日本100名城No.92熊本城
日本100名城No.92熊本城。熊本城は慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じた、名城熊本城が完成します。以後、熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台となっていきます。二代目の加藤忠広から寛永9年(1632)に細川忠利が藩主として入城、細川氏、宮本武蔵、谷干城など歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げる熊本城400年の歴史がある。廃藩置県後、熊本城には鎮西鎮台が置かれ、明治10(1877)年西南戦争の戦地となり、開戦直前の火災により天守・本丸御殿一帯が焼失してしまいます。第二次世界大戦後には市民をはじめ天守再建の気運が高まり、昭和35(1960)年に大小天守が鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元されました。(熊本城公式HP)
九州入りした7月13日から曇り空と小雨に見舞われたがとうとう、九州地区で一番期待した災害から復興した熊本城は雨の中であった。昭和35年に大小天守閣が復元された5年後に新婚旅行で初めて熊本城を観光したのは、57年前の東京オリンピックの翌年、昭和40年(1965)青空の下に大小の天守が輝いていた。しかし、雨天は傘をさしながら城郭を隅から隅まで攻城する気力を殺いでしまう。
登城日7月15日 雨天
加藤清正の武将印、熊本城築城主である加藤清正の名前・家紋・花押・座右の銘が入った「武将印」。 加藤家の家紋は「蛇の目」と「桔梗」紋、御城印は熊本城を築城した加藤氏の家紋「蛇の目紋」(左)と加藤氏の後に城主となった細川氏の家紋「九曜紋」(右)があしらわれたデザインです。
加藤神社は加藤清正を主神とする神社で、土木建築や勝運にご利益があるとされています。正式名称は錦山神社(にしきやまじんじゃ)ですが、一般に加藤神社と呼ばれています。清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があった日蓮宗の名刹・本妙寺が、1871年(明治4年)の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺としてわけられ、社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社として建立されました。
雨天の大小天守閣 画面の左上はビニール傘の骨が入る
雨天の平左衛門丸
横手五郎の首掛石
熊本城跡MAP
天守閣復旧のあゆみ 説明板
天守閣入口は右の小天守、出口は左の大天守
雨天の熊本城おもてなし武将隊も傘をさしてマスク姿
小天守の入口への通路を傘をさして急ぐ
6F展望フロアまで上るエレベーターで1階ごとに上がる
熊本城天守と主な天守との比較
天守の模型
天守の飾り、鯱瓦
二代目城主 加藤忠広
6F展望 南 外の景色は雨天で真っ白
6F 西の景色の写真
西方面の雨天の実写
東の写真 実写は真っ白な空間でした
北の写真 実写は撮れませんでした
熊本藩主は寛永9年(1632)加藤家から細川家にかわる、6Fからエレベーターで1階に降りて天守閣探訪を終了
南大手門 雨の中近づく元気なし、駐車場へ戻る
城内の加藤神社へ参拝
加藤神社境内からの熊本城天守
加藤神社境内の天守閣の写真撮影スポット
撮影スポットからの天守閣が最後の写真となる
それなりに元気で歩いた七十代から八十代になって二年、年齢を重ねるにつれて、歩行機能が衰えてきた。歩幅が狭くなり、足を上げる速度も遅くなり、歩行速度や歩行距離が低下したと自覚している。雨天は更に傘をさし、ぶら下げたカメラを濡らさないことも必要で攻城する範囲も狭くなる。青空の熊本城を撮りたかった!
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