カテゴリー「趣味」の263件の記事

2023年3月 7日 (火)

転ばぬ先の杖と杖ことば

 今日は83回目の誕生日です。今日からヤーサンになります!
八のヤー、三のサンでヤーサンです。凄みの無い年老いたヤーサンです。誕生日祝いに貰えませんでしたが必需品は杖とまだ思われていないようです、杖はまだ先の話の様ですが関心はあります。

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ヤーサンになったココログの@niftyからの誕生祝です。

最近、杖について関心を持つようになりました。広辞苑第七版で「杖」を検索すると①歩行の助けに携える細い長い棒。転じて、たよりとするもの「ーにすがる」「ーをつく」②拷問や罪人を打つのに用いる棒。③丈とも書く

先日、三ッ池公園などの起伏の多い公園内の坂道などで杖をついて歩く人の様子や杖の種類、杖そのものが気になるようになりました。杖を必要とする年代になったせいだろうか?三ッ池公園中の池の上にある坂道でT字杖をついて散歩する同年代の老人と目が合いまして目礼、自分よりも年長者と思い不躾ながら御歳をお聞きしたら自分よりも二歳年下の方で自分の見立てと異なり、動揺してしまい杖の効用などを尋ね損ねました。同じ日に花の広場で探鳥をしていると30~40代に見える(~と思えたかも)女性四人組がスキーのストックのような杖で速足でウオーキングしている姿が目の前を通過した。この時は何だかな?と思いましたが明らかに杖を使った運動かスポーツと感じましたが後で判明したのは下図の二本の杖(ポール)を使った最近はやりのウオーキングポールを使ったウオーキングでした。 

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杖の種類や選び方のポイント LIFULL介護のHPより転載

このブログは17年間の蓄積がある3900ページの過去の体験が豊富にあります。現在の記事は多少はありますが肝心な未来はあまり望めないようです。今となっては当時の出来事が日記替わりや回想録とになっている過去の頁をめくると野鳥撮影を始めてから四年目、ブログを書き始めて三年目の四月に都内の公園でコマドリを撮影中に70cm程の石垣の上から飛び降りて右足首を捻挫してから歳をとったと自覚した記憶があります。帰宅後に腫れ上がった足首を近所の整形外科でレントゲンなどの処置後にアルミ製の松葉杖のお世話になった記録があります。野鳥撮影での怪我により暫くは松葉杖のお世話になりました。三鳴鳥のコマドリがこまどり姉妹ならぬ困鳥(こまどり)始末(しまつ)に足首の痛さで悲鳴をあげたようです。これは松葉杖の秘話記録と記憶でした。

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昨年5月に四国八十八ヶ所をめぐる巡礼のお遍路さんの遍路杖を見かけたのは、5月15日~26日に横浜から約三千五百キロ走破した時です。山陰と山陽の中国地方5県の日本100名城をスタンプラリーで12城を巡り、天守閣や櫓などの遺構が存在しない日本100名城の山城などには、受付などの窓口では、竹の杖などの無料貸し出しの杖が置いてあります、上り坂や深い空堀などの起伏が多い山城の攻城にはこの杖は助かりました。
しまなみ海道(西瀬戸自動車道)を尾道から入り四国の今治北IC降りて今治城に直行、登城したのは5月23日であった。愛媛県の日本100名城は五城もある、今治城⇒松山城⇒湯築城⇒大洲城⇒宇和島城を巡り、5月25日に高知県の高知城⇒徳島県の徳島城⇒5月26日AM10時に香川県の高松城を攻城してから2時間後に香川県の丸亀城へ登城した。四国の日本100名城は天守閣の残る平山城や海城などで杖のお世話になりませんでしたが三日間で四国四県の九ヵ所の日本100名城スタンプラリー車旅の道中で稀に見掛けたのはお遍路の正装白衣に「同行二人」の文字と菅笠のお遍路さんでした。持つのは白木の立派な杖は遍路杖と呼ぶのか金剛杖と呼ぶのかお遍路さんの一番大切な携行品が遍路杖は長距離を歩く杖です。

四十数年前の現役時代に羽黒山最寄り駅の山形県鶴岡にある子会社に出張で通った頃に、白装束の山伏姿に頭にお皿のようなものを載せて金剛杖に法螺貝の出で立ちの山伏を稀に見掛けた記憶があります。山伏姿の記憶がまぎれたので羽黒町観光協会のHPより下図を参照しました。

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山伏修行「羽黒町観光協会」HPより

山伏修行体験は、白装束を身に纏い、俗世界から離れて修行の一端を体験し、出羽三山の自然、そして修験道を学びます。
参照:羽黒山ガイドの解説:古くから山岳修験の山として知られた出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のひとつ羽黒山は、標高約414mの山です。山頂までの表参道は、石畳が2,446段続き、山頂の出羽(羽黒)神社は、全国的にも珍しい「三神合祭殿」で、出羽三山の神々が祀られています。この三神合祭殿は東北一の木造建造物で、2000年に国の重要文化財の指定されています。電車でのアクセス:鶴岡駅(JR)からバスで約53分。その後はANAで出張するようになり見掛ませんでした。

二十数年前の現役の最晩年に麓から下千本、中千本、上千本、奥千本といわれる谷や尾根に群生する吉野山のヤマザクラの山を見物した際に、修験道発祥の地と言われる蔵王堂の桜と修験者と金剛杖の記憶を思い出しました。この時に読破したのが日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖と呼ばれる「役行者 えんのぎょうじゃ」の当時の新刊書であった。 

時代劇の「杖」と言えばTBS時代劇の「水戸黄門」を直ぐ思い浮かべます。水戸黄門の杖は杖にすがる老人ではなく助さん格さんとともに立ち回りに使用した護身用の杖でした。TV時代劇の水戸黄門は、SNSの情報では初代から六代まで6人の俳優が演じてきたそうです。自分の記憶に強く残るのは初代の東野英治郎の水戸黄門と現役を退いた時の時間を持て余していた頃の五代目の里見浩太朗の水戸黄門でした。黄門を演じたの俳優は二代目の西村晃、三代目の佐野浅夫、四代目石坂浩二、六代目武田鉄矢が演じています。
SNSによる史実では
実在の徳川光圀は「アカザ」という植物の根を材料にした杖を使用していたという。しかしこれはすぐに折れてしまうため立ち回りシーンでは使えず、撮影では竹でできた杖を使用。杖は代々の黄門さまの身長に合わせて3~4本用意したという。(NEWSポストセブン・女性セブン2011年12月22日号)

時代劇の盲目の杖と言えば仕込杖、勝新太郎主演の人気映画シリーズの盲目の座頭市が仕込み杖で悪人を次々と、体を回しながら逆手で一瞬に斬り倒す痛快な仕込み杖でした。転ばぬ先の杖というよりも殺される前の仕込み杖です。物騒な仕込み杖の物語をお終いにして、杖は杖でも今日まで言葉の杖にすがってきた思いがします。

愛読書の著者 五木寛之の「杖ことば」4,5年前に読みました。
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杖は杖でもことばの杖があります。2014年に学研より刊行された著者五木寛之の「杖ことば」~ことわざ力を磨くと逆境に強くなる~

「あるとき、〈杖ことば〉という言い方を耳にしました。ともすれば、しゃがみ込みたくなるようなとき、人生の苦難の旅路を共に歩き、その一歩一歩を杖となってささえてくれる言葉をさすのだといいます。私自身、もうダメだと思うとき、いくつかの言葉によって、ささえられて、ここまで生き延びてきました。崩れ落ちそうな自分、もう諦めてしまいそうな自分をささえ、再び立ち上がらせ、もう一歩進んでみようかという気にさせるのが杖ことばなのです」 「(著者の枕ことば)とは、まえがきにかえて より」

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まえがきの次の頁は目次です、第三章は「よりよい日々をひらく杖ことば」第四章は「苦難をのりこえる杖ことば」最終章の第五章は「老いをささえる杖ことば」。
幾つかの読後の解説・書評には 心に残る、支えになっている諺をもとにした、著者初の語り下ろしエッセイ。 ”人生に迷ったときの杖ことば”や”人間関係をささえる杖ことば”、”苦難をのりこえる杖ことば”、”老いを支える杖ことば”というテーマで、諺を引用し、ご自身の経験と照らし合わせながらわかりやすく解説。 心が折れそうなとき、災難がふりかかってきたとき、老後の不安におしつぶされそうなときなどに読みたい一冊です。

このブログも老後の17年間3900頁を続けていますが「枕ことば」は「継続は力なり」にすがっていますが著者も同じように「継続は力なり」を枕ことばにしています。 重い荷物を背負って山に登らなくてはならないとき、ヨッコラショと自分自身に掛け声をかけて、立ち上がる。 そのヨッコラショ、に当たるのが枕ことばなのでないでしょうか。 と記述しています。

頼りにするものの表現で「杖にすがる」「老後の杖とする」「杖とたのむ」の言い回しも終活の杖ことばになります。 杖にまつわる話は取り敢えず、ここら辺でドッコラショと重い(思い)荷物を降ろして今後も、身体にあった自分らしい杖探しの終活を続けたいと思います。
「継続は力なり」

 

 

 

2023年2月19日 (日)

満洲開拓団の地図と小説「地図と拳」

 集英社の「地図と拳」著者 小川哲(おがわさとし) 今年の直木賞受賞作品をAmazonから取り寄せてみた。直木賞と芥川賞の受賞作品の書評を新聞で読んで、直木賞受賞作品「地図と拳」の歴史空想小説の舞台が亡父の遺品である満州開拓団地図(後掲する手書きの地図)の舞台である「満州」であった内容に強く惹かれたからである。
79年前の敗戦の一年前、1944年(昭和19年)四歳の時に国策に応じて、新潟港から父母と三歳の妹と一家四人で満州国牡丹江市郊外(ソ連と満州国境の近く)に開拓民として入植、翌年7月には戦局の悪化から父は開拓団からの現地召集となり、父親が不在の1945年8月9日ソ連軍の対日参戦と8月15日の日本軍の降伏による敗戦で満州の開拓民は捨てられた棄民となり、敗戦から四ヶ月間満州を飢えと寒さで彷徨い、食うや食わずの末にやっとたどり着いた朝鮮半島の釜山港で奇跡的に父親と再会してから引揚船で博多港に命辛々辿り着いたのは敗戦から四ヶ月後の昭和20年12月であった。5歳児の記憶は朧で定かではないが来月で83歳になっても、読後の感想は満州とは何だったのか、その答えがあるような気がしたが何だか判らない、地図は国家や国土を表し、拳は争いや戦争を表すことだった。

我が家の蔵書で一番厚い「広辞苑第七版」は3188頁厚さ80mmである。蔵書で二番目の分厚さになったアマゾンから届いた書籍代2420円、厚さ40mmもある分厚く本文625ページ、巻末に参考文献をあげているが、参考文献だけで8ページもあり、数えると151の出版物の羅列がある。この大作をブログ作成の合間に一週間かけて読破した。亡父の地図に参考になるや否やで地図の出現を辿ったが一枚の地図も挿絵の無い633頁の大作であった。

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直木賞受賞後に購入したが帯は候補作のままであったが購入後の宣伝は受賞作品の帯がついている。

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発行元の集英社の著作と著者紹介とあらすじ
【第168回直木賞受賞作】【第13回山田風太郎賞受賞作】「君は満洲という白紙の地図に、夢を書きこむ」日本からの密偵に帯同し、通訳として満洲に渡った細川。ロシアの鉄道網拡大のために派遣された神父クラスニコフ。叔父にだまされ不毛の土地へと移住した孫悟空。地図に描かれた存在しない島を探し、海を渡った須野……。奉天の東にある〈李家鎮〉へと呼び寄せられた男たち。「燃える土」をめぐり、殺戮の半世紀を生きる。ひとつの都市が現われ、そして消えた。日露戦争前夜から第2次大戦までの半世紀、満洲の名もない都市で繰り広げられる知略と殺戮。日本SF界の新星が放つ、歴史×空想小説。【著者紹介】小川哲(おがわ・さとし)1986年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。2015年に『ユートロニカのこちら側』で第3回ハヤカワSFコンテスト〈大賞〉を受賞しデビュー。『ゲームの王国』(2017年)が第38回日本SF大賞、第31回山本周五郎賞を受賞。『嘘と正典』(2019年)で第162回直木三十五賞候補となる。

亡父の遺稿である満州・牡丹江・入植開拓団の地図

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この地図は亡父の遺品の地図である、牡丹江市の南の寧安を中心に描いた入植した開拓団の位置と思われる。当時5歳児のいた満州開拓は辛い記憶しかなかったので親不孝にも戦後は亡父母からは開拓団の様子を聞き損ねたので、満州開拓団を知ろうとこの「地図と拳」の大作を読破したが、625頁の本文には一枚の地図もなくタイトルの「地図と拳」に期待を裏切られた気持ちが読後の一番の感想となった。

日露戦争から第二次世界大戦と長い年月の満州にある都市とそれに関係した人たちの空想物語であったが都市の建設が主題で当時の満州の地図がなかったことや私が期待した満州に入植した開拓団の苦労や歴史は、作者の参考資料からの知見では知る由もなく止むを得ないと思われる。フィクションの空想小説ありながら領土や資源を奪おうとする戦争を「地図」と「拳」の関係に重ね合わせながらの直木賞受賞は流石です。本文が参考にならなかったが参考文献151冊の中のタイトルに未読の満州開拓団の著書が4~5冊あるのでこちらの情報が有難いと思う次第。

 


2023年2月 8日 (水)

笑点新メンバーの一之輔に期待

 笑点は今から57年前の、1966年5月から日本テレビ系列で毎週日曜日に放送されている番組です。初代司会者の立川談志の昔から自分好みのお笑い番組でした。笑点の 放送回数は、2023年2月5日現在、2846を数えます。 放送開始から56年以上たった今でも、日テレ系で屈指のお笑い演芸番組です。司会者になる前、昔の「歌丸と(三遊亭)小円遊」のハゲとバケモノの罵りあいなどの抱腹絶倒、笑点一番好みの番組は昇太の前の司会者として番組を盛り上げて2018年に81歳で亡くなった後も、終身名誉司会者の称号を持つ「桂歌丸師匠」と昨年9月に72歳で肺がん亡くなった腹黒&毒舌キャラの六代目「三遊亭円楽師匠」の両師匠による凄みのきいた「毒舌バトル」の掛け合いが過去の笑点では最も面白かったと記憶している。亡くなった円楽の後釜に候補に挙げられた噺家の誰になるのかメディアで騒がれていましたが今週の笑点大喜利で決まりました。 

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写真は新メンバー春風亭一之輔の著書の表紙、週刊朝日の連載「ああ、それ私よく知っています」のエッセイをまとめたスマホのメール機能で原稿を書いた三冊目の単行本。

今のりにのっている落語家・春風亭一之輔が、落語のイントロ「まくら」を噺(はな)すようにつづったエッセイ集の最新版。桂宮治が「笑点」の一員に抜擢された際の気持ちをスマホに綴った「新メンバー」、この他にコロナ禍で頻発した落語界の代演について考察した「代役」他、時事ネタエッセイを多数収録。「週刊朝日」連載の単行本化第3弾。

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今週の日曜日2023年2月5日大喜利は円楽さんの席に座る新メンバー「今最もチケットが取れない落語家」ともいわれる人気の一之輔さん。司会の春風亭昇太さんに呼び込まれて袖から出てくると、客席からはどよめきが起こった。
「ちゃんとしなくても宮治ぐらいの落語はできる」大喜利の第1問は、「どうして一之輔さんが新メンバーになったのか」。一之輔さんとプライベートでも親交があるという桂宮治さんは、「これ本当の話なんですけど、私が日テレの偉い人にお願いしてあげたからです。川上くん、本気だよ」と本名の川上隼一(としかず)で呼びかけ、一之輔さんは「本名で呼ぶなよ!ドキドキすんじゃねぇか」とたじたじの様子だった。昇太さんの「ちゃんとしなさい!」に一言返すというお題では、「マンボNo.5」のリズムで「チャッチャチャチャッチャチャッチャチャッチャッチャちゃんと!できない!ウー!」と踊りながら陽気に答えた宮治さんに続いて、一之輔さんが呆れたように「ちゃんとしなくても宮治ぐらいの落語はできるんですよねぇ」と答え、宮治さんは立ち上がって「うるせぇなぁ!」とやり返した。さらに山田隆夫さんに「(座布団)1枚あげて!」と指示した昇太さんに、宮治さんは「あげなくていいよ~!」と野次を飛ばしていた。一之輔さんと宮治さんのやり合いで笑点が盛り上がった。今後はこの二人の掛け合いが歌丸さんと円楽さんの毒舌バトルに匹敵する興味津々のシチュエーションを期待すること大である。

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春風亭一之輔著・朝日新聞出版「まくらの森の満開の下」の第五章の芸能界のまくら、201~203頁に三平に代わる「新メンバー」では、1歳上の桂宮治は落語界では後輩、とのプライベートなやり取りなどが紹介されていた。

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笑点メンバーが林家三平から桂宮治に代わった時の201~203頁は個人的に親交ありありの辛口のエッセイ

SNSの情報や視聴者の反響は、一之輔と桂宮治とのやり取りを称賛。「笑点の歌丸師匠、(三遊亭)小円遊師匠の罵倒合戦が好きでした。一之輔師匠の登場はかっこよく、宮治師匠とのやりとりはあの頃の笑点を思い出しました」「昔楽しんでいた笑点のテンポの良さと小気味よい毒が戻ってきた、そんな感想を持ちました」といった書き込みに同感の思いでした。更に「笑点の新メンバーが一之輔師匠になったことで、一番うれしいのは宮治師匠とのバトルが観れること」「桂宮治と春風亭一之輔の掛け合い」毒舌バトルを期待した「歌丸師匠vs円楽師匠の罵倒合戦引き継いだ形で笑点大いに盛り上がりそうだ!」と、今後への期待の声が相次いでいた。

来週からの笑点大喜利が待ち遠しい!!

 

2023年1月26日 (木)

始めあるものは必ず終わりあり

 諺(ことわざ)に「始めあるものは必ず終わりあり 出典:君子」この諺の意味は、物事に始めがあるように必ず終わりがある。生あるものには必ず死が訪れ、栄えているものはいつか滅びるということ。インターネットより

人生100年時代、人生の四季 春夏秋冬は二十五年毎。青春の二十五年は主に勉学に励む学生期、朱夏の二十五年は一生懸命に働き家庭を築く家住期、白秋の二十五年は一線を退きゆとりを楽しむ林住期、最後の玄冬は人生の終焉を迎える準備の遊行期。青春・朱夏・白秋・玄冬期の喜怒哀楽・栄枯盛衰の人の一生にも「始めあるものは必ず終わりあり」。

白秋期からの野鳥撮影で自己を実現して、林住期を愉しく過ごした七十五歳までは人生の黄金期とも収穫期ともいえる林住期であった。七十五歳からは終活が始まる遊行期に入ると言われるが、元気な人ならば5年や10年の林住期の延長もあると「林住期」の著者、作家の五木寛之氏の著書にも書かれていたが本人の気力と体力の持ち様次第と言えるが傘寿までは林住期を満喫したと自覚している。今年の誕生月3月で83歳となり男性の平均寿命も二年近く上回り、十分歳をとりました。現在と未来は玄冬期の遊行期・終活期にあります。

 いつまで続くのかこの「ケンさんの探鳥記」2006年6月1日から始めたこのココログのブログはホップ・ステップ・ジャンプの三段跳びのブログ。初めのホップは無料のココログ・ベーシック 使用可能なディスク容量は2GB(2000MB)、次のステップはディスク容量5GB(5000MB)の有料のココログ・プラス。最後のジャンプはディスク総容量は10GB(10000MB)の契約で月額950円有料のココログ・プロで現在に至る。
ブログ開始から17年後の現在のディスク残り容量は415MB 使用率95.85% 残り4.15% となっている。残り容量は僅かとなった。
ブログの1回の最大使用容量は写真1枚の容量が100KBであるので30枚のフォトブログでは415÷3=138回のブログが書けることになる。20枚のフォトブログでは415÷2=207回
因みに過去17年間の1回あたりの平均使用容量は3890回のブログで写真は53200枚、53200÷3890=13・7枚となっている。ブログを始めた頃は撮影場所からのモバイル通信でブログを発信したこともあり、写真が2~3枚のブログもかなり存在したが最近は最大30枚のブログもあり、開始~現在のブログを平均すると約14枚となります。これは2・46MBになります。この数字を使用してブログが書ける回数は残りの415MB÷2・5=166回となります。
365日÷166回=2.2 二日に1回のブログでは1年間で終わります。四日に一度のブログでは二年間でこのブログは終了します。現在の調子では四日に1度のペースではあと二年間でこのブログは終焉となります。
契約ディスク容量は残り415MBあるが、1回当たり14枚のフォトブログを継続すると想定しても、傘寿を過ぎてからの気力と脚力の落ちる速度が早まっていると自覚している現況では、持続力の継続が可能かどうかは神のみぞ知ることになりました。「始めあるものは必ず終わりあり」

2022年12月22日 (木)

篠原神社の冬至の記録

 昨夜から篠原八幡神社の御神鏡に入光する冬至の日の出の撮影を準備していましたが天気予報も雨で期待出来ずであった、今朝は5時に起床すると案の定天気予報通りの小雨であったので冬至の日の出撮影は不可となった。
過去を振り返りブログに掲載したした篠原八幡神社冬至の日の記録。

2008年12月21日 今日は冬至です
2012年1月12日(撮影日2011年12月23日)
          一陽来復を願う
2014年12月23日 篠原八幡神社冬至の日の出
2015年12月22日 篠原八幡神社冬至の日の出
2017年12月25日(撮影日は三日前)篠原八幡神社冬至の日の出
2020年12月21日 冬至・八幡神社・日の出
2021年12月23日 篠原神社冬至の日

過去の冬至の日の神社境内の写真

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2015年12月22日篠原八幡神社の鳥居から入光する冬至の日の出

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2015年12月22日 篠原八幡神社の冬至の日に拝殿に入光する

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2015年12月22日当時の冬至の日の氏子や参拝者やまだ少ない

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2021年12月22日 鳥居から入光する冬至の日の出とカメラマンと見物人、境内でラジオ体操が始まってからは年々見物者が多くなる。

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2021年12月22日 拝殿に入射する冬至の日の出と参拝者

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2021年12月22日 数年前から先代の神職から跡継ぎに代替わりした以降は冬至の日に拝殿のガラス戸を開けなくなり評判が悪くなった。冬至の太陽がご神鏡に直接入光しなくなった。

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神奈川県横浜市、港北区八幡山。篠原八幡神社・来歴・創建800年(今年で830年)当神社は後鳥羽院建久三年1192年(鎌倉時代)に鎮守しました。 鳥居の脇にある冬至の朝を詠った石碑、篠原八幡神社は神社百選の神社です。

 


              

2022年4月14日 (木)

「80歳の壁」の次は未知の壁

 一週間前の四月七日、朝日新聞13判の書籍の広告で一番大きい紙面、B3半開きの全面広告15段に幻冬舎文庫の春まつり「新刊」の広告10刊の中で、全面広告の1/3を占める下から1段~5段に「80歳の壁 老年医学・精神科医 和田秀樹」のモノクロの広告が目に入った。

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4月7日の朝日新聞朝刊から切り抜いた新刊書の広告

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タテ168mm X ヨコ378mmの広告はA4プリンターのスキャナー取り込みでは2ページの取り込みとなりました。この広告を一目見て興味が湧き、早速8日にAmazonに注文しました。70代からの自分の生活習慣と比較して「はい」と「いいえ」などで「同感」するか「否か」どうかで分類すると全てが「はい」ではなかったが「いいえ」か「わからない」が十項目くらいあったがいつもの衝動買いで注文して仕舞いました。

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翌日届いた青帯の宣伝が際立つ、現物の「80歳の壁」表と裏表紙です

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帯を外して表と裏表紙をスキャンしてみました。以下は裏表紙の文言の内容です。

人生100年時代だが、健康寿命の平均は男性72歳、女性75歳。80歳を目前に寝たきりや要介護になる人は多い。「80歳の壁」は高く厚いが、壁を超える最強の方法がある。それは、嫌なことを我慢せず、好きなことだけすること。「食べたいものを食べる」「血圧・血糖値は下げなくていい」「ガンは切らない」「おむつを味方にする」「ボケることは怖くない」等々、思わず膝を打つヒントが満載。70代とはまるで違って、一つ一つの選択が命に直結する80歳からの人生。ラクして壁を超えて寿命を伸ばす「正解」を教えます! (裏表紙の文言)青字の部分は自分の生活習慣と異なることや未体験ゾーンなど。

本書を読み始めたが自分は既に「80歳の壁」をクリヤーして2年も経過していること。男性の平均寿命81・64歳を3月7日でクリヤーして満82歳になったばかりである。連れ合いも4月10日におなじ満82歳になり、夫婦揃っての足し算は満164歳を迎えて二人とも心身ともに自立して、男性72・68歳、女性75・38歳の統計上の健康寿命をクリヤーしており余裕をもって「80歳の壁」は超えているが初めて読む、老年医学・精神科医の和田秀樹先生の診断と同じであったかどうか気になることを早読みで較べてみることにしました。

まず最初に老いを受け入れ、できることを大事にすることが、「幸せな晩年」と「不満足な晩年」の境目になると説いています。そして、80歳を超えた人は高齢者ではなく「幸齢者」と呼ぶことを提案しているが駄洒落で最初に面食らいました。自分だったら健康寿命の「康」やすらか・こう の「康齢者」を提案します。
「プロローグ 80歳の壁を越えていく」の中で気になることが数か所ありました。統計データの説明では「死亡数」年齢別になくなった人の数を調べたものです。最も多くの人が亡くなった年齢は男性85歳、女性90歳でした。(平成17年調べ)2021年の発表では85歳以上の男性が208万人、90歳以上の女性が192万人もいるのです。・・・現在満82歳1ヵ月となりましたので、85歳まであと3年で統計的に男性が亡くなる方が多い年齢に達します。旅立つ準備の終活を急がねばなりませんが一方では85歳以上の男性208万人の仲間に入る願望も強く湧き出してきます。

「80歳を過ぎたらガンがある。それに気づかない人も多い」

「認知症は必ずやってくる。ならないいまのうちにしたいことをする」

 「人生百年時代」 最も気になったこの三項目

80歳の壁を超えてから願望と重荷の両方がのしかかるという。80歳を超えたことは喜ばしいことだが「長生きしなければならない」という呪縛のような願望にかかってしまう。その呪縛を解くヒントを本書から見つけることにしたい。
今よりもかなり心身ともにに充実していた70代になる前は、夫婦ともども毎年半日の人間ドック通っていましたが70代以降は近所のクリニックの定期健診で過ごしてきました。生活習慣病の高血圧・高血糖・コレストロールなどの治療で定期的に月一で通院を始めて生活習慣病の治療薬を毎日飲み始めて12年になります。生活習慣病の治療薬を飲み野鳥撮影で80歳の壁を超えたともいえます。二年前までは毎年三ヶ月間の北海道遠征旅行などを5年連続で滞在していました。
2年前からのコロナ禍では二ヵ月一度の通院で二ヵ月分の治療薬をいただいて12年目に入っても同じ薬を続けている。二ヶ月毎の通院で毎回血圧と血糖値を計りその結果に一喜一憂してきました。血圧は毎日飲んでいる薬のおかげなのか130~150程度でこの十年間はあまり心配はなく過ごしてきた。チクリと指先に刺して血液の小さな滴をメーターが読み取る血糖値測定器では、血糖の基準値(下限値~上限値60~109)は毎回とも上限値を超えて赤字で表示されています。HbAIc(4.6~6.2)は上限値6・2を超える機会が多く、稀に基準値6・2以下の基準内がある程度。これほど血糖が悪くても甘いものは避けることが出来ないので何でも口にしいます。「食べたいものを食べてよい お酒も飲んでいい」結果的にその通り実行しています。 

和田先生の「80歳を過ぎたら我慢をしない」という生き方だ。がんにならないために食べたいものを我慢したり、好きなお酒(ビールしか飲まない)やタバコ(吸ったことがない)を控えたりすることもない。むしろ好きなこと(野鳥撮影など)をして気楽に生きるほうが、免疫力が高まることも分かっており、がんの進行を遅くするという。認知症は必ずやってくる 今のうちにしたいことをする、ことを勧めている。 認知症は病気というより「老化現象」に近いものであり、年を取ると誰にでも起こる症状だというのだ。認知症の発症年齢のデータを示している。60代で1~2%、70代前半で3~4%、70代後半で10%、80代前半で20%を超え、ここから一気に増える。 80代後半で40%、90歳で60%、95歳では80%となる。「死ぬまで認知症にならなかった」という人は、認知症になる前に亡くなっただけのこと、と書いている。 そこから導かれる結論も「どんどん好きなことをして、楽しく生きること」。そのことによって脳は刺激を受け、活性化し、認知症の発症を遅らせることは可能だという。この本の一番気に入ったところ。 

 和田先生はどんな医師を選ぶかが晩年の幸・不幸を左右するとして、良い医師選びが大切だという。近所のFクリニックの先生は十数年もかかりつけ医としてお世話になっていますが、自分では良い医師に巡り合ったと自認しています。コロナ禍になってからは1回目から3回目までワクチン接種もこのFクリニックからの連絡で予約から接種まで済ませています。常にお世話になっております。

糖尿病の治療がアルツハイマー型認知症を促進するという驚くべきことを書いていますが一般に「糖尿病の人はアルツハイマー型認知症になりやすい」と言われていますがこれから先の運命は未知の世界です。未知に迷うか道を誤るかは宿命に従うしかありません。

 日本人の平均寿命は、男性が81.64歳。女性が87.74歳(令和2年調べ)。3月7日に82歳を超えたので、これまでは幸せであった。これから先は「未知の壁」

 

 

 

2022年4月 9日 (土)

花祭りの日に總持寺御朱印

 四月八日は仏教の開祖お釈迦様のお誕生日です。横浜市港北区篠原町の曹洞宗天宗山東林寺(檀那寺)へ花御堂のお釈迦様に甘茶を掛けに参拝に行きましたが 例年ならば本堂の前に設置されてるはずの花御堂がありません。コロナ禍でしょうか。
東林寺から直ぐに鶴見の曹洞宗関東大本山 總持寺の花御堂に向かいました。

總持寺でまず最初に目にした注意書きは、「墓参りや年回忌法要などのご参列は可能(人数制限)ですが、その際マスクを着用するなどの予防対策をお願いします。その他の来山はご遠慮いただきたくお願い申し上げます」いきなりの不安です。

4月8日撮影 まず始めは空振りした当日の東林寺の様子です

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曹洞宗天宗山東林寺山門

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山門からの正面石段上の本堂への桜の参道を進む

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午前9時半頃 本堂前は人影なし

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昨年は本堂で写経の会が行われていました本堂前のここに花御堂が置かれていましたが、一昨年は本堂内は静かでコロナ禍で花御堂はありませんでした。今年は一昨年同様に本堂前に花御堂はありません。歳をとると諦めが早くなりました、それではと向かったのは・・・

東林寺を出てから30分後には曹洞宗大本山總持寺の大駐車場にいました。

2022年4月8日撮影

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總持寺総合案内の境内案内図

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三門正面「立ち入りを当面の間禁止といたします」の赤字書き

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左から明峰素哲禅師 太祖 瑩山紹瑾禅師 二祖 峨山韶碩禅師

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太祖瑩山禅師・二祖峨山禅師・明峰禅師 銅像の銘

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向唐門(むかいからもん)と桜(散った河津桜と右は染井吉野)

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三松閣 法事以外は立ち寄り禁止でした

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総受付の香積台前の七00回大遠忌

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香積台(総受付)の桜

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当日の香積台入口前のお知らせ(山内でコロナ感染の模様)

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香積台内部の入口大黒天、時節柄おさすりを遠慮する

総受付の御朱印受付の老師より貼り付けの御朱印をいただく

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花御堂の場所を確認するとコロナで一般公開はしていないとの事でした。總持寺内部の行事として太祖堂(仏殿は改装工事中)で釈尊降誕会を行うそうです

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参拝記念の三寶荒神・大黒天・准胝観音(じゅんていかんのん)・文殊菩薩、
准胝観音は仏教における信仰対象である菩薩の一尊、御姿は千手観音に似ている。

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目的の花まつりの花御堂がありませんので香積台に祀られている大黒尊天をお参りしきました。

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太祖堂、お釈迦様のお誕生日をお祝いする太祖堂に花御堂をしつらえて釈尊降誕祭が行われるそうです。コロナ禍で一般客は見学出来ません。

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休館中の宝物殿前の雲水の群像

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雲水群像正面の銘

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雲水群像は寶物殿前に建立されました。雲の行くまま、水の流るるままの拓鉢遍路をして精進する僧の「雲水群像」です。

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境内の桜が咲き誇る時から北上を始めたこの時期に

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歩き始めた駐車場前のロータリーに戻りましたが雀が太祖瑩山禅師像の頭に止まっていました、これを怪しからんと見るのか、小林一茶の句「我と来て遊べや親のない雀」を彷彿させる光景と見てしまいました。

4月8日のお釈迦様の御誕生日に花御堂の小さなお釈迦様に甘茶を濯ぎに来ましたが目的を果たせずにコロナ禍の境内を6300歩のフォト写歩(シャンポ)で帰宅しました。

 

2022年3月10日 (木)

やっとクリヤーした平均寿命






「老後に起こるトラブルの多くは、今から健康を大切にすることで回避できます。老後の大きな経済損失は医療費と介護費だからです。個人が一生涯に負担する医療費の実質額は約200万円。さらに介護費用となると、自宅介護を選ぶ場合でも、5年間で約500万円かかります。これらの負担が、年金収入しかない70歳を過ぎると一気にのしかかってくる。老後資金を減らさない最善の防御策は、心と体の健康を維持していくことに尽きるのです」

そう話すのは、老後問題解決コンサルタントとして、これまで1,000人以上の相談を受けてきた横手彰太さん。

「定番ですが、ウオーキングなどの適度な運動、質の高い睡眠、栄養バランスのとれた食事を心がけて、病気をよせつけないこと。老後に向けて今から毎日、心身ともに健康な自分を作る意識をもつだけで、トラブルが起きたとしても、ダメージを小さくできるのです」

そこで、次に紹介する75〜90歳以上までの注意点をもとに、人生後半戦に高まるリスクを把握し、病気とお金の両面から今すぐにでも対策を始めよう。

75〜79歳

病気:認知症の6割以上を占めるアルツハイマー病の発症者が急増する【※1】

お金:夫の介護が始まる【※2】

【※1】預貯金がおろせなくなることも…家族信託や任意後見制度が安心

50歳前後から脳に蓄積したタンパク質のゴミが、神経細胞を死滅させていくことで発症。認知症の6割以上を占める。現在、根治的な治療薬はなく、脳活性化リハビリの非薬物療法と認知機能障害に対する薬物療法が行われる。介護保険を使用しない場合、外来医療費が月3万9,600円(厚生労働科学研究と慶應義塾大学の研究チーム試算)。

「認知症で預貯金がおろせず財産凍結する前に、家族信託や任意後見制度を検討しておくべきです」(横手さん)

【※2】自宅介護だと5年で500万円民間施設利用で2,000万円かかる

介護施設に入る平均年齢は85〜90歳だが、介護状態になる人は、75歳の後期高齢者以降に増加。3人に1人が要介護認定者になる計算だ。突然、夫を介護する老老介護が始まるかもしれない。

「平均的な家庭で自宅介護を5年間するだけで約500万円が必要といわれています。また、民間施設に入所するとさらに上乗せされて、介護費用の合計は2,000万円に上昇します」(横手さん)

老老介護は心身ともに疲弊する。公的な介護施設に入れる選択肢があれば、夫婦お互いにとって幸せなケースも。とはいえ、高齢者の10%は亡くなる間際まで元気な状態で過ごしているという事実も覚えておきたい。

「多少の病気は抱えながらも、健康寿命を延ばす生き方を目指してください」

■85歳では認知症の有病率が5割超え!

■80〜84歳

お金:夫が平均寿命を迎える/認知症で財産が凍結する

■85〜89歳

病気:認知症の有病率が5割を超える/サルコペニアになる【※3】

お金:介護施設に入所する

※3】介護リスクを先延ばしにするなら今すぐ生活習慣の改善と運動を!

「サルクス(筋肉)」と「ペニア(減少)」の造語。

「年齢とともに低下する筋肉量は、70代でひざや腰を患い活動量が減ると低下のペースが速まり、介護予備群のフレイル(虚弱)に。しかし、筋肉は何歳になっても鍛えられるのです」(医療経済ジャーナリスト・室井一辰さん)

今すぐ適度な運動、質のいい睡眠、栄養バランスのとれた食生活、社会的に孤立しない環境を作ることで「サルコペニア→フレイル」の悪循環を断ち切り、介護リスクの上昇を少しでも先延ばしにしよう。

■90歳以上

病気:寝たきりになる

50歳以降は病気と医療費との闘い! 今すぐそなえて穏やかな老後を迎えよう

女性自身2021年8月2日のWeb記事より転載

 

2021年12月23日 (木)

篠原八幡神社冬至の日

 真か嘘か800数十年の歴史のある地元の郷社である篠原八幡神社は日本の神社100選にも選ばれている由緒ある神社です。冬至の日の出が拝殿の神鏡に入ることでも有名です。12月22日の日の出とともに鳥居の中にオレンジ色の太陽が顔を出す。この鳥居から入射した光が拝殿の御神体の鏡に入り光輝く冬至の日。・・・のはずだったが2015年の冬至から当時の篠原八幡神社の宮司が代替わりしてから、冬至の日に神鏡に入光した陽光は拝めなくなり、拝殿の閉じたままのガラス戸に冬至の日の出が映るようになった。ガラス戸に映る陽光の遥拝となった。
12月22日冬至の日、新横浜の日の出は6時:47分。八幡山に鎮座する篠原神社の冬至の日の出を拝める時は、6:53から7時まで1分毎に篠原神社の鳥居に入る日の出と拝殿に映る冬至の陽光と境内の光景です。

日の出前の篠原神社拝殿
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日の出1分前(6:46)寒々している篠原神社
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日の出1分前の鳥居の方向、東の空が明るくなってきた、八幡山の丘の上に在る篠原神社の日の出は・・・
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鳥居に日の出の瞬間6:53、拝殿への入光を振り返り見る人
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6:53 閉じたままの拝殿のガラス戸に冬至の日の出が反射
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6:54鳥居から入る日の出を撮る人、拝殿への入光を見る人

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6:55鳥居からの冬至の光が参道を走る
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6:56 鳥居からの光が益々明るくなるが逆光で眩しい
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6:56 拝殿の方向は順光で明るく撮れるが鳥居の太陽は逆光
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6:57 眩しい冬至の日の出、カメラにも逆光の証が写る
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6:57 拝殿の撮影は順光、光はガラス戸から屋根の瓦に
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6:57 カメラも逆光が眩しく写る
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6:58 鳥居の中からの遥拝
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6:58 明るくなった拝殿の参拝者も増える
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6:59 鳥居から入る冬至の日の出が光り輝く
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7:00 冬至の日の出ショーが終演に近づく
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7:00 拝殿への光線
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鳥居の脇に在る冬至の日の石碑

この日は衰え始めた身体に融通が効くようにと願って、冬至に湯治の思いで柚子湯に入り風邪を引かないように、腰痛が治るように融通が利くように語呂合わせの縁起担ぎです。冬至に食べるカボチャは子供の時のトラウマ(母親が天婦羅で事故る)なので普段から敬遠しています。冬至に「ん」のつく食べ物を食べると運を呼び込めるという縁起担ぎがあるそうです、うどん・カンテン・ナンキン南瓜など。

 

2021年6月 5日 (土)

湯沢から鎌倉へ結の蔵

 11年前に一番下の孫・小2(7歳)翔君と桜が咲き始めた春休みに臨済宗・鎌倉五山(建長寺・円覚寺・壽福寺・浄智寺・浄妙寺)をお参りした時の今小路にある鎌倉五山第三位壽福寺(じゅふくじ)の11年前の山門の写真です。この時は今小路の「結の蔵」の存在は知りませんでした。

今回の主題は日本酒が飲めない、25歳からビールを飲み始めてビール一辺倒の一生と思われる小生が飲めない日本酒の酒蔵に縁があったお話です。
このブログが縁でITとCADに精通しているコンサルタントのハトコとメル友になる、
祖父同士が兄弟で、親同士が従兄弟(いとこ)で自分とは六等身の縁戚関係になる「再従兄弟:はとこ」です。彼は廃業する前までの秋田県湯沢市の高久酒造の銘酒「小野之里」を取り寄せて愛飲していたそうです。この高久酒造酒蔵が古都鎌倉に「結の蔵」として17年前に移築再生された資料を一年前に頂いていました。
今回は孫の練習ドライブに鎌倉・今小路の建造物は寿福寺しか記憶にないのでナビにここを運転練習の目的地にした。

 

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大学一年生(18歳)となり春休みに運転免許をとりましたので、私の七人乗りのホンダ・スパーダで翔君の運転で初心者マークを付けて鎌倉までドライブをして来ました。運転席に身長180cmの新米ドライバー、隣の助手席に運転歴60年のベテラン爺さんです。久し振りに爺としての孫の面倒をみました。私の祖父は明治10年に本籍地の秋田県湯沢で誕生して、私が荒川区三河島で誕生した6年前に他界しておりますので祖父を知りません。

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普段貼っている高齢者マークの代わりに初心者マークを前後に貼ってのドライブです。(運転席に少し覗いているのは高齢者マーク)

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6月2日、家から小一時間で約30kmの今小路の寿福寺に到着、当日の寿福寺総門は団体の観光客(見学ツアー?)で蜜でした。門前にある駐車場に駐車して本日の目的地の結の蔵へ徒歩で見学へ、今小路を鎌倉駅方面に向かって歩き出す。

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ここは巽神社 寿福寺から200m 鎌倉駅まで400m

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巽神社前の今小路の案内表示、鎌倉駅方向へ⇨結の蔵へ約30m

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今小路の隣は横須賀線、四輪車通行不能の今小路の歩行者と二輪の踏切

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今小路踏切から鎌倉駅ホーム方面、新宿湘南ライン上下線の待機線にNEX車輛

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今小路に面してここが結の蔵、説明板が見える、重そうな土蔵の戸前が開いてある

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結の蔵の民家再生奨励賞の下に由来の説明板、酒蔵の今は賃貸住宅

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結(ゆい)とは、主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度。一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う相互扶助の精神で成り立っている。(ウイキペディアの結の説明)

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結の蔵正面の右側は「0設計室」の移築再生設計事務所 詳しくは下記

URL:http://www.o-sekkei.com/

タイトル:一級建築士事務所 O設計室:民家再生・新築住宅 (o-sekkei.com)

 

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左側はファブラボ鎌倉、21世紀型の学習環境を促進する実験工房

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今小路を観光客を乗せた人力車が通る鎌倉の風景に馴染む結の蔵

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今小路より路地に入り、結の蔵左側面の写真

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結の蔵左側面二階の扉 結の蔵移築再生の一部始終 👇

「結の蔵、民家移築再生はこうして行われた 高久酒造酒蔵」

www.o-sekkei.com/works/photos/04_yuinokura/yuinokura.html

結の蔵は元々秋田県湯沢市の銘酒「小野之里」で著名な高久(たかく)酒造の酒蔵であった。移築前の蔵から発見された棟札には明治21年と記されており大正14年の湯沢市大火や地震・風雪に1世紀以上耐えてきた蔵である。2尺(60cm)間隔に並んだ5寸5分(17cm)角の栗や桧の柱、長さが10間(18m)もある1本物の杉丸太の棟木など構造は雄大であり状態も良かった。さらに大火から蔵を守った厚さ1尺(30cm)の土壁や3か所の巨大な戸前(蔵戸)の仕上げも見事であった。座敷になっていた部分に使われていた総漆塗りの格子戸も精緻なデザインで魅力的だった。

昨年7月北海道の帰路に湯沢図書館でコピーしてきた湯沢の酒造小史

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湯沢図書館の収蔵本。 現在、湯沢市には、日本酒をはじめとした酒類を製造する蔵元が4社あります。全国的に酒の消費が減り、酒蔵の数も年々減少しています。湯沢市も例外ではありません。かつて、最盛期には20を超える銘柄が湯沢の繁華街でも楽しめたものです。今もなお、先人から受け継がれた味を守りながらも、時代を先行する美酒を醸し続ける蔵元です。両関酒造「両関」、秋田銘醸「美酒爛漫」、(株)木村酒造「福小町」、秋田県醗酵工業「一滴千両」の四社です。

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ゆざわの 酒造小史 1頁目は藩政時代、2頁に明治時代、3頁に大正時代、4頁に昭和(現代)の酒造の小史、この2頁の明治時代に高久多兵衛(高砂)は髙久家の本流で「多兵衛」は長男家が継承する屋号でした。高久多吉(小野之里)は分家で次男家の屋号です。40年以上昔に生前の父の指示で湯沢市の東山寺に参拝して本家を訪問した時には酒造業は廃業しておりましたが分家多吉の「小野之里」は繁盛している様子でした。

湯沢図書館で閲覧した「湯沢市史」の第二章 酒造 の685頁に「明治七年湯沢町柳町の高久多吉が母方である帯屋市兵衛酒造店を継ぎ小野之里を売出し名声たちまち遠近にきこえ、年を逐うて需要が殖えていった。」の記述後に
「同年前森町伊藤仁
右衛門が酒造店を開業し両関を出した」の記述もありました。

孫の運転練習のコースは、横横高速を朝比奈ICで下りて鎌倉霊園の曲がりくねった上り坂を通り、鶴ヶ岡八幡宮で若宮大路を左折して、二の鳥居前で若宮大路を右折して新米ドライバーに難しいすれ違いがやっとの狭い道に入り、小町通を横切り、鎌倉駅の手前の横須賀線踏切を渡り今小路に出て右折して結の蔵を素通りしてから北条政子・実朝の墓がある鎌倉五山第三位の寿福寺に無事に到着した。今小路を徒歩で鎌倉駅方面に歩き寿福寺から3~4分約250mの結の蔵へ、移築再生した酒蔵は、今小路に堂々と構える遠い親戚の高久酒造の酒蔵でした。
帰路は鶴岡八幡宮の横を通り、一般道の走り方を教えて45分で家路に無事着き爺としての役目を果たしました。

書き忘れました、酒好きだった父親への供養に、苦手な日本酒を死ぬまでに一度は飲みたいと思います。それも秋田県湯沢の日本酒を!

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