昔の記憶が蘇る博物館
関越自動車道 駒寄スマートICより約10分、水澤観世音(水澤寺)と門前の十数軒の水沢うどん店が並ぶ道中のうどん街道の5分程手前にある「伊香保 おもちゃと人形 自動車博物館」は名前どおり、おもちゃと人形とさまざまな自動車の展示が楽しめる博物館です。就職した頃の昭和30~40年代の街並みを再現した場所では、レトロ感あふれる昔の宣伝ポスターやアイドルのレコードや昔のおもちゃなど懐かしい思いが蘇る。「自動車博物館」では昭和の車と国内外の軽からスポーツカーまでが展示をしてあり、60数年前の昭和の記憶が蘇りました。就職した当時の東横線中目黒駅プラットホームは隙間が開いて下が見える程の貧弱な木製の階段であったのを最初に思い出したこれが昭和の記憶。東横線中目黒駅から9分の本社まで山手通りを五反田方面に歩いた風景の記憶にはトロリーバスや中目黒交差点は、築地ー中目黒間の都電の終点であった。展示物を見て入社当時の社有車のバイク・スクーター・軽三輪のミゼット・軽四輪トラックのスバルサンバーなど(普通車はまだ普通免許の取得前であった)取引先や外注先巡回で自分の軽自動免許で運転した車にまつわる若い頃の思い出が次々と時にはぼんやりと蘇ってくる。それは走馬灯がよぎるような光景でもあった。
駐車場の角に軽四消防車にクマのぬいぐるみのテデイベアが座る
入口脇にも車の中にもテデイベアが二匹が座る
おもちゃと人形博物館
昭和レトロのお店と各種宣伝ポスター
レトロな宣伝ポスター
宝酒造のタカラ生ビール、1957年(昭和32)誕生~1967年(昭和42)に撤退しているがビールは25歳から飲み始めたので、一度は飲んでみたかったビールとなった。
サッポロビールの本社ビルは恵比寿ガーデンプレイス内にある
最初に晩酌で飲んだビールはアサヒスタイニー、銘柄を決めて飲むようになったのは、コクとキレのアサヒスーパードライが出現した40代の初め頃で20年間一途に飲んだ。スーパードライから新ジャンル/第三のビールに変更したのは、時代劇「眠狂四郎」役のニヒルが似合う田村正和の「不覚にも、間違いました」のCMを見てから愛飲している。サッポロ 麦とホップの発売開始した2008年頃から15年目をむかえる。CMキャラクターが何回も交代しても、田村正和が亡くなられた今でもサッポロの「麦とホップ」は毎日・毎晩飲み続けている。最近は外出の機会が少なくなり昼間でも飲むようになって仕舞った。
就職した頃には渋谷駅付近にもスマートボール屋があった、パチンコよりもこちらの方が好きで座ってのんびりゴロゴロ転がした記憶がある。
1963年力道山の突然の死。大相撲から転向した力道山は昭和の日本を代表するプロレスラーであった。怖そうなの外国人レスラーを倒し日本人に勇気を与えた。
昭和の人気漫才コンビ、ドリフターズ、巨人・長嶋と王のON砲、力道山・アントニオ猪木などのプロレスラーなどのTVの人気者のブロマイドがあふれている
国産二輪車の名門であった本社の地元にあった目黒製作所のメグロS3、1964年(昭和39)に川崎航空工業に吸収合併されたのでブランド名がカワサキになった。この頃の社用で乗っていたのは本田技研の最大排気量250ccのドリーム号C72であった。20歳の時に借りたCB250で事故を起こし怪我をしてから普通免許を取る機会となった
所属長の品質管理課長さんは当時はスクーターに乗っていた
1958年(昭和33年)工業高校3年の時に誕生したスバル360、リアエンジン・リアドライブの「大人4人が乗れる初めての軽自動車」。就職した翌年から軽四輪トラック・スバルサンバーは自動二輪の免許で運転が出来たのでこのスバルサンバーで四輪車の練習をして教習所に行かずに普通免許を取得出来た。思い出の軽四のスバルサンバーはスバル360のエンジンとシャーシが原型であった。
ミゼットはダイハツ工業が1957年(昭和32年)から1972年(昭和47年)まで生産・販売していた軽自動車規格の三輪自動車である。写真はドア付き2座丸ハンドルであるが、入社当時(昭和34年)の社有車の軽三輪ミゼットは 当初の単座バーハンドルであった、軽自二の免許で乗れるので雨の日はバイクよりも人気があった。
前2輪後1輪の三輪車のメッサーシュミットは中目黒の交差点で時々見かけた車
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