七夕とカササギの回想録
野鳥撮影を始めて以来は七夕になるとカササギを思い出すが、70年以上昔の世田谷区立烏山小学校では七夕の時期が来ると担任の先生から学校近くの仙川に笹竹を取にいかされる、笹竹と一緒に1m以上もある青大将を持ってきて女の先生を驚かせてしまい廊下に立たされた記憶がある。笹竹のもう一つの思い出は調布町国領の都営住宅に住んでいた頃は、近くを流れる野川に入り笹竹で蛍を追う、ホタル狩りの思い出がある。満州からの引揚者寮の子供会でチョロチョロ踊るように動く「サトイモの葉の朝露を集めて墨をする」この墨で笹竹に吊るす五色の短冊に願いを書いた記憶があるが「書いた内容」までは思い出せないが、貧しい時代にガキ大将であった悪餓鬼の思い出は、豊かな自然環境とともにあった。それから60数年の時が流れ昔の鳥と書いて「鵲」を撮影する度に七夕とカササギの伝説が回想録になった。
七夕伝説のイラスト
織姫と彦星の七夕伝説で天の川の両岸にいる二人を渡らせる鵲の橋を掛けた鳥の名がカササギであったと知ったのは野鳥撮影の開始後に学んだことでした。
(七夕とカササギの伝説、無料のイラストより拝借)
2009年12月、国の特別史跡に指定された約2000年前の弥生時代の国内最大級の環濠集落跡、巨大な墳丘墓、幾重にもめぐらせた大小の環濠跡は集落が最盛期を迎える「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期とした吉野ヶ里歴史公園を見学してきました。ここの発屈調査が開始された当時は「邪馬台国時代のクニ」や「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の集落と同じ作り」と報道されてため全国的な有名な弥生時代の遺跡となっています。いつもの癖で公園の入り口で案内係のスタッフにここにはどのような野鳥がいますかとお聞きしたら、「最近は白いカチガラスがカラスに負けて以前よりも少なくなりあまり見られなくなった」と言われましたが白いカチガラスとはカササギと直感しました。
吉野ケ里遺跡の環濠集落で撮影した本場のカササギ
2009年12月15日吉野ケ里遺跡見学の前日に佐賀空港付近で撮影した本場のカチガラス
七夕の直前の2009年7月3日 苫小牧市内で撮影したカササギ
苫小牧市勇払2013年7月13日、日高本線勇払駅(無人駅)↓
勇払駅近辺は昔からの撮影ポイント、日高線の撮影を兼ねながらウトナイ湖から10kmをドライブして日高線の無人駅・勇払駅への発着時間を確認して、到着時間までのそれまではカササギの撮影時間である。
サギと名が付くがカラスの仲間の鵲(カササギ)、日本に入ってきたのは16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島に攻め入った鍋島藩主の鍋島直茂など九州北部の大名が「カシャカシャ」という鳴き声から勝ち勝ちと聞こえ縁起のいい鳥として持ち帰り、保護したカササギが逃げ出し、野生化して増えたといわれる。
佐賀県では県鳥、カチガラスと呼ばれ佐賀空港付近に「カササギ生息地が国の天然記念物に指定されている」そのカササギが何故か不思議なことに北海道でも生息し繁殖している。北九州から北海道の間には生息は聞かない。北海道のネット情報によれば1993年から室蘭市で繁殖が確認され、その後苫小牧市一帯で定着し、個体数も増加。最近の研究では、苫小牧の個体群はロシア極東が起源で、韓国・九州個体群とはDNA型が異なることが分かった。ただし、移入の経緯は不明。苫小牧市内で繁殖するカササギの個体群はロシア極東から渡ってきたらしい。1990年代後半から確認され、2000年代に増加したとみられる。道内の繁殖数は苫小牧が最も多く小生の撮影地は勇払駅周辺が多い。7月7日の七夕の前後に苫小牧から大洗のフェリー乗船前に年に一度だけ最後に撮影するのがカササギであった。
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