日本100名城6 盛岡城
昨年のお盆休みの東北地方旅行中に盛岡城址公園のもりおか歴史文化館で日本100名城のスタンプラリーを済ませた。当日は雨天で盛岡城址公園の石垣の一部しか撮影出来なかったがこの記事が下書きのまま一年以上も忘れていましたので完結しました。
2005年から始めた野鳥撮影の前は、現役引退後から始めた「サクラ観光巡り」で盛岡地方裁判所の庭に咲く有名な「石割ザクラ」の撮影に訪れたことがある盛岡市です。巨大な花崗岩を二つに割って成長して咲く樹齢400年ともいわれるエドヒガンは遠くまで撮影に来たかいがある桜の思い出があります。
2018年8月15日からのお盆休みの家族旅行で青森県の三内丸山・鶴の舞橋・弘前城などを観光した翌日雨天の16日に日本100名城6番目の岩手県盛岡市の南部氏が築いた総石垣の城跡に立ち寄りました。
南部藩主の居城であった盛岡城の旧跡。盛岡城は28代藩主重直の時代寛永10年(1633)に完成。北上川、雫石川、中津川を自然の壕に利用した平城で、不来方城とも呼ばれた。現在は石垣や池が残り、盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)として四季を通じて市民に親しまれている。
盛岡城は,三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(なんぶのぶなお:盛岡藩初代藩主)が,慶長2年(1597年)に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を始めたと伝えられ,翌慶長3年(1598年)の正式許可の後,築城工事が本格的に進められました。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ,北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二ノ丸・三ノ丸・腰曲輪(こしくるわ)などを配し,それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(うちくるわ)=御城内(ごじょうない)としています。さらに,内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み,南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪(そとくるわ)としました。また,外曲輪の北側と東側の中津川対岸の城下を堀で囲み,武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(とおくるわ)=総構(そうがまえ)が配置されています。
築城工事は,北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ,築城開始から36年後の寛永10年(1633年)に南部重直(しげなお)が入城して以降,藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。(盛岡市HPより)
「日本100名城に行こう」6盛岡城より転載
南部家の家紋「なんぶづる=対い鶴に九曜」と甲冑
雨天の日に、スタンプのあるもりおか歴史文化館を見物中に撮影
盛岡城址公園の本丸跡
この日は雨で公園内を隈なく歩き回れず撮影したのは石垣ばかり、見事な総石垣造りの盛岡城址でありました。
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