駿府城跡天守台に新たな発見
今年は鷹の渡りの時期に台風21~25号の来襲で白樺峠と渥美半島の鷹の渡りの最盛期を逸してしまった。北海道から帰浜してから80日ぶりに10月9日から渥美半島の伊良湖崎・恋路ヶ浜や渥美の森へ、鷹の渡りの撮影に出掛けたがサシバ・ハチクマの渡る最盛期は残念ながら月初に過ぎていた。
伊良湖シーサイドゴルフ倶楽部の入口前に芭蕉の句碑があります。「鷹ひとつ 見つけてうれし いらご崎」
今年は近くを渡るサシバ・ハチクマの写真が撮れなかったので、この芭蕉翁の句意が分かるような気持ちになりました。
Aが駄目ならBがある ”鷹が駄目なら城がある”
愛知県には日本100名城がある、国宝の犬山城・名古屋城・岡崎城・長篠城の四城、帰路の静岡県には掛川城・駿府城・山中城の三城がある。因みに神奈川県の100名城は小田原城のみである。14日から17日までこれらの八城を巡り、日本100名城のスタンプラリーでタカのうっ憤を晴らして来た。 Bが駄目ならCがある。Cは大井川鉄道のSL。今回はAのうっ憤をBではらしたのでCはまたの機会になった。
ところが17日朝のNHK静岡第一の朝のニュ―スで16日に訪問した徳川家康大御所時代の居城である駿府城の駿府城跡天守台発掘調査で秀吉時代の天守台が発見されたニュースを聞いて、再度の駿府城訪問となった。
撮影日10月17日
駿府城東御門・巽櫓(たつみやぐら)、後方は静岡県庁別館展望台(21階)
県庁別館21階展望ロビーから撮影した駿府城天守台発掘調査現場
”おまけ”展望ロビーからの富士山と傘雲
駿府城公園案内図より
発掘現場の見学はOKでした
家康の天守台跡(一部) 新発見された秀吉の天守台跡と思われる石垣、後方の銅像は家康像の背中 鷹狩姿の徳川家康、後方は天守台発掘現場の囲いと覗き窓 10月17日の朝日新聞デジタルの記事を転載 徳川家康(1542~1616)が築いた駿府城(静岡市葵区)に、豊臣秀吉(1536~98)が配下に築かせた城跡が見つかったと、発掘調査を進めていた静岡市が16日、発表した。約330点の金箔(きんぱく)瓦や野面積みの天守台の石垣から、豊臣期の城の特徴に間違いないという。
市によると、6~7月、現在の駿府城趾(じょうし)の天守台付近から、金箔で装飾された大量の瓦が出土。さらに8月ごろには、天守台の南東角に重なるようにして、家康の駿府城とは異なる形状の石垣(南北約37メートル×東西約33メートル)が見つかった。石垣は自然石を積み上げた野面積みの技術を用いており、金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。
駿府城は、1585~89年に家康が築城。90年の関東移封で家康が江戸に移った後、豊臣方の武将中村一氏(なかむらかずうじ)が入城した。秀吉の死去後、関ケ原の合戦を経て、再び家康が駿府城に入り、1607年から大改修を行ったとされる。戦国時代は城を攻め取った後、我流の城に建て替えるのが一般的だったが、一氏時代の駿府城については詳細が明らかでなく、「幻の城」とされていた。
駿府城跡天守台発掘調査の資料とHPより
~金箔瓦と"秀吉が築かせた天守台"が出土~
天守台の発掘調査で新たな発見がありました。 見つかったのは、金箔で装飾された瓦(金箔瓦)330点と、徳川家康の駿府城とは異なる形状の石垣=秀吉が築かせた天守台=(大きさ:南北約37m×東西約33m)の2つです。
専門家の先生にお聞きした結果、今回発見されたのは、天正18年(1590)に、豊臣秀吉が、子飼いの部下である中村 一氏(なかむら かずうじ)という武将に築かせた城であることが分かりました。
当時、この城の天守台の上には、金箔瓦を使用した豪華絢爛な天守が建っていたと考えられます。
新発見 ①大量の金箔瓦(330点が出土)
新発見 ②秀吉の天守台(南北約37m×東西約33m)
静岡市歴史文化課 資料vol. 3 より転載
歴史好き・城好きにはたまらないニュースでタカの渡りの不満を解消したがこの間のブログを十日間お休みしてしまった。
日本100名城巡りのスタンプラリーは別の機会に掲載します。
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