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2020年8月25日 (火)

歴史散歩・高久小三郎景義の高久館跡

 傘寿になってから5月にこのブログの記事で本籍地のあった湯沢市東山寺の先祖の墓参りの縁(えにし)で秋田県湯沢市で1877年(明治10年)に誕生した祖父の高久孫三郎(三男)の長兄が5代目当主高久多兵衛の孫である高久均氏とメル友になった。祖父が兄弟の再従兄弟(はとこ)のメル友である。700年以上昔の遠い先祖の高久城址の情報をいただいたので機会があったら見学したいと思っていた。お盆休みにGO TOキャンペーンを利用して四万温泉と伊香保温泉に連泊した帰路に栃木県茂木町から国道123号線で茨木県城里町に入り、城里町役場に行き高久城址の場所を尋ねると城里町桂支所にある桂図書館の郷土資料館を紹介された。走行してきた123号線を桂支所まで戻り、ここで埋蔵像文化財の発掘調査を担当する教育委員会事務局を訪れて、高久館跡の発掘調査資料(37ページの高久城跡と題する発掘調査報告書と発掘現場のカラー写真十数枚)を閲覧した。写真はコピー不可であったが37頁の埋蔵品資料を有料でコピーを入手して、高久城跡の位置を確認した。

 高久城は佐竹氏の一族である高久氏が天正年間に築いたという。高久氏は佐竹8代行義の6男馬淵小三郎景義が御前山村の野口城に移った後に、景義の子景有が更にこの地に拠り、高久を名乗るようになったものだという。
 高久城の位置は大山城の南2.5kmと近い場所にあるが、高久義景は大山義正と戦って敗れている。城址は東南西の三方が崖の台地上の先端部にあった。
(城里町教育委員会HPより)

龍角散のCMに出演している現職の佐竹知事は秋田藩主・佐竹家の分家、佐竹北家の21代当主。「龍角散」は江戸時代後期に今の秋田県美郷町六郷に住んでいた秋田藩の典医、藤井玄淵(げんえん)が調剤。3代目の正亭治(しょうていじ)が改良して12代藩主、義堯(よしたか)のぜんそくを治したのが始まりとされる。
佐竹家の分家である湯沢の佐竹南家の家人・剣術指南役の高久傳九郎が文化2年(1805年)に佐竹南家へ高久小三郎景義を祖とする高久氏系図を提出したと古文書に記録がある。(7月20日北海道の帰路に湯沢図書館にて湯沢市史の古文書複写)

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8月19日城里町教育委員会より入手(追記:宮寿丸の弟の義勝が高久氏を継いだと記録がある)

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茨木県城里町城里観光マップより城里町高久付近を拡大、赤いリンゴに囲まれたあたりが引用した下図の高久館の部分に該当する

Takakutyo

「余湖くんのホームページ」より借用した高久館跡

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撮影日8月19日 国道123号線と県道246号線に挟まれた、城里観光マップに赤い印を付けたあたり、詳細は上図のの上の道路を通り、1郭への登り口付近、1郭はお墓になっている、右の案内板の前は駐車スペース、ガードレールの右下は急な崖地となっている。正面の高台の森は上図のの部分。

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町村合併前の旧桂村が建てたと思われる高久館跡解説板

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説明板の位置から郭への登り口

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郭(写真左)と郭(写真右)の車の往来が少ない、堀址に作られた道路に見える

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郭は現在はネギ畑になっていた

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車が昇って来た進行方向からの記念撮影

現在は個人の私有地であるので敷地内には入らず、建物の遺構は一切ない、郭(曲輪)・土塁・空堀などの跡などは道路からの撮影だけとなった。今回は高久城址(高久館跡)の場所の確認程度の見学であった。

ウキペディアの日本の氏族 高久氏の解説

常陸国那珂郡高久邑発祥。清和源氏の一家系 河内源氏の一門新羅三郎義光を祖とする常陸源氏佐竹氏の支流。

佐竹常陸介行義の六男 馬渕館主 高久但馬守景義(馬渕小三郎)を祖とするという。嘉元年間(1303年-1305年)にその景義の嫡男 高久式部大輔義有が高久の地頭職となり現在の茨城県東茨城郡城里町高久字館のあたりに高久城を築き、代々、高久城主であった[1]家紋丸に剣片喰[2]

高久氏は長く佐竹一門としてその家中にあったが、佐竹氏に関東管領職上杉氏から佐竹義人が婿として入嗣となると、藤原氏という異姓からの養子縁組と家督相続に山入氏をはじめとする佐竹氏庶家が反発し、正長元年(1428年)、高久義本義景親子も宗家 佐竹氏に反旗を掲げて挙兵し、これに対して宗家側として兵を挙げた同じく佐竹一門の大山義道が高久城を攻めたため、高久城は落城、高久氏は一時滅亡の憂き目にあった。

高久氏の再興は義景の子 高久時義の代にようやく果たされ、再び佐竹家中に復帰した。以降、高久氏は宗家の被官としてその配下に組み込まれたが、天文4年(1535年)には高久義貞が同じく佐竹一門の部垂義元が宗家に反旗を挙げた部垂義元の乱に際して部垂側となって呼応し、佐竹義篤に平定され、高久城を落ち伸びたものの、のちに降伏することで赦免された。

しかし、奥羽の陸奥国守護職 伊達氏伊達稙宗と嫡男の晴宗親子の対立が発端となって勃発した天文の乱において、佐竹氏が晴宗方となって稙宗方の相馬顕胤と合戦に及ぶと、高久氏も高久義時、義貞・宮寿丸はそれぞれ討ち死にすることになった。

しかし、義貞には他に高久義明という子がおり御家は存続、高久義勝直勝と続き直勝の代に佐竹義宣出羽国秋田転封に随行し、以後、秋田藩士となる。なお、高久氏の一部はそのまま常陸国内に留まり、水戸藩に仕官する。なお、水戸藩の記録である『水府系纂』には高久彦大夫堅次の女が安島氏に嫁ぎ、水戸藩 安島彦之允信順となる旨、記載がある[3]。また秋田遅参の諸将の中に「高久景基」なる人物がいる。(ウキペディアの日本の氏族 高久氏)

 

 

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