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2022年7月

2022年7月31日 (日)

日本100名城No.96飫肥城

 日本100名城No.96飫肥城。九州の小京都と呼ばれる飫肥城城下町の 飫肥観光駐車場を利用して伊東藩五万一千石の飫肥城跡を攻城を開始する。大手門から飫肥城歴史資料館・松尾丸、豫章館・旧本丸と散策。旧本丸の虎口と飫肥杉の苔むした景観が素晴らしい。天守閣は無かった飫肥城跡。

登城日7月17日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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飫肥城の御城印、左の朱色の飫肥城印は添付されていたものを御城印に貼付した。伊東家の家紋は庵木瓜の紋と月に星九曜の紋。

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伊東家は鎌倉時代より伊豆国からの武家

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飫肥城観光駐車場に停めて飫肥城大手門に向かい登城開始、大手門以外は有料施設が多い①~④の湯量施設のチケットを購入して探訪する。

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飫肥城大手門

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大手門の説明、正徳三年の礎石の説明もある

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大手門の内側にある正徳三年の礎石の碑文

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大手門の内側

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大手門の内側

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歴史資料館へ向かう

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歴史資料館の石段と石垣

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飫肥城歴史資料館玄関

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伊東家に関わる展示品の一部

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飫肥藩のお殿様ファミリーベスト9

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旧本丸の虎口

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飫肥城旧本丸の説明

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旧本丸

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旧本丸の飫肥杉

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旧本丸の飫肥杉

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旧本丸北虎口の門(復元)

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北虎口門から旧本丸への石段

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松尾丸の玄関

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松尾丸の玄関

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松尾丸、四つの角にあるしあわせ杉、中心に立つと幸せになるとか

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大手門西の土塁

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豫章館

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豫章館の飾り

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豫章館の七夕飾り

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小村寿太郎記念館に飫肥城跡に関する資料はなしで省略

 

 

 

 

2022年7月30日 (土)

日本100名城No.97鹿児島城

 日本100名城No.97鹿児島城。鹿児島城跡は,初代薩摩藩主島津家久が,関ヶ原の合戦直後の慶長6(1601)年頃に築城を始めた島津氏の居城です。城の正式名称は「鹿児島城」で,「鶴丸城」の呼称は,背後の城山にちなんで呼ばれるようになりました。鹿児島城跡では1965年(昭和40年)の57年前の九州一周新婚旅行で見慣れた上野公園の犬連れの西郷隆盛像とは異なる軍服姿の西郷隆盛像を異様に感じた想いが甦りました。

登城日7月16日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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鹿児島城(鶴丸)城跡 総合案内

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鹿児島(鶴丸)城跡の本丸跡に建てられた鹿児島県歴史資料センター黎明館の駐車場に車を入れて黎明館の総合案内でスタンプを完了、鹿児島城の御城印は販売しておりません。館内の一部を見学して復元した御楼門から西郷隆盛像まで探訪する。

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御角櫓跡

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庭園跡
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復元した御楼門の鯱瓦
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御楼門の鬼瓦
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天璋院篤姫の像
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天璋院篤姫の碑文

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御楼門前の桝形の石垣

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西南戦争の傷跡、砲弾の跡が無残にも無数に残る

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史跡 鶴丸城跡の石碑と石橋と復元した御楼門

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鶴丸城の歴史

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御楼門・石橋・堀の蓮

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石垣と堀

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算木積み

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亀甲積み

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金場取残積み

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鹿児島城の石文化 三通りの石積み

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最後に300m左の西郷隆盛銅像へ向かう

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西郷隆盛像

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最後に西郷隆盛像 三枚の写真で鹿児島城跡(鶴丸城)を後にして宮崎県の飫肥城に向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月29日 (金)

日本100名城No.93人吉城

 日本100名城No.93人吉城。国の史跡に指定されている人吉城跡は、清流球磨川のほとりにあります。鎌倉時代から球磨地方を治めた相良氏歴代の居城として、670年の長い歴史があります。遺構としては、はね出し石垣と井戸のある地下室の遺構が珍しいと思います。

登城日7月16日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

日本三大急流のひとつに数えられる球磨川に面した人吉城の総曲輪に復元された角櫓・長塀と、後方の小高い丘に残る石垣群は「高御城(たかおしろ)」と呼ばれた本丸・二の丸・三の丸などの本城(内城)が築かれている詰城部分。

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御館跡庭園 城主相良氏の居宅が置かれて藩政の中心の場所

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御館(みたち)跡庭園の説明

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散歩する人に人吉城の一番の見どころを尋ねると「はね出し石垣」と答えたので車で渡って来た水の手橋に戻り、小高い山の上に在る本丸・二の丸・三の丸などの手前、球磨川沿いの石垣・瓦葺白壁の方向から攻城開始。

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左奥の舟着場と白壁とはね出し石垣

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船着場と御下門付近

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はね出し石垣、石垣の上部に石材が突きだす珍しい石垣

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はね出し石垣(武者返し)ヨーロッパの築城技術と言われる

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史跡 人吉城跡 説明板

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人吉歴史館は二年前の洪水被害で大井戸遺構は閉館中であった

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閉館中のガラス窓からの大井戸遺構、ガラスの反射が邪魔する

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大井戸遺構の説明板の写真

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大井戸遺構の後方、大台所跡・御厩跡と思われる跡

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大台所跡・御厩跡の説明板

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後口馬場の井戸跡、上に見える人吉城歴史館は二年前の水害以降は閉館中で地下室にある謎の石造りの遺構は見学できませんでした。

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後口馬場の井戸跡 説明板

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下井戸跡

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大手門跡と大手門横長櫓(多門櫓)城内より

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大手門跡

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大手門横長櫓(多門櫓) 球磨川の支流・胸川の対岸より撮影

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大手門横長櫓(多門櫓)と隅櫓の間を繋ぐ長塀は瓦葺漆喰白壁の下部は平瓦を張り付けた海鼠壁

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球磨川と胸川の合流付近、復元した隅櫓(角櫓)

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球磨川との合流点から胸川沿いに隅櫓と上流は横長櫓(多門櫓)

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人吉城は中世城郭の特色を色濃く残す、相良氏歴代の居城です。

はね出し石垣は五稜郭にもあるとの情報で、日本100名城No.2西洋の技術で造られた五稜郭を見直すと確かに石垣の上部がはね出しの石が見られました。桜ばかり気にしていましたが西洋の技術であることを確認しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月28日 (木)

日本100名城No.92熊本城

 日本100名城No.92熊本城。熊本城は慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じた、名城熊本城が完成します。以後、熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台となっていきます。二代目の加藤忠広から寛永9年(1632)に細川忠利が藩主として入城、細川氏、宮本武蔵、谷干城など歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げる熊本城400年の歴史がある。廃藩置県後、熊本城には鎮西鎮台が置かれ、明治10(1877)年西南戦争の戦地となり、開戦直前の火災により天守・本丸御殿一帯が焼失してしまいます。第二次世界大戦後には市民をはじめ天守再建の気運が高まり、昭和35(1960)年に大小天守が鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元されました。(熊本城公式HP)
九州入りした7月13日から曇り空と小雨に見舞われたがとうとう、九州地区で一番期待した災害から復興した熊本城は雨の中であった。昭和35年に大小天守閣が復元された5年後に新婚旅行で初めて熊本城を観光したのは、57年前の東京オリンピックの翌年、昭和40年(1965)青空の下に大小の天守が輝いていた。しかし、雨天は傘をさしながら城郭を隅から隅まで攻城する気力を殺いでしまう。

登城日7月15日 雨天

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加藤清正の武将印、熊本城築城主である加藤清正の名前・家紋・花押・座右の銘が入った「武将印」。 加藤家の家紋は「蛇の目」と「桔梗」紋、御城印は熊本城を築城した加藤氏の家紋「蛇の目紋」(左)と加藤氏の後に城主となった細川氏の家紋「九曜紋」(右)があしらわれたデザインです。

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加藤神社は加藤清正を主神とする神社で、土木建築や勝運にご利益があるとされています。正式名称は錦山神社(にしきやまじんじゃ)ですが、一般に加藤神社と呼ばれています。清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があった日蓮宗の名刹・本妙寺が、1871年(明治4年)の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺としてわけられ、社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社として建立されました。

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雨天の大小天守閣 画面の左上はビニール傘の骨が入る

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雨天の平左衛門丸

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横手五郎の首掛石

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熊本城跡MAP

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天守閣復旧のあゆみ 説明板

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天守閣入口は右の小天守、出口は左の大天守

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雨天の熊本城おもてなし武将隊も傘をさしてマスク姿

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小天守の入口への通路を傘をさして急ぐ

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6F展望フロアまで上るエレベーターで1階ごとに上がる

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熊本城天守と主な天守との比較

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天守の模型

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天守の飾り、鯱瓦

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二代目城主 加藤忠広

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6F展望 南 外の景色は雨天で真っ白

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6F 西の景色の写真

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西方面の雨天の実写

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東の写真 実写は真っ白な空間でした

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北の写真 実写は撮れませんでした

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熊本藩主は寛永9年(1632)加藤家から細川家にかわる、6Fからエレベーターで1階に降りて天守閣探訪を終了

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南大手門 雨の中近づく元気なし、駐車場へ戻る

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城内の加藤神社へ参拝

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加藤神社境内からの熊本城天守

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加藤神社境内の天守閣の写真撮影スポット

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撮影スポットからの天守閣が最後の写真となる

それなりに元気で歩いた七十代から八十代になって二年、年齢を重ねるにつれて、歩行機能が衰えてきた。歩幅が狭くなり、足を上げる速度も遅くなり、歩行速度や歩行距離が低下したと自覚している。雨天は更に傘をさし、ぶら下げたカメラを濡らさないことも必要で攻城する範囲も狭くなる。青空の熊本城を撮りたかった!

 

 

 

 

2022年7月27日 (水)

日本100名城No.91島原城

 日本100名城No.91島原城。島原城は1618(元和4)年から、松倉豊後守重政が4年ないし7年の歳月をかけて築いたものです。五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でした。それ以来約250年間、4氏19代の居城として、数多くの物語が生まれました。

登城日7月15日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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松倉家の家紋「九曜紋」のほか、高力家の家紋「四方木瓜」、戸田家の家紋「六つ星」、深溝松平家の家紋「重ね扇」と歴代城主の家紋がデザインされている。

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島原城は復興天守閣の下まで駐車できる唯一の城、早朝は他車は見えない、AM7:30に到着するが9時からの開城時間まで天守閣の周囲を攻城してみた。

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島原城案内図

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西の三重櫓

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お城の鐘

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島原城御馬見所

 

 

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地元の北村西望先生の彫像と巽の櫓(西望記念館)

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天草四郎と巽の櫓(西望記念館)

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巽の櫓と彫像

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狭間、後方は丑寅の櫓

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丑寅の櫓の石垣と内堀

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丑寅の櫓(民具資料館)

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島原城天守閣外壁等改修工事・令和4年7月4日~5年2月28日

「島原城」の工事について、 本市のシンボルである島原城は2024年(令和6年)に築城400年を迎えることから、島原城及び周辺の整備を進めております。 その事業の一環として、島原城天守閣外壁等改修工事を実施します。期間中、市民及び観光客の皆様方には、騒音や工事車両等においてご迷惑をお掛けしますが、ご理解とご協力をお願いします。 ※なお、期間中も島原城は、天守閣や敷地内櫓等、通常通り開館しております。9時より天守閣へ入城

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天草四郎 陣中旗 天守閣はキリシタン資料館

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天守閣二階

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天守閣三階

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天守閣四階

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天守閣5階

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天守からの眺望(生憎の曇り空)東

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天守 西の眺望 普賢岳方面

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天守からの南の眺望

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天守から北の眺望 城の縄張りが分かる

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下城後の島原城天守閣

 

 

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抜け穴伝説の石垣

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抜け穴伝説の説明

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根毛穴伝説の石垣が白く見える

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石垣と内堀

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 三重の瓦葺白壁の狭間と石垣と堀の堅固な島原城を曇り空の中で7:30~9:30まで二時間の攻城でした。

 

2022年7月26日 (火)

日本100名城No.90平戸城

 日本100名城No.90平戸城。 平戸城(ひらどじょう)は、肥前国松浦郡平戸(現・長崎県平戸市)にあった城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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御城印は松浦家の家紋である梶の葉に、堂々とした平戸城の文字。書道日本一の賞を12回も受賞されている、樋口友紀(晟瑤)さんの文字。

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乾櫓

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北虎口門(現存する遺構)

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天守閣への石段

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狸櫓(現存する遺構)

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天守閣へ登城する石段

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天守閣

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天守閣入口

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1718年再築城時の「鯱瓦」と松浦家家紋「梶の葉」紋額

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展示品の甲冑

 

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天守閣5Fからの見奏櫓

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懐柔櫓

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絶景の5F

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生憎の曇り空、中央の赤い橋は平戸大橋

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天守からの絶景、赤い屋根の対岸の白い建物はオランダ商館

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天守からの絶景は眼下の平戸港

 

2022年7月25日 (月)

日本100名城No.89佐賀城

  日本100名城No.89佐賀城は、「葉隠:はがくれ」を生んだ鍋島氏の城、慶長13年(1608)戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を、鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築城した。四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城。

登城日7月14日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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佐賀城の御城印、鍋島氏の家紋は「鍋島花杏葉」

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佐賀城公園本丸歴史館周辺図

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鯱の門左端の銅像は鍋島藩十代藩主鍋島直正公

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続櫓と鯱の門

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本丸内からの鯱の門

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天守台石垣

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天守台石垣

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天守台への石段

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天守台跡

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天守台の石垣

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南濠の石垣

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南濠

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幅の広い南濠

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本丸歴史館玄関

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本丸歴史館玄関前の24ポンドカノン砲(複製)

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佐賀藩10代藩主鍋島直正の鋳造したカノン砲の来歴

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本丸歴史館(鍋島直正の再建した佐賀城本丸御殿の復元)案内

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北廊下

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広間の一部

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鍋島侍の生き方を説く「葉隠」の内容

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鍋島直正姻戚相関図

10代藩主鍋島直正公の功績と葉隠を生んだ鍋島氏の城跡でした。

2022年7月24日 (日)

日本100名城No.87名護屋城

 日本100名城No.87名護屋城。天下統一を果たした豊臣秀吉は、大陸出兵を目指すようになった。その足掛かりとして朝鮮半島に近い東松浦半島北端に築かれたのが、名護屋城である。全国の諸大名も陣屋を築いたが秀吉の死によって文禄・慶長の役が終わると名護屋城は廃城になった。

登城日7月14日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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豊臣秀吉好みの金色の御城印は五七桐紋、この御城印は名護屋城跡遊撃丸出土の五七桐紋飾瓦の拓本。右の朱色の御城印も同様です。

 

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名護屋城跡と豊臣秀吉の朝鮮出兵の文禄・慶長の役の説明

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名護屋城跡 是より攻城開始

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東出丸跡

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大手口跡

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水手郭口跡

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三の丸の馬場

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本丸大手

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本丸

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本丸の石碑

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本丸の説明

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月斗の句碑

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月斗の句の説明 太閤が 睨みし海の 霞かな

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天守台跡 360度の大パノラマ

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名護屋城天守台跡の石碑

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天守台跡からの玄界灘の眺望

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各大名の陣跡の説明図 佐竹義宜の陣跡も中央付近に見える

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天守台跡 左横の本丸多聞櫓跡

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搦手口

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太閤道

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名護屋城跡博物館内の黄金の茶室(金ノ御座敷)、三畳の茶室の柱・敷居・鴨居や壁・障子の骨、板も全て金。秀吉は名護屋城に運ばせ茶会を催した。

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黄金の茶道具、台子や風炉・水指・茶碗・柄杓などの茶道具はいずれも金 

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派手好みの豊臣秀吉の金の茶室と茶道具の説明

秀吉の死後は文禄・慶長の役が終了して名護屋城も廃城となった。

 

 

 

 

2022年7月23日 (土)

日本100名城No.88吉野ヶ里

 日本100名城No.88吉野ヶ里は、日本の城の起源とされる弥生時代の環濠集落、ここは13年前の2009年12月に吉野ヶ里遺跡を含む吉野ヶ里公園全体を観光と野鳥撮影で、3~4回ブログに掲載済であるが今回は城の起源とされる外敵に備えて集落の周囲に二重三重に濠や柵を巡らした「城」の祖型である環濠集落の二ヵ所・南内郭と北内郭を探訪してスタンプラリーを行った。

撮影日7月13日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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「城」の祖型と呼ばれる南内郭と北内郭の環濠集落

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1400年前の大野城跡よりも更に古代の吉野ケ里は、1800年前の「城」の祖型といわれる

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南内郭の鳥居

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鳥居の右横に逆茂木・濠・木柵

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左の逆茂木・濠・木柵

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南内郭の内部に四ヶ所の物見やぐら

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南の守りの説明図

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南内郭の物見やぐら

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南内郭の鳥居はサントリー

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北内郭などの説明板

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北内郭の環濠集落へ向かう

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北内郭(王の宮殿)の説明板 まつりごとを司る重要な場所

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北内郭の鳥居はニワトリ、近頃はニトリ、二重三重の柵と濠で防備

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主祭殿・物見やぐらの内柵と外濠と外柵

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主祭殿・物見やぐらの柵と内濠

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シイタケ栽培ではありません、逆茂木です

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逆茂木(乱杭)の説明板

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主祭殿

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主祭殿の説明板

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斎殿

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斎殿の説明板

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北内郭の物見やぐら

「城」の祖型といわれる1800年前の北内郭の環濠施設を外敵から守る城柵と濠と逆茂木などの復元された施設でした。

2022年7月22日 (金)

日本100名城No.86大野城

 日本100名城No.86大野城。大野城とは、大宰府政庁跡の北側背後に聳える四王寺山に築かれた古代山城である。城は亡命百済人の指導による朝鮮半島の築城技法によって造られた。 百済復興をかけ、663年に朝鮮半島で起こった白村江の戦いにおいて大和朝廷は、新羅・唐の連合軍に敗れた。連合軍が日本に来襲することを恐れた大和朝廷は、朝鮮半島から近い九州を中心に様々な防衛施設をつくった。そのうちの太宰府の北側の守りとして四王寺山(大野山)に築かれたのが朝鮮式山城の大野城である。

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特別史跡 大野城跡 大野城市教育委員会 パンフレット

登城日7月13日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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1350年前の古代山城

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新羅からの来襲を防ぐ防衛網の一つ

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最初の遺構は道路の右側に現れた百閒石垣

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石垣の下に排水口

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百閒石垣の標識付近からの百閒石垣(百閒:180mの石垣)

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百閒石垣の説明

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焼米ヶ原 大野城跡と四王寺跡説明板

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焼米ヶ原 大野城跡四王寺跡の石碑

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尾花礎石群

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尾花礎石群

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大野城跡 増長天地区の説明板

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増長天地区の高床建物跡

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増長天地区高床建物跡・四ヵ所と土盛・石垣・右奥に鏡ヶ池

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手前の二ヵ所、石垣の奥二ヵ所の四ヵ所の高床建物(倉庫)跡

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太宰府口城門 案内標

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太宰府口城門跡

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七世紀に造られた百閒石垣・焼米ヶ原・尾花礎石群・増長天地区・太宰府口城門跡などの古代朝鮮式山城の大野城跡でした。

 

 

2022年7月20日 (水)

日本100名城NO.85福岡城

 日本100名城No.85福岡城は関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康より黒田孝高・よしたか(官兵衛・隠居後は如水)と長政・ながまさ(福岡藩初代藩主)親子に筑前国50万石(後に52万石)が与えられた。長政が慶長6年(1601)より福岡城の築城工事を始めて、明治まで黒田氏の居城であった。

2018年5月から始めた日本100名城スタンプラリーも今年で5年を経過するもまだ未完でです。今年の5月15日~22日に、山陰と山陽の中国地方5県の日本100名城の13城を巡り、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)を尾道から四国入りして今治城に直行、登城したのは5月23日であった。愛媛県の今治城⇒松山城⇒湯築城⇒大洲城⇒宇和島城の5城を巡り、高知県の高知城⇒徳島県の徳島城⇒5月26日高松城と丸亀城の四国の日本100名城の九城を攻城して中国と四国の22城のスタンプを完了した。

7月11日に4回目のワクチン注射した翌日の12日より横浜を出発して九州を目指した。横浜から約1100㎞の福岡県の福岡城➡大野城➡吉野ケ里➡名護屋城➡佐賀城➡平戸城➡島原城➡熊本城➡人吉城➡鹿児島城➡飫肥城➡岡城➡大分府内城の九州七県日本100名城13城を巡るスタンプラリーを完了して門司を14時に出発して約千キロ、雨の中を徹夜ドライブして午前4時にクタクタで帰宅した。

今回八日間の走行距離3558km、前回の13日間の中国・四国100名城巡り3553kmとほぼ同じ走行距離であった。因みにJR最北端・稚内駅 → JR最南端・西大山駅の距離3127kmよりも400Km以上も長かった。

登城日7月13日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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御城印は黒田家の家紋と藩祖の黒田孝高(官兵衛)の花押、築城者の初代藩主黒田長政の花押

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停めた駐車場の後方は福岡城の石垣だった

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東御門跡

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烽火台跡

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扇坂御門跡

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二の丸跡

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本丸跡

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天守台方向へ

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裏御門跡

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武具蔵跡

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埋門跡 上は天守台跡への階段

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天守台跡の敷石

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天守台跡から東方向

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天守台からの西方向

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小・中天守台跡

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月見櫓跡

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御時櫓跡

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扇坂御門跡

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潮見櫓と下之橋御門跡

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潮見櫓

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下之橋御門の濠

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福岡城むかし探訪館 午前8時は開館前9時よりスタンプ可能

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むかし探訪館の内部の一部、軍師官兵衛の朱塗合子形兜、9時に開館したのでスタンプを完了。横浜を出発して最初の日本100名城、福岡城跡に午前6:40石垣前の駐車場に停めてから二時間半の朝駆けの攻城でした。

 

 

 

2022年7月19日 (火)

徳島中央公園SL68692

 徳島中央公園SL 68692 駅舎のような上屋のあるホームに保存条件が良い静態保存、蒸気機関車の前面には鉄棒と金網が取り付けられて登れないように無骨に保護されている。キャブ窓とキャブは立ち入り出来ないように鉄柵で保護されている。

撮影日2022年5月25日 

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不格好なフロント周り

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後照灯は破損

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窓ガラスなし、代わりに鉄柵

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赤色と青色でハンドル類が配色されている

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キャブ内も立入禁止の鉄柵

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駅舎のような良好な環境で保存されているが保存状態は良くない

2022年7月18日 (月)

比島交通安全センター C58 335

 比島交通安全こどもセンターC58形蒸気機関車 C58 335。 高知城登城前に立ち寄りました。屋根付き柵ナシ保存の塗装などの定期整備が無いようです。保存状態が悪い見本のようです。

撮影日2022年5月25日

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屋根アリ柵ナシの保存 前照灯が破損、煙室扉ハンドルが無い

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こども用なのか見学通路が蒸気機関車の横に設置してある

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キャビ横からデフの手前までに通路が取り付けてある

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赤ナンプレ 昭和18年川崎車輛製

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見学通路?の上からの撮影

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無煙化装置付近もかなり塗装が剥げていました

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塗装の剥げと錆が目立つ

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機関士側

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圧力計などが欠損している

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罐の塗装が剥げている

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後照灯も破損していました

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通路は両サイドにあります

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あらゆる箇所が塗装が剥げています

屋根付き保存にも関わらず長期間塗装をしていないのか、それとも子供の遊び場になっているので塗装などがこすれて剥げてしまうのか真相は不明です。

 

 

2022年7月16日 (土)

宇和島駅前宇和島鉄道1号車

 宇和島駅前宇和島鉄道1号車の復元 宇和島城築城400年記念の設置、和霊公園直ぐ近くの駅前展示

撮影日5月24日

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ここにも和霊公園と同じく地元の詩人の鉄道唱歌

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宇和島駅前宇和島鉄道1号車の復元車

 

2022年7月14日 (木)

宇和島市和霊公園 C12 259

 宇和島市和霊公園 C12 259 。派手な衣装で伊達男の語源となった奥州仙台藩主、伊達政宗の嫡子の秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城した宇和島城に登城後に和霊公園に立ち寄る。

撮影日2022年5月24日

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地元の出身で鉄道唱歌で有名な詩人。大和田建樹の碑

「汽車ポッポの愛称で親しまれたこの機関車は、昭和16年から南予の山野をかけめぐり昭和43年9月末その勇姿を消すことになりました。その間国鉄宇和島線の沿線はもとより南予全域の産業、教育、文化等の交流に大きな役割をはたしました。 特に「汽笛一声新橋を」の鉄道唱歌で全国にその名を知られている詩人大和田建樹先生の生誕地宇和島として、これを機会に永久保存をはかるため日本国有鉄道にお願いし保管するもので、皆さんとともになつかしい在りし日の姿をいつまでもしのびたいと思います。
 昭和44年11月3日 宇和島市長 山本友一 」
と書かれています。

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宇和島市和霊公園 

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誕生は同じ昭和15年、来歴は宇和島線(現予土線)の生え抜き。最終配置は、宇和島機関区。昭和43年12月に退役

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屋根付きホーム付きの保存です、前照灯はシールドビーム

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後照灯もシールドビームに交換されていますが好感しません

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キャビ内も入れますが計器・備品は無くなっています

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計器類圧力計と配管などが派手な黄色一色です、異様な感じです

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焚口戸は無事でした(元の配色)派手好みは伊達の流れか?

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前も後ろも横も黄色の派手な色が目立つ

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派手な配色ですが保存状態が良いので救われました

 

 

2022年7月12日 (火)

王子の森公園SL 79642号機

 八幡浜市王子の森公園 SL 79642号機は、SL保存のボランティアさんによる整備の日でした、罐の上やキャビ内などを電動サンダーでバフ磨きなどのSL整備の様子を見るチャンスに遭遇して、王子の森公園でSLが大切に保存されている様子を見学出来ました。

2022年5月24日

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キャビ内部に脚立?銅パイプのピカピカに配管を磨いていました

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罐の上に扇風機、地元のボランティアさんが磨いていました

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整備の最中のようでした

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ナンプレなどをマスキングして整備中でした

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磨いてあとはピカピカ、罐の配管も磨いていました

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罐の上に扇風機を置いて整備作業中

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磨いた直後は新品のように見えます

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焚口戸も塗り直したように見えました

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地元でSL保存のボランティア活動をされている有名な方です

熱心なボランティアさんの活動で保存されている蒸気機関車79642号機でした。

 

 

2022年7月10日 (日)

内子駅前SL C12 23

 内子駅前SL C12 231 愛称シーコロ 地元で活躍した蒸気機関車を日本100名城の大洲城に登城前に訪問

撮影日2022年5月24AM6時 人気のない快晴の早朝

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内子線(うちこせん)は、愛媛県大洲市の新谷駅から愛媛県喜多郡内子町の内子駅に至る四国旅客鉄道(JR四国)の鉄道路線(地方交通線)である。
(ウィキペディア内子線)

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内子駅前広場に高架の駅舎に対面して屋根なし野天の静態保存

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後方からの朝日、早朝の逆光の中 ナンプレも見難い

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朝陽を遮った写真ではナンプレも明瞭、後方に駅名標

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C12231の後方に錆びた古い駅名標

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英文並記の古い説明 ここに設置する前からの銘板

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右上部分を拡大 愛称は「シーコロ」と呼ばれていた・・・

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左下の履歴を拡大 内子線で活躍して昭和45年に退役・・・

昭和14年に日本車輌名古屋工場にて製造され、最後は宇和島機関区で走ってから廃車になった。

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露天保存により雨垂れ汚れが目立つようです

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朝日に照らされた後尾、高架ホームの下に内子駅駅舎

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近付くと雨垂れ汚れが目立ちます (´;ω;`)ウッ…

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内子駅前に高架ホームに正面を向いて昭和の時代に地元で活躍したシーコロの雄姿は朝日の中で輝いていた。

2022年7月 9日 (土)

四国鉄道文化館南館 C57 44

  四国の日本100名城の次は四国の静態保存SLの訪問旅です。
今回は伊予西条駅の上下線をまたいで北館と南館の四国鉄道文化館。その南館のSL C57 44号車 。昭
和12年(1937年)から昭和22年(1947年)までの間に201両が量産された高性能な旅客用蒸気機関車です。美しくスマートなたたずまいで、ファンからは「貴婦人」の愛称で呼ばれています。昭和50年(1975年)12月14日に国鉄最後の旅客列車をけん引した蒸気機関車(C57 135号機)としても知られています。展示している「44号機」車両は昭和13年(1938年)3月30日に三菱重工神戸造船所で製造された1次型で、北海道の岩見沢第一機関区において、38・57・135・144号機と共に国鉄で最後まで活躍したC57のうちの1両です。この車両は、旧西条市長や国鉄総裁を歴任された十河信二氏の雅号にちなみ「春雷号」と呼ばれ、長く西条市市民公園で親しまれ保存されていましたが、当館建設を機に移設し、末永く保存されることとなりました。(四国鉄道文化館HP)

撮影日2022年5月23日

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北館 十河信二氏像 十河 信二(そごう しんじ)日本の鉄道官僚、政治家愛媛県西条市(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第一号。(ウイキペディア)

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北館 初代0系新幹線とDF50形ディーゼル機関車1号機

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南館前 フリーゲージトレイン

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南館内 ”愛称”貴婦人と呼ばれるC57が鎮座していました 

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C57 44 

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C57 44 キャビ内部

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石炭とシャベル

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圧力計・水位計などの計器類

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焚口戸

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機関士側

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左隣はDF10形ディーゼル機

C57 44号機の保存状態は鉄道文化館の屋内展示とあって極上。

2022年7月 8日 (金)

日本100名城No.78丸亀城

 日本100名城No.78丸亀城 。5月15日~22日に、山陰と山陽の中国地方5県の日本100名城を12城を巡り、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)を尾道から入り今治北IC降りて今治城に直行、登城したのは5月23日であった。愛媛県の5城、今治城⇒松山城⇒湯築城⇒大洲城⇒宇和島城を巡り、5月25日に高知県の高知城⇒徳島県の徳島城⇒5月26日AM10時に香川県の高松城を下城してから2時間後に香川県の丸亀城へ登城した。三日間で四国四県の九ヵ所の日本100名城をスタンプラリーを完遂してきました。

登城日5月26日

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日本100名城に行こう 公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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丸亀城御城印の裏面

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丸亀城の御城印は最後の城主である京極高和の家紋 四つ目結紋、右は丸亀城天守入場券

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国指定史跡丸亀城跡案内図 この案内図を見て登城

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玄関先御門

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大手一の門

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大手二の門 付近の内濠と石垣

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大手二の門 遠くに天守が見える

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大手桝形

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三の丸石垣 美しい扇の勾配

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高浜虚子の句碑

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見返り坂 この坂を上がるだけで草臥れました

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三の丸

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三の丸

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三の丸石垣 扇の勾配

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月見櫓跡

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二の丸

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天守 三重三階

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天守への階段

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大砲狭間

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三重三階の天守内部

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天守からの眺望

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天守三階の階段

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大手一の門 無料公開中でした 登城する時に入城した門

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大手一の門(太鼓門)

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大手一の門の内部 鯱瓦

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大手一の門(太鼓門)の内部 石落し

扇の勾配と呼ばれる石垣の名城 丸亀城のスタンプラリーでした

2022年7月 7日 (木)

日本100名城No.77高松城

 日本100名城No.77高松城  4年前の2018年(平成30年)4月10日で開通30周年を迎えた日にサンライズ瀬戸に乗車して、瀬戸大橋開通30周年の記念日に高松に着きました。高松駅から徒歩5分の高松港からオリーブと24の瞳の小豆島へ観光旅行の往復に海城の高松城跡・月見櫓を波の上から眺めました。今回は日本100名城スタンプラリーだけが目的で高松城に登城しました。

登城日5月26日

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日本100名城に行こう 公式スタンプ帳Img016-2_20220706134301

主な遺構と見どころ

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玉藻公園管理事務所のリーフレット、月見櫓・水手御門・渡櫓

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御城印は松平家の丸に三つ葉葵

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史跡 高松城跡・玉藻公園 西門入口、この手前方面はJR高松駅

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高松城跡・玉藻公園 園内案内図 まず初めに天守台跡へ

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鞘橋を渡り本丸天守台跡へ この鞘橋だけが本丸に接続

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鞘橋からの内堀と琴電高松築港駅 _dsc6260-2

本丸・天守台跡

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天守台跡地下1階

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高松城天守 地下1階の発見 説明図

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天守台跡から左に見えるのは月見櫓

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天守台跡展望デッキからの渡って来た鞘橋と内堀

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堀と海と水門の方向 真鯛がスイスイ泳ぐ海水

 

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高松城の歴史

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艮櫓の方向

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知久櫓跡の櫓台

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鉄門(くろがねもん)

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城内からの月見櫓・水手御門(藩主が船で出入りする門)渡櫓

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月見櫓

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月見櫓

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高松城跡・玉藻公園 案内図

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披雲閣庭園

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披雲閣

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玉藻丸乗り場 真鯛も泳ぐ海水の内堀

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和船「玉藻丸」乗船券販売所

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鯛願城就と鉄門

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琴電高松築港駅の前を通り駐車場へ戻る

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城壁の手前に琴電の踏切と通過する琴電琴平行電車

スタンプは西入口・玉藻公園・管理事務所で捺印完了です

 

2022年7月 6日 (水)

日本100名城No.76徳島城

 日本100名城No.76徳島城、吉野川河口の三角州に位置する標高61mの渭山(城山)に豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀小六正勝の嫡男の家政が秀吉の命で築城したのが徳島城。石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩で築かれている。蜂須賀小六は豊臣氏の家臣であったが家政は関ヶ原の戦いでは徳川方で出陣、また大坂夏の陣でも戦功をあげ、新たに淡路国を与えられた。

登城日5月25日

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2022年7月 5日 (火)

日本100名城No.84高知城

 日本100名城No.84高知城 司馬遼太郎の原作「功名が辻」の同名作品をNHKの大河ドラマ「功名が辻」で千代(見性院)とその夫、山内一豊が主人公の出世と愛妻物語のTVの残像が今でも微かにあります。天守と本丸御殿の両方が現存しているのは高知城のみです。

登城日5月25日

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日本100名城に行こう 公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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高知城御城印 山内家の家紋は「三つ柏紋」

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本丸への順路 高知城管理事務所のパンフレット

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追手門横の山内一豊公之像

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山内一豊の銅像の履歴

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追手門

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高知城案内図

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石垣に石樋 多雨地帯の排水設備

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石樋(いしどい)の説明

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山内一豊の妻の銅像

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三の丸石垣

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三の丸石垣

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杉の壇

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鉄門跡

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鉄門跡の説明

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詰門

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二ノ丸

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天守と本丸御殿

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本丸御殿

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功名が辻の絵

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御殿内部の一部

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武者隠の間

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天守の内部

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天守から東面

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天守から西面

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天守から南面

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天守から北面

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天守の肖像画、左から一豊の妻・見性院、山内一豊、二代藩主山内康豊(一豊の弟・忠義の息子を養子にした)

2022年7月 4日 (月)

日本100名城No.83宇和島城

 日本100名城 No.83 宇和島城 宇和島市街地の中心部の丘陵地に、天守が建造されたのは慶長6年(1601)の藤堂高虎の築城。藤堂高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利の時代に 天守以下、城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成。天守は独立式層塔型三重三階。白壁が美しい伊達十万石の城下町と呼ばれその姿を現在に残しています。現存十二天守「国重要文化財・国史跡」です。

登城日5月24日

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構と見どころ

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宇和島伊達家定紋「竹に雀」紋と解説

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城山下駐車場に停めて桑折氏武家長屋門から登城する

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左は天守まで300mの急な石段、右の天守まで670m緩やかな遠回りの坂道だが緩やかな坂道を選択

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長門丸石垣

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長門丸石垣の説明

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長門丸跡(現児童公園)の説明

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宇和島城の本丸へ

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上りの石段が続く

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郷土館前を素通りして本丸へ

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本丸石垣

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本丸石垣の説明

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本丸跡へ上る

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本丸跡

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本丸跡の説明図

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宇和島城天守

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伊達宗利築寛文天守 宇和島城公式HPより

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城内入口

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豊臣秀吉・伊達秀宗・伊達政宗の甲冑

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宇和島城木組の雛型

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太鼓櫓の太鼓

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見張り窓からの城下と海の眺め

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天守の武者窓 鉄砲挾間などが無い代わりに五角形格子の武者窓

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天守三層内部

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天守からの眺め

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宇和島伊達家の歴代城主

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下城途中の二之門跡

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二之門跡から最後の宇和島城

現存十二天守の伊達十万石の宇和島城の登城記録でした。

 

 

 

 

 

 

 

2022年7月 3日 (日)

日本100名城No.82大洲城

 日本100名城No.82大洲城。鎌倉・室町から安土桃山、江戸時代の主要城主は宇都宮氏・戸田氏・藤堂氏・脇阪氏・加藤氏と多くの武将が主となった大洲城は清流肱川の畔に築かれ、四層四階の木造天守が威風堂々として復元されている。

登城日5月24日

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御城印は元和3年(1617)伊予大洲六万石の城主として入城した、加藤貞泰の武将印と加藤家家紋の蛇の目と上がり藤紋

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大洲城六万石パンフレットより

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大洲城案内図(現在地)

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観光駐車場に車を置いて大洲城下町のNIPPONIA HOTELの前を通り、徒歩10分で大洲城に向かう

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ここまで歩くと大洲城天守が見える

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二の丸跡

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石垣越しに天守の屋根が覗く

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見上げると天守

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左から 高欄櫓 天守 台所櫓

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暗り門跡 天守に至る最後の城門

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中央に天守 右 台所櫓 ここから天守内へ

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城内の一部

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復元天守木組雛型

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高欄櫓の説明

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天守の階段

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石落とし

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甲冑

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三階⇒四階の階段

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天守の鯱瓦と同じシャチ瓦

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復元天守の棟札

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天守からの高欄櫓

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天守から眺めた本丸井戸

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天守より肱川橋方面

愛媛県大洲市大洲の復元大洲城でした

 

2022年7月 2日 (土)

日本100名城No.80湯築城

 日本100名城No.80湯築城。湯築城の住所は松山市道後公園、道後温泉の近く松山城も望めます。松山市内には隣り合って二ヵ所の日本100名城がありました。伊予国は現在の愛媛県全域にあたる旧国名。南海道に属する。国名は「い湯(ゆ)」(は発語)すなわち温泉の意に由来するという(ウイキペディアより)

伊予には今治市の今治城、松山市の湯築城と松山城、この次に訪問する大洲市の大洲城と宇和島市の宇和島城と五ヵ所の日本100名城を有しています。

登城日5月23日

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道後公園の位置図

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日本100名城に行こう公式スタンプ帳

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主な遺構は縄張り、土塁、堀、城跡は二重の堀と土塁が囲む

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市電駅とバスのりば「道後公園」

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国史跡 湯築城跡と後ろは遺構の土塁

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道後公園(湯築城跡縄張り)

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内堀・内堀土塁の説明

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内堀と土塁 

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湯築城跡の由来 歴史の古い城跡

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整備された内堀と土塁の湯築城跡

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道後公園と湯築城跡の標識

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復元された武家屋敷

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円形石積遺構 用途は不詳

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内堀・内堀土塁の説明・掘った土を盛り上げて土塁にしている

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内堀と内堀土塁

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復元した侍屋敷 右は遺構の土塁

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発掘調査の報告・搦手門の説明

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内堀と土塁が主な遺構・南北朝時代から歴史のある湯築城跡でした

2022年7月 1日 (金)

日本100名城No.81松山城

 日本100名城No.81松山城の登城記録は、2018年4月に道後温泉宿泊と坊ちゃん列車の乗車体験など夫婦旅の折りに、松山城を観光したがスタンプ帳を忘れていたので今回は四国の日本100名城の九ヶ城の一つである松山城登城とスタンプラリーが目的となっている。

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松山城登城はロープウェイ、あるいはリフトに乗って登城する

登城日5月23日

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蛇の目は築城した加藤喜明の加藤家の家紋、次に入城した蒲生家の家紋 左三つ巴、松平家の三つ葵、松平(久松)家の星梅鉢

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松山城ご案内

松山城山ロープウェイ東雲口駅から上りはリフトに乗る

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登城は三通り、徒歩か、ロープウェイか、リフトでのんびりか

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降車場所の長者ヶ平駅から松山城まで徒歩10分だが・・・

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ロープウェイまたはリフトを現在地から降りてから歩き出す

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いきなり高石垣の威容に防御の堅い守りを知る

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松山城の石垣の説明

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屏風折りの高石垣

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隠門続櫓(かくれもんつづきやぐら)

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正面の石垣の上は筋鉄門東塀、奥に天守 右側は一ノ門

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一ノ門

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二ノ門

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現在地は重要文化財の二ノ門付近

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三ノ門

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筋鉄門

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天守入口(右隅)

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天守

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天守の説明 三重三階地下1階(塩蔵)

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天守内部の階段

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天守展示品の一部、刀剣と槍

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石落とし、狭間

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天守三階

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天守三階 南

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南の実写

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西の実写

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北の実写

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東の実写

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司馬遼太郎著(坂の上の雲)松山城の解説・挿絵

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天守と小天守

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登城はリフトでのんびり上ったが下城はロープウェイでスイスイであった。ロープウエイ駅舎近くの駐車場から松山市内の次の日本100名城・湯築城に向かう途中に車の脇を市電に追い越された時はビックリした。地方都市で市電との並走経験が二度目(広島市電)の都会者(田舎者の反語)には一瞬ヒャ~としました。

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