敗戦記念日に思い出の廃線駅
大東亜戦争(太平洋戦争および日中戦争)の戦中に国策に応じて昭和19年に4歳の時に父母と3歳の妹と家族4人で満州国に渡り、敗戦後に幾多の生死をともなう苦難を重ねながら奇跡的にも一家4人で昭和20年12月に博多港に引揚者として故国の土を踏んだのは5歳だった75年前である。時は流れ傘寿の真夏を迎えた。
8月15日は私にとっては敗戦記念日です。1945年8月9日に関東軍と軍属が逃げ去った後の黒龍江省牡丹江市で突然参戦してきたソ連軍を初めて見たのが5歳の時である、一般の日本人全員が赤い布切れを胸に付けられソ連軍に降服した証とされた、この日から親に足手まといになるから現地に置いていかれた同世代の多くの子供が中国残留孤児になった。この日を終戦記念日と言い換えているが満州で敗戦を迎えたものにとっては日本が連合国に降伏した敗戦日そのものである、この日から棄民(捨てられた民)となり、牡丹江から母に連れられて屋根のない貨車での移動や徒歩で広大な大陸を横断して朝鮮半島の釜山港に命辛々到着して、奇跡的にここで軍隊に召集されていた父に再会して、一家四人で引き揚げ船で博多港に入港してやっと日本の地を踏んだのは4ヶ月後の12月であった。今日は敗戦記念日。
お盆の日に父母の墓前で5歳の幼稚な記憶が甦るとともに感謝のお墓参り。
最近は「はいせん」と入力すると「廃線」が出る時代、平成28年(2016)12月に、留萌市と増毛町をつなぐJR「留萌本線」が廃線となったことでも話題にのぼり、俄か鉄ちゃんとしてこのブログでも数回取り上げたことがある、線路と駅舎は現在も多くの観光客でにぎわう人気スポット、2018年に駅舎が開業時と同じ広さに復元された、まだ見学していない最北の造り酒屋・国稀酒造の見学と合わせて敗戦の日に廃線で話題になった平和の時代の増毛観光です。
撮影日7月2日
廃線になった当時の増毛駅
2020年7月2日 元の大きさに大きくなった増毛駅
整備中の増毛駅ホーム
ホーム欠落部分のコンクリートの修理、廃線駅の修理は初見
増毛駅の記念碑
大きくなった待合室の内部
待合室内部 スタンプ台
売店 ぐるめ食品
お土産の陳列
以前と同じ駅の看板と孝子屋の幕
国稀酒造の入口
「国の誉」から「国稀」に銘柄を替えたいきさつがあるらしい
国稀酒造の売店
試飲コーナーも興味なしとは情けない
お酒以外もお土産多し
高倉健の写真は「駅 STATION]のロケをここで行なったらしい
なぜかバンダイナムコ?
日本酒が飲めないので試飲もせずにお土産は贈答品
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