示とあって59683号機の履歴と仕様がSL脇の説明板に丁寧な説明表示がされていました。
この蒸気機関車は、大正2年(1913年)から昭和16年(1941年)までの間に量産された貨物用機関車です。キューロクとかクンロクの愛称で呼ばれ、合計784車両が川崎造船所などで製造されました。ボイラーの位置が高く火床の面積を広くとっているのは、たくさんの貨車を引っぱるために大きな馬力を必要としたからです。そのため煙突が短く、ドームが平たく、動輪が小さくなっているのが特徴です。四国を除いた全国で活躍していましたが、効率の良い電気機関車やディーゼル機関車が使われるようになり、使命を終えました。
蒸気機関車
形式 9600形
番号 59683号
製造 大正11年(1922年)6月26日
機関車重量 (燃料を入れた運転整備重量)60.35トン (空車重量)54.83トン
炭水車重量 (燃料を入れた運転整備重量)34.50トン (空車重量)15.50トン
最大馬力 980馬力
廃車 昭和50年(1975年)6月25日
運転総キロ数 2.084.672km(地球52周に相当)
<59683号の経過>
大正11年(1922年) 木曽福島機関庫(長野)所属し活動を開始。その後、金沢、福井、糸魚川機関庫に所属し、名古屋鉄道管理局内各線を走る。
昭和8年(1933年) 北海道へ移る。倶知安、長万部機関区に所属。昭和10年には、鹿児島での陸軍大演習に参加する。
昭和14年(1939年) 滝川機関区に所属。以後30年間、道央部を走る。
昭和44年(1969年) 帯広機関区に所属。広尾線で貨物列車のけん引、貨車の入換えに従事する。
昭和50年(1970年) 廃車
この蒸気機関車は、斜里町在住のSL愛好者の努力により整備され、昭和53年8月から町民公園内に、永く保存されることになりました。
斜里町
この静態保存の連載をはじめた頃覚えた運転席側の名称は公式側、鉄道車両の形式図面で車両前を左にした手前側を公式側、逆を非公式側を勉強した。
機関助士席側から見たキャビは窓と後ろの入口とも金網と鉄格子でガードされて中を見れない、中に入れない管理状態であった。
公式側のテンダー
非公式側、腕木信号機は赤だろうか?テンダーの側面は無数のリベットが打たれていた、上のアーチ型の支柱は今頃から冬期にシートを被せて保存するものと思われる。
テンダーの照明灯も完全に装備
非公式側
連結器の下にあるスノープロウの形状が初めて見る複雑な形、名称はあるのか?わかりません。
曇り空の59683号機正面と転轍機(ダルマ)・転轍機信号機・腕木式信号機
レールの先にある建物は公園のトイレ
コンデジ撮影の公式側、全体の保存状態は良好
この日のこの後は美幌町柏ヶ丘公園のC5882に移動
北海道斜里郡清里町羽衣町南の羽衣南児童公園にJNRマーク入りのスマートな形の除煙板を付けた蒸気機関車を初めて見る、児童公園の一角に屋根付きの白い柵の中に静態保存のC5833です。
6月18日は道の駅「パパスランドさっつる」「はなやか(葉菜野花)小清水」「流氷街道網走」「ぐるっとパノラマ美幌峠」の4ヶ所のスタンプラリーとこのC5833号機と斜里町の59683号機、美幌町のC5882号機の3ヵ所のSLを巡った土曜日であった。
履歴などの説明看板はどこの静態保存場所にはあるが、ここには看板がない公園であった。JNRのデフのあるSLは珍しいがここは説明板が無い珍しい公園。そこでC5833の製造と廃車の履歴はWebで調べた。
1938(昭和13)年10月川崎重工兵庫工場で製造
1975(昭和50)年6月北見機関区で廃車
製造から78年、引退から41年経つSL C5833です。
白い低い鉄柵と屋根付きの静態保存ではあるが保存状態が良いとは言えなかった。ヘッドライトは破損して、リム(レンズ枠)・レンズ・リフレクター(反射鏡)・ランプが欠損していたので古ぼけた塗装の車体が一層みすぼらしく見えた。
非公式側からの全面撮影は×である
スマートに見えるデフはJNRの文字入りで二本の鉄柱で支えられ、静態保存のSL訪問旅で、駆け出しの老鉄ちゃんとしては初めてお目に掛ける珍しい姿である。
公式側の屋根の柱は非公式側よりも少ない
除煙板の名称を先達の鉄道写真ブログから探すと「編集長敬白」鉄道ホビダス様の「C5833」と海水浴特急「全国保存蒸気機関車めぐり」様の「C5833」を勉強させていただきました。
この独特の形のデフレクターの名称はJNR入り後藤式切取り除煙板と分かりました。先達の皆様ありがとうございました。
公式側全体を撮ると真ん中の一本が柵とともに入る
非公式側は屋根を支える柱が5本と柵が入るのでスッキリした写真を撮る策がない。
70mmのレンズで撮影したキャブ、窓ガラスはない、細目の金網がある、その下にタブレットキャッチャーがたたまれていた。
デコイチで撮影したキャブ内部、計器類などは全て現存しているのか駆け出しにはわからなかったが先達の鉄ちゃんのブログでは荒らされていると書かれていた。
何年も再塗装はされていない様子です
だいぶん前に塗装されたと思われる赤色も色褪せて塗装の劣化がロッドにも目立つ
後照灯・尾灯とも灯体部分以外は何もない、リム・レンズ・リフレクター・ランプなど全て無かった、汚れて色褪せた車体に赤いプレートだけが目立つ
C5833のリアーから曇り空の清里町の観光名所、日本百名山の斜里岳を撮る
帰り際に児童公園に遊びに来ていた子供に駆け出しの老鉄ちゃんとC5833の記念写真を撮ってもらう、SLは永年保存の色褪せた汚れと色落ち、人間は人生の黄昏が漂う。
次は斜里町の59683号機に逢いに行く。
北海道標津郡標津町南1条2に露天で保存のC11 224号機です。根室標津駅跡に近い標津町文化ホールの敷地の一角に保存。
国鉄からJR北海道に移行後、1989(平成元)年4月29日まで運行された標津線(標茶~根室標津/中標津~厚床)で、1975(昭和50)年まで使用され、廃車後に根室標津駅跡に静態保存。
標津線とは広大な根釧原野開拓を使命として生まれた鉄道路線です。昭和8年12月1日の厚床~西別間開通に始まり、順次路線を拡張しながら、昭和12年10月30日の中標津~根室標津間完成により、全線開通となりました。以後、平成元年4月29日に廃線を迎えるまでの56年間、原野開拓を支え続けてきました。(標津町教育委員会の説明看板より)
最近になって錆び落としや塗装などの整備を行ったのか良好な保存状態であった。今頃はシートにくるまって雪害を逃れているのだろうか。
この蒸気機関車は、根釧原野を駆けた鉄道路線標津線に配置された数々の車輛の内の1つ、C11204です。C11型蒸気機関車は、昭和7年から製造された国産タンク式機関車で、標津線の輸送を支えていました。全長12.65m動輪直径1520mm、最高速度85キロで走行する性能を備えており、客車5~6両をけん引、都市周辺の快速運転に使用されたほか、ローカル線の客貨兼用、入換用などあらゆる分野で使用されていました。C11型は、昭和22年までに381両が新製され、その内、標津線に配置されたものの1両が、このC11224です。標津線でのC11型の運転は、昭和50年4月19日のC11176が最後となりますが、こちらのC11224はそれより一足早い昭和50年3月21日に最終運転日を迎え、その使命を全うしています。そして役目を終えた同じ年の暮れに、開拓の功労車として、国鉄からC11224の貸与をうけ、ここで永久保存することになりました。
右側へ排出する片側に傾いたスノープラウが付いています
C11224履歴
昭和16年(1941年)8月日本車輌名古屋工場で製造
昭和18年(1933年)4月大館機関区
昭和49年(1974年)5月釧路機関区
昭和50年(1975年)6月釧路機関区で廃車
旧根室標津駅は始発駅、SLの近くに手動式の転車台がこちらも新しく塗装されて大切に保存されています。
C11224がここで方向転換していた場所です。水が溜まっていました。
C11224保存方向の車止めにSLの先輪が転がっていました
線路の付近にも転がっています
中標津の方向、植栽の処で線路は消えていました
ここは標津町指定文化財(史跡)です
標津町役場裏にひろがる旧根室標津駅敷地の一角に転車台があります。転車台とは始発駅に設置された施設で、台の上に機関車を乗せて手動で方向転換する装置です、平成元年に廃線となりましたが、こちらの転車台は当時のままの姿を今に残しています。
撮影日2016年6月16日、この日は中標津町と標津町の廃線・標津線二ヶ所のSL C11を撮影後に野付半島で野鳥撮影、その後には80km走り、道の駅「摩周温泉」に行き、道の駅にある横綱大鵬の記録を撮る。
巨人・大鵬・卵焼きで一世風靡した、大鵬の写真を飾る道の駅「摩周温泉」の一角。
北海道標津郡中標津町丸山2丁目丸山公園の中標津町郷土館の屋外保存のC11209号機。
平成26年12月中標津町教育委員会発行の”中標津(なかしべつ)町郷土館だより26号”に掲載の「標津線中標津駅開駅80周年」「標津線廃止25周年」より。
標津線とは、標津線は広大な根室原野の開拓を使命として生まれた鉄路で、釧路管内の標茶駅で釧網本 線から分岐し、根室管内の根室標津駅に至る47.5kmの本線とその途中にある中標津駅で分岐し、根室市の厚床駅に接続する69.4kmの支線を持つ、全長116.9kmの長大な路線であり、また勾配がきついことでも知られる路線でした。昭和9年の中標津駅開駅から、客車と貨車を連結した混合列車は連日のように多くの人びとと、山と積み上げた木材や農産物 を運びました。標津線は、日本一の酪農地帯を生み出す基礎となり、原動力となりました。しかし、昭和40年代からの道路網の整備が進み、乗用車が一般家庭に普及されるようになると鉄道の貨物・旅客率が低下し、年々赤字が増加するローカル線は次々に廃止されていきました。それは標津線も例外ではなく、住民による度重なる反対運動もむなしく平成元年には廃止されてしまいました。
日高本線、富内線で活躍したヘッドライトが二つ目のC11 209号機
郷土館の前に露天で静態保存
公式側
案内履歴看板には”この機関車と同じ仲間は昭和7年にC111号機が製造されてから昭和47年までに318両製造されました。”と書かれていますがウィキペディアのC11形の製造年月は1932年~1949年までに401輌になっています。昭和47年は1972年ですので間違いですね、動輪直径の動が「働」の誤字、中標津町教育委員会は間違いに気が付かないのでしょうか。
信号機・切替機なども展示
非公式側
キャブ内を撮影時に窓ガラスに周囲の景色が映り込み
過熱タンク式のリア―ビュー
露天展示でもきれいな状態で保存されていました。
雨のち曇りの天気で野鳥撮影には良い日ではありませんでした、野付半島のビジターセンターの野鳥情報板の写真です。
撮影日の6月16日は車中泊した道の駅「しらぬか恋問」から150kmの距離にある野付半島へ野鳥撮影の途中に寄った中標津空港近くの公園でした。
6月15日釧路市春採公園で巣立ち雛に給餌するシマエナガを撮影した帰路に、釧路市川北町9番19号に本社工場がある橋梁・製缶・クレーン他鋼構造物の設計・製作・施工メーカーの(株)釧路製作所が保存する、近代化産業遺産の「雄別炭礦鉄道車両8722号」を見学してきた。
(株)釧路製作所は10月26日のブログで5月29日に釧路市阿寒町にある「炭鉱と鉄道資料館」を訪れた際のSL C1165号機の雄別鉄道と関係がある。雄別鉄道は、釧路市の根室本線釧路駅から、阿寒郡阿寒町(現・釧路市阿寒町)の雄別炭山駅までを結んでいた鉄道路線などを運営していた炭鉱鉄道会社の関連会社その関連会社である。
(株)釧路製作所のHPによると
この車輌は、1957(昭和32)年に雄別炭礦鉄道に譲渡され、釧路~雄別炭山間の石炭輸送に活躍、同鉄道の廃止後に、関連会社であった当社に引き取られ保存されました。雄別鉄道は、1923(大正12)年、北海炭礦鉄道として営業を開始。翌24年、三菱鉱業傘下に入り、雄別炭礦鉄道として事業展開。 1959(昭和34)年には経営合理化のため、炭鉱部門から分離され雄別鉄道となりました。 釧路~雄別炭山間44.5kmを結んだ鉄路は、C11形や C56形蒸気機関車等が石炭輸送に活躍したほか、釧路市街地への通勤通学の足として活躍、1957(昭和32)年には気動車も導入いたしました。 しかし、親会社である雄別炭鉱が1970(昭和45)年に閉山、雄別鉄道も47年の歴史に幕をおろしました。
8722号は、8700形として現存する国内唯一の車両であります。 8700形は1911(明治44)年、当時の東海道本線などの急行列車けん引用として、英・独・米の3国から輸入された蒸気機関車の一形式で、英国ノースブリティッシュ社から12両が輸入され、翌年には国産大型機関車の製造技術取得を目的に、汽車製造会社で18両が追加製造されました。 当時の国内産業の技術水準は欧米に「追いつき、追い越せ」という時勢で、機械・車両などの多くは欧米からの輸入品の模倣であり、8722号の車輪やロッド類も、当時のわが国の鋳鋼技術では製作することが出来ず、ドイツ・ヘンシェル社の輸入品に頼っておりました。
製造当初は東北線用として盛岡・青森に配置されておりましたが、その後国産の大型蒸気機関車が登場すると一線を去り、北海道拓殖鉄道を経て 1957(昭和32)年に雄別炭礦鉄道に譲渡され釧路~雄別炭山間の石炭輸送に活躍、同鉄道の廃止後、関連会社であった当社に引き取られ保存されました。 8722号は阿寒町(現在は釧路市)にあるC1165号と共に残り少ない保存車両であります。(以下略)
正門入口右の管理棟二階で愛想の良い受付嬢に見学許可をすませて、管理棟前に展示されている8722号車、来客用駐車場に車を停めずに反対側の駐車場に停めて撮影。
8722号車あらまし、キャブの8722ナンバープレート
あらましの拡大
仕様の拡大、明治時代の製造国産蒸気機関車
近代化産業遺産とあって管理が良い保存状態
明治45年の国産だが車輪やロッド類はドイツ・ヘンシェル社からの輸入品といわれる
一眼レフの写真が見つからないのでコンデジ5枚の写真
写真は(株)釧路製作所HPの8722号機、小学生の写生画材にもなっているそうです。
駅名の新釧路駅は北海道釧路市古川町(現・新釧路町)にあった、雄別鉄道の雄別本線の駅、廃線とともに1970年4月に廃駅になった。
明治の香りが漂う古典スタイルの蒸気機関車であった。
北海道で5月~7月に60ヶ所以上で撮影したSLのブログが11月の声を聞いてもまだ続いている。野鳥撮影を休んでいるにも関わらずまだ終わらない。
北海道北見市留辺蘂町なかよし公園にデゴイチD51331号機が保存されている。
北見市は蒸気機関車の在りし日の姿を広く市民に親しんでいただき、SLを見たことがない子供達のためにSLの保存に力を入れている。
6月12日撮影で10月28日にブログアップした(静態保存18)三治公園(南仲町)のD505025号機と6月13日撮影の10月31日にブログアップした(静態保存21)SL広場(栄町)のC58119号機とD51444号機を良好な状態で保存していたが同じ北見市留辺蘂町のD51331の保存状態は悪かった。
留辺蘂(るべしべ)町は2006年に北見市と合併したがD51331は合併前の1975(昭和50)年に設置されたと記録にあるので合併後に設置された案内看板は錆びだらけのSLにマッチしない新しさが目に付いた。
留辺蘂町なかよし公園の案内看板(履歴板)
拡大して見ると一年年上で現役引退後41年になる
留辺蘂町なかよし公園の雑草だらけの環境にある露天の保存D51331号機、SLには緑が良く似合うと聞くがそれは現役で野山を走っていた頃の話である。
留辺蘂町なかよし公園公式側のD51331号機
非公式側
前照灯は二灯ともレンズと反射鏡が無い、電球がない、ナンバープレートの色が違う、煙室扉のハンドルが正規品と形が異なる
錆びと塗装落ちは保存が状態が最悪と思われた士別市つくも水郷公園のデゴイチと比較するとどちらも保存状態のワースト10に入ると思われる
雨ざらしによる雨垂れ汚れと錆びで寂しい保存状態であった、キャブ側面のタブレットキャッチャーはあるようだが他に何が欠品しているのか駆け出しの撮り鉄にはよく分からない。
どんなに保存状態が悪くても、懐かしいSLとの出会いの写真はまだ当分続く。
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